第十二話 呪われた依頼と次なる一手
白鹿亭の朝は、パンが焼ける香ばしい匂いから始まる。
カイルは夜明け前の稽古で汗を流した後、食堂の席で木の匙をゆっくりと動かしていた。体の芯まで染み渡るような温かいスープが、心地よい疲労に満たされた筋肉を優しく解きほぐしていく。窓の外では、トラヴィスの街が少しずつ目を覚ます気配がした。荷馬車の車輪が石畳を転がる音、遠くで響く鍛冶場の槌音。そのすべてが、今のカイルには心地よいBGMのように聞こえていた。
「おや、坊や。なんだか顔つきが変わったんじゃないかい?」
カウンターの向こうから、女将のエイダが快活な声をかけてきた。彼女は両手に皿を抱えながら、小気味よい足取りでこちらへやってくる。
「料理で言えば、じっくり煮込んで味が染みてきたってところかねえ。いい顔だよ!」
「そ、そうですか?」
カileは思わず自分の頬に触れた。自分では気づかない変化を、彼女はいとも簡単に見抜いてしまう。
「ああ、そうさ! 最初の頃は、まるで火にかける前の硬い根菜みたいだったけどね。今は違う。ちゃんと自分の足で立ってる男の顔さ」
エイダはウインクすると、焼きたてのパンを彼の皿に追加で置いてくれた。その屈託のなさが、カイルの心を軽くする。月光草の一件以来、彼はこの宿屋に、ただの寝床以上の、帰るべき場所のような温かさを感じていた。
スープの最後の一滴を飲み干し、カイルは窓の外の喧騒にしばし目をやる。そして、一呼吸置くと、向かいで静かにパンを齧っていた師に声をかけた。
「あの……レオンさん」
レオンは食事の手を止めず、視線だけで続きを促す。その無言の圧力に、カイルは少しだけ言葉に詰まった。
「そろそろ、組合に行ってみませんか。何か、俺たちにできる仕事があると思うんです」
その瞳には、以前のような功を焦る光はない。地に足の着いた、静かだが確かな意志が宿っていた。レオンはゆっくりとパンを咀嚼し、飲み込むと、短く応えた。
「……食事が済んだらな」
その言葉は肯定だった。カイルの胸に、じわりと熱が灯った。
⸻
冒険者組合の重い扉を開けると、昼前の独特な熱気が二人を迎えた。酒の匂いよりも、依頼を探す冒険者たちの真剣な視線が交錯する、仕事場の空気だ。以前はただ圧倒されるばかりだったその雰囲気に、カイルは今、自分もその一部なのだという不思議な高揚感を覚えていた。
彼はまっすぐに依頼掲示板へ向かう。様々な筆跡で書かれた羊皮紙。荷運び、薬草採集、害獣駆除。その一つ一つが、この街の人々の生活と繋がっている。トゲネズミの依頼書の前を通り過ぎ、彼の目は自然と、より困難な討伐任務が貼られている区画を探していた。
その視線が、ふと、掲示板全体の熱気から取り残されたような一角に引き寄せられた。
そこだけが、まるで時間が止まっているかのようだった。
他の依頼書が真新しい羊皮紙であるのに対し、その一枚だけは黄ばんで古び、端は擦り切れてぼろぼろになっている。インクの文字は雨染みのように掠れ、おびただしい数の画鋲の跡が、何度も剥がされては再び貼られたであろう陰鬱な歴史を物語っていた。埃をかぶり、誰からも忘れ去られたように、それは隅に追いやられていた。
【緊急依頼:北方廃墟の調査】
書かれた文字には、どこか不吉な気配がまとわりついている。カイルは、まるで磁石に引かれる砂鉄のように、その依頼書に知らず知らずのうちに手を伸ばしていた。報酬の欄には、信じられないほどの額が記されている。銅等級の冒険者が一生かかっても稼げないような大金だ。
「レオンさん、これ……」
カイルが振り返り、その依頼書を指さした、まさにその瞬間だった。
「触るな」
背後からかけられた声は、今まで聞いたこともないほど低く、硬質的だった。レオンだ。彼の顔からは一切の感情が消え、その双眸は氷のように冷たく依頼書を射抜いている。
「え……でも、報酬がすごいし、調査依頼なら、俺たちにも何か……」
「それは墓標だ」
レオンはカイルの言葉を遮り、吐き捨てるように言った。その声の響きに、周囲のざわめきが一瞬だけ遠のいたように感じた。
「……墓標?」
「何年も前から、あれを受けて生きて帰ってきた者はいない。腕利きの銀等級パーティでさえ、何組も消息を絶った」
レオンはそれ以上、何も語らなかった。なぜそれほど詳しいのか、彼が何を知っているのか、カイルには尋ねることすらできなかった。ただ、師の横顔に浮かんだ深い影が、その依頼の持つ闇の深さを雄弁に物語っていた。
カイルが息を呑んでいると、近くにいた赤毛の受付嬢が、青ざめた顔でそっと声を潜めてきた。
「その方の言う通りよ、坊や。その依頼だけは、絶対に考えちゃだめ。北の廃墟には“何か”がいるの。正体も分からない、ただ、人の命を弄ぶような悪質な何かが……。もう何年も、組合は調査隊の派遣すら凍結してる。あれは、無謀な新入りへの戒めのために残されてるだけなんだから」
墓標、という言葉の重みが、ずしりとカイルの胸にのしかかる。華やかに見える冒険者の世界が、常に死と隣り合わせの荒野であることを、彼は改めて突きつけられた。
「……すみません。知りませんでした」
「忘れるんだな」
レオンの短い言葉には、有無を言わせぬ響きがあった。「今の我々には、見る資格すらない」
彼はそう言うと、カイルの肩を掴み、彼を銅等級の依頼が並ぶ、現実的な区画へと引き戻した。
⸻
カイルの心には、あの古びた依頼書のことが黒い靄のように残っていた。だが同時に、レオンの言葉が彼の気持ちを切り替えさせていた。見る資格すらない。ならば、いつか必ず、その資格を得てみせる。そのためには、今、目の前にある一歩を確実に踏みしめ、揺るぎない力を手に入れるしかない。
彼の目は、やがて一枚の依頼書に留まった。
【東の街道沿い、ゴブリン斥候の討伐】
依頼主は、街と東の村を行き来する商人組合。最近、街道近くの森で三匹ほどのゴブリン斥候が目撃され、荷馬車を狙っている可能性があるという。トゲネズミ一匹とは違う。知恵を持ち、武器を使い、複数で連携してくる、明確な悪意を持った敵。
「あの……レオンさん。これなら、どうでしょうか」
カイルがおずおずと指さすと、レオンは依頼書にざっと目を通し、短く頷いた。
「……問題ない。今の力を試すには、いい相手だ」
受付で依頼書を提出すると、赤毛の受付嬢は先ほどの強張った表情を和らげ、「それなら安心だわ。でも、ゴブリンでも油断は禁物よ。本当に気をつけてね」と心からの声音で送り出してくれた。
組合を出ると、カイルは一度だけ、あの古びた依頼書が貼られていた隅を振り返った。そして、今は前だけを見ようと、ぐっと拳を握りしめた。
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東の街道をしばらく進み、木材を運び出すための脇道に入る。荷車の轍が深く刻まれた道は、森の奥へと続いていた。
「斥候は、必ず痕跡を残す。お前が探せ」
レオンが言った。「俺は後方で警戒する」
「は、はい!」
カイルは緊張に喉を鳴らしながらも、レオンが自分を試していることを理解していた。彼は森で学んだ知識を総動員した。目を凝らし、耳を澄まし、地面に集中する。以前なら見過ごしていただろう、微かな世界のささやきを拾い上げようとする。
折れた小枝。その断面はまだ新しい。
不自然に踏み荒らされた下草。獣の通り道とは少し違う。
そして――獣のものとは明らかに違う、小さな裸足の足跡。
「……ありました。こっちです。多分、半日も経っていません」
カイルは確信を持って、足跡が続く森の奥へと進む。レオンは何も言わず、ただ静かに後をついてくる。その沈黙の信頼が、カイルの背中を力強く押した。
やがて、焚き火の燃えさしと、齧られた獣の骨が散らばる小さな広場に出た。ゴブリンどもの、粗末な野営地だ。燃えさしにそっと手をかざすと、まだ微かに熱が残っている。近くにいる。
カイルは息を殺し、腰の剣の柄にそっと手をかけた。心臓が早鐘を打つが、それは恐怖だけではなかった。これから始まるべきことを予期した、戦士の武者震いだった。
茂みの向こうから、甲高い、不快な笑い声が聞こえてきた。三匹だ。焚き火を囲み、何かを言い争っている。
レオンが風のようにカイルの隣に寄り、囁いた。
「左は俺がやる。お前は右の二匹を引きつけろ。殺せなくてもいい、動きを止めろ」
「……はい!」
カイルは大きく深呼吸をした。トゲネズミの時とは違う。やるべきことが、はっきりと見えている。
レオンの影が揺らめいたと思った瞬間、彼はすでに茂みから飛び出していた。カイルもそれに続く。
不意を突かれた左端のゴブリンが状況を理解するより早く、レオンの剣閃がその喉を切り裂き、音もなく崩れ落ちていた。
残りの二匹が驚いて振り返った瞬間、カイルはその前に立ちはだかった。
「グギャアア!」
一匹が錆びた鉈を振りかざして突進してくる。獣のような直線的な動き。以前の自分なら、力任せに打ち合っていたかもしれない。だが、今のカイルは違った。
(動きを読め。力で受け止めるな。呼吸を見ろ!)
彼は半身になって鉈の軌道を紙一重で逸らすと同時に、踏み込んで相手の体勢を崩す。そして、がら空きになった胴に、稽古で体に叩き込んだ剣の一撃を叩き込んだ。重く、鈍い手応え。ゴブリンは苦悶の声を上げて後ずさる。
もう一匹が、その隙を突いて横から槍を突き出してきた。視界の端で捉えていたが、一体目の対処に追われ、完全には避けきれない。
「しまっ……!」
槍の穂先が肩を掠め、焼けるような痛みが走った。
だが、その槍が深く突き込まれることはなかった。横から飛んできた小石が、ゴブリンのこめかみを正確に打ち据え、その動きを一瞬だけ硬直させる。レオンだ。カイルはその千載一遇の好機を逃さなかった。体勢を立て直し、痛みを咆哮に変えて、渾身の力で剣を薙いだ。
二匹のゴブリンが地面に沈んだ時、森には鳥の声さえ聞こえない、完全な静寂が戻った。
カイルは肩の傷を押さえ、荒い息をついていた。血が滲む肩は熱く、痛い。だが、それ以上に、自分の力で、知恵で、そしてレオンとの連携で明確な敵意を打ち破ったという達成感が、体中に脈打っていた。
「……油断したな。だが、悪くない」
レオンが近づき、カイルの肩の傷を素早く確認する。幸い、服が裂けているだけで、傷は浅い。
「ありがとうございます……。あの、レオンさんがいなければ」
「二人で受けた依頼だ」
レオンは短くそう言うと、手早く傷の手当てをしてくれた。そのぶっきらぼうな優しさが、カイルには何よりも嬉しかった。
彼は、倒したゴブリンを見下ろした。命を奪ったことへの感傷よりも、今は、誰かの日常を脅かす存在を排除できたという、確かな実感が胸にあった。
北の廃墟は、まだ遥か遠い。そこにあるという正体不明の闇に、今の自分が敵うはずもない。
だが、今日、自分はその場所へ続く道を、確かに一歩、踏み出したのだ。カイルは傷の痛みに顔をしかめながらも、木々の隙間から見える空を見上げて、静かに微笑んだ。




