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第十一話 ルクスベリー

 森を抜けると、視界がぱっと開けた。丘の向こうに、トラヴィスの街の赤茶けた屋根と石造りの城壁が見える。二日ぶりに見る人の営みの景色に、カイルは心の底から安堵のため息をついた。革袋の中には、丁寧に布で包んだ月光草が入っている。その確かな重みが、今回の旅の成果を物語っていた。


「戻ってきたな」

 レオンが短く呟く。その声にも、どこか疲労と安堵が混じっているように聞こえた。

「はい……なんだか、すごく長く感じました」

「森の中では時間がゆっくり流れるからな。それに、お前が多くのことを学んだからだろう」

 師の言葉に、カイルは少しだけ胸を張った。


 街の門をくぐり、馴染みのある喧騒に包まれると、ようやく「帰ってきた」という実感が湧いてくる。二人はまっすぐに「白鹿亭」を目指した。

 木の扉を押し開けると、「おかえり!」という弾むような声が二人を迎えた。カウンターの奥から顔を出したのは、エプロン姿の女将エイダだった。


「まあ! 無事だったんだね、心配してたんだよ!」

「ただいま戻りました、エイダさん」

 カイルは旅の汚れが付いた服のもどかしさを感じながらも、笑顔で応えた。彼は背負っていた革袋をそっと下ろすと、中から布包みを取り出す。

「約束の、月光草です」


 包みを開くと、淡い光を放つ神秘的な薬草が姿を現した。食堂の薄暗い光の中でも、その青白い輝きは失われていない。

「まあ……なんて綺麗なんだろう。本当に光るんだねえ」

 エイダは感嘆の声を上げ、少女のように目を輝かせた。


「さあ、すぐに軟膏を作っちまおう。ベルトルドが待ちかねてるよ」

 エイダはそう言って、厨房の片隅にある薬草用の作業台へ二人を招き入れた。彼女は石の乳鉢を用意すると、月光草をちぎって入れ、すりこ木で潰そうとする。

 その時、今まで黙って成り行きを見ていたレオンが、静かに口を開いた。


「待て、エイダ。それでは効き目が半減する」

「え?」

 レオンはエイダの手から月光草を数本受け取ると、こともなげに続けた。

「この草は、強い力で潰すと光を失う。葉に含まれる油分が飛んでしまうからだ。一番いいのは、こうして指で優しく揉み込むようにして油を出し、それを集めることだ」

 レオンの骨張った指が、手慣れた様子で繊細に葉を揉むと、甘く清涼な香りと共に、輝く油がじわりと滲み出てきた。その手つきは、剣を握る荒々しさとは無縁の、まるで薬師のような正確さと優しさがあった。


「レオンさん……どうしてそんなことを?」

 驚くカイルに、レオンは昔を懐かしむように遠い目をした。

「昔、仲間を治療するために、嫌でも覚えた。これも生きるための知恵だ」

 エイダも感心したように頷き、レオンの指示通りに軟膏の準備を進めた。それは、この宿の厨房で生まれた、ささやかで不思議な共同作業だった。


 完成した軟膏を小さな壺に入れると、厨房の奥から、しかめ面のベルトルドが腰をさすりながら出てきた。

「……うるさいと思ったら、帰ってたのか」

 ぶっきらぼうな態度はいつも通りだが、その表情には隠しきれない痛みの色が滲んでいる。エイダはそんな夫に優しく微笑みかけると、出来立ての軟膏を指に取り、彼の腰にそっと塗り込んだ。


 軟膏が肌に馴染むと、月光草の清涼な香りがふわりと立ち上る。ベルトルドはしばらく黙って目を閉じていたが、やがてゆっくりと息を吐くと、驚いたように何度か腰を捻った。

「……痛みが、引いていく……」

 頑固な料理人の顔から、険しい力がすっと抜けていく。彼はカイルの方を真っ直ぐに見ると、ぎこちなく、しかしはっきりと頭を下げた。

「……すまん。助かった。礼を言う」

 その朴訥な感謝の言葉は、組合で受け取る銀貨よりもずっと、カイルの心に重く、温かく響いた。


「さあさあ、お礼はこれからだよ!」

 エイダがぱんと手を叩く。「約束通り、今夜はとびきりのご馳走さ! 腕によりをかけて作るから、ゆっくりしてな!」


 ⸻


 その夜、食堂の隅のテーブルに、二人だけのための特別な料理が並べられた。

 じっくりと火を通した猪肉のロースト、森で採れる数種類のキノコがたっぷり入ったクリームスープ、そして湯気の立つ焼きたての黒パン。どれも心の底から体が温まるような、心のこもった料理だった。


 カイルが夢中で肉を頬張っていると、メインディッシュである猪肉にかけられた、艶やかな深紅色のソースが目に留まった。甘酸っぱい、豊かな香りがする。

「エイダさん、このソース……すごく美味しいです。何の果物ですか?」

 カイルが尋ねると、エイダはいたずらっぽく片目をつぶった。


「それはね、坊やがこの前、市場で女の子を助けたお礼にもらったっていう『ルクスベリー』さ。母親から少しだけ分けてもらったんだ」

「えっ!?」

 カイルは驚いて目を見開いた。

「良いことをした子のためのご馳走にはね、こういう特別なものを使わないと、味がしまらないんだよ。坊やの優しさが、この料理の一番の隠し味ってわけさ」


 自分のささやかな善行が、思いもよらない形で巡り巡って、今、最高のご馳走として自分のもとへ返ってきた。カイルの胸に、じわりと熱いものが込み上げてくる。

 戦いの報酬として銀貨を稼ぐことも冒険者の仕事だ。しかし、誰かのために力を尽くし、その感謝が温かい料理となって心を温めてくれる。これもまた、お金には代えがたい、冒険者の得られる最高の報酬なのだと、彼は初めて実感した。


 カイルはもう一度、ソースのかかった肉をゆっくりと口に運んだ。甘酸っぱい果実の味と、肉の旨味、そしてエイダの想いが渾然一体となって、体の隅々まで染み渡っていくようだった。

 隣では、レオンが珍しく穏やかな表情で、静かに食事を進めている。食堂のランプの温かい光が、師弟のささやかな祝宴を優しく包んでいた。

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