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第十話 月光草

 空が白み始める前の、最も深い静寂に包まれた時間。世界がまだインクを滲ませたような藍色に沈む頃、白鹿亭の裏庭で、乾いた風切り音が規則正しく響いていた。カイルは、夜が明けるのを待たずに一人で木剣を振っていた。街の喧騒はまだ分厚い眠りの毛布にくるまり、聞こえるのは自分の荒い息遣いと、剣が空を切る音だけだった。


(もっと、強くならなきゃ……)


 ドルガンに嘲笑された昨夜の光景が、目を閉じれば今も鮮明に蘇る。あの侮蔑に満ちた目、周囲から漏れた笑い声。不甲斐なさと、またしてもレオンに守られてしまった情けなさ。あの灼けるような悔しさが、今は冷たい朝の空気の中で、カイルの心を静かに燃やす燃料となっていた。


 一振り、また一振り。腕が重くなり、肩の関節が軋むような悲鳴を上げる。足の裏には疲労が鉛のように溜まっていく。だが、彼は止めなかった。昨日より一手でも多く、一息でも長く。師の言葉が、疲労に沈みそうになる体を内側から支えていた。足の運び、腰の回転、そして剣先へと力を伝える流れ。ぎこちないながらも、昨日よりは少しでもましになっていると信じたい。その一心だった。


 やがて、背後に人の気配が立った。振り返らずとも、その静かで揺るぎない存在感は誰のものか分かる。

「……少し、型が崩れている。焦るな。力みすぎだ」

 いつの間にか隣に立っていたレオンが、低い声で指摘する。吐く息が白い靄となって夜明け前の光に溶けた。彼はカイルの腕を取り、腰のひねり方、踏み込んだ足の角度を、無言のまま静かに修正した。言葉は少ないが、彼の骨張った手が触れるだけで、力の流れがどうあるべきか、不思議と体に伝わってくるようだった。

「剣は腕で振るものではない。体全体で振るものだ。足の親指で地面を掴む感覚を忘れるな」


 特別なことは何もない。ただ地道に、昨日と同じ反復練習が繰り返される。しかし、その一つ一つの動作の意味を、カイルは昨日よりも深く理解しようと必死だった。


 太陽がようやく街の屋根の向こうから顔を出し、遠くで一番鶏が鳴く声が聞こえた頃、レオンが「そこまでだ」と声をかけた。汗で全身ぐっしょりと濡れたカイルは、ぜえぜえと激しく息を切らしながら、その場に膝をついた。体は限界まで酷使され鉛のように重いが、心は不思議と澄み渡っていた。朝の光が、まるで祝福のように彼の肩に降り注いでいた。


 ⸻


 宿の食堂で朝食をとっていると、女将のエイダが木の盆を手にやってきた。焼きたてのパンの香ばしい匂いと、野菜がたっぷり入った温かいスープの湯気が鼻をくすぐる。

「坊や、朝から精が出るねえ。裏庭からずっと音が聞こえてたよ。でも、無理して体を壊しちゃ元も子もないからね」

 母親のような温かい眼差しを向けるエイダの言葉に、カイルは「大丈夫です、ありがとうございます」と少し照れながら答えた。


 エイダはにこりと笑うと、ふと思い出したように「ああ、そうだ」と手を叩いた。

「実は、腕の良い冒険者のお二人に、ちょっとしたお願いがあるんだけど、聞いてもらえないかい?」

「俺たちに、ですか?」

「ああ。正式な依頼ってわけじゃないんだけどね。少し珍しい薬草が欲しくて困ってるんだよ」


 彼女が言うには、東の森の奥深く、岩清水が湧き出る苔むした崖の辺りにしか生えない「月光草げっこうそう」という薬草があるらしい。

「夜になると、月の光を吸ったみたいにほのかに光る、綺麗な草なんだ。それを煎じて軟膏にすると、古傷の痛みにびっくりするくらい効くって、昔からこの地方で言われててね。うちの旦那のベルトルド、見た目はあんなに頑丈そうだけど、若い頃に森で大猪にやられた腰の古傷が、この時期になると決まって痛むもんだから」

 エイダは少し困ったように眉を下げ、厨房の方にちらりと目をやった。

「組合に頼むほど大げさなもんでもないし、なにせ場所が少し険しいからねえ。腕の立つ人じゃないと頼みにくくて。もし、稽古のついでにでも採ってきてくれたら、しばらく宿代はタダにするし、とびきりのご馳走も作るんだけど……どうだい?」


 それは、組合の掲示板にはない、人と人との繋がりから生まれた個人的な依頼だった。カイルはレオンの顔を窺う。剣で稼ぐだけが冒険者ではない。いつも世話になっているエイダたちの役に立てるのなら、断る理由はなかった。

 レオンはカイルの目の中に、やりたいという意志が灯っているのを見て取ると、スープの最後の一滴を飲み干してから、静かに頷いた。

「いいだろう。カイルにとっても、良い経験になる。ただの草摘みだと思うなよ」

「本当かい!? いやあ、助かるよ! ありがとう、二人とも!」

 エイダは満面の笑みを浮かべた。その屈託のない笑顔に、カイルの胸も温かくなった。


 ⸻


 二人は干し肉や水袋、ロープ、火打石といった野宿の道具を念入りに整え、街の東門から森へと向かった。

「荷物は自分で確かめたか? 他人に任せるな。自分の命を預ける道具だ」

 出発前、レオンはカイルの背負い袋の紐を一つ一つ確かめながら言った。準備もまた実力のうち。その言葉が、カイルの心に深く刻まれた。


 鬱蒼と茂る木々が陽光を遮り、森の中はひんやりとした緑の空気に満ちていた。足元は落ち葉が積もってふかふかとしているが、時折、木の根やぬかるみが歩みを妨げる。

「カイル、足元を見てみろ」

 レオンが不意に立ち止まる。カイルが言われた通りに地面に目をやると、湿った土の上に動物のものらしい一対の足跡が残っていた。

「これは鹿だ。蹄の跡が新しい。近くに水場がある証拠だ。だが、その近くにこれがある」

 レオンが指さす先には、獣の糞があった。

「狼のものだ。つまり、この辺りは狼が鹿を狙う狩り場になっている可能性がある。覚えておけ、森では常に周りの痕跡に気を配るんだ。無用な争いを避けるのが、一番の生存術だ」

「はい……!」


 レオンは道中、様々なことをカイルに教えた。鳥たちの騒がしいさえずりは蛇が近くにいる知らせであること。木の幹に生える苔の密度で、どちらが日が当たりにくい北側かを知ること。鮮やかすぎる色のキノコや実には、まず毒があると思えということ。それらは、剣の稽古とは全く違う、しかし生きるために不可欠な知識の数々だった。カイルは必死にその全てを記憶に刻みつけようとした。


 日が傾き始め、森の緑が夕闇の色を帯びてきた頃、二人は野宿に適した場所を探し始めた。

「あそこがいい」

 レオンが指さしたのは、風を避けられそうな緩やかな窪地で、近くに小さな小川が流れている場所だった。

「風を避けられ、水もすぐに手に入る。何かあっても、背後は崖で守られている。火を熾しても煙が広がりすぎない。野営地を選ぶ基本だ。ただ漫然と歩くな。常に周囲を見渡し、自分が休むならどこか、戦うならどこかを考えろ」


 カイルは頷き、習った通りに乾いた枝や落ち葉を集める。火打石を打つ手つきは、旅の始まりの頃よりずっと様になっていた。何度か打ち付けると、火花が火口に移り、小さな炎が生まれる。その炎が枝に移り、パチパチと心地よい音を立てて燃え広がっていく様子に、カイルは原始的な安らぎを感じた。

 食事は、質素な干し肉と黒パンだけ。だが、自分たちの知恵と力で確保した安全な場所で、揺れる炎を眺めながら食べる食事は、宿のどんなご馳走よりも腹の底から力が湧いてくるような気がした。


 炎の揺らめきを見つめながら、カイルはぽつりと呟いた。

「俺……本当に、強くなれるんでしょうか」

 稽古をしても、知識を学んでも、ドルガンに嘲笑された時の無力感が、ふとした瞬間に胸の奥で燻る。

 レオンは火に少し太い薪をくべながら、静かに答えた。

「なれるかどうかではない。なるんだ。そのために今、こうしている。昨日の自分より今日の自分が、わずかでも前に進んでいれば、それでいい」

 彼は燃え盛る炎の向こうにある、深い闇に目を細める。

「剣を振るうだけが強さではないぞ、カイル。こうして火を起こし、夜を越す知恵も、獣の気配を察する注意深さも、全てがお前を強くする。本当の強さとは、ただの腕力のことではない。生き抜く力そのもののことだ」

 レオンはそこで一度言葉を切り、遠い目をした。

「俺も若い頃は、力こそが全てだと信じていた。だが、何度も仲間を失った。俺の力が足りなかったせいだとな。だが、ある時気づいたんだ。力が足りなかったんじゃない、知恵が、慎重さが、そして仲間を思いやる心が足りなかったんだと」


 師の珍しい昔話に、カイルは息を飲んで聞き入った。その言葉は、どんな剣の指南よりも、カイルの心に深く染み渡った。

 夜が更け、満天の星が木々の隙間から宝石のように瞬く頃、二人は交代で見張りをしながら、静かな眠りについた。


 ⸻


 翌朝、ひんやりとした朝靄が立ち込める森をさらに奥へと進む。やがて、ごう、と絶え間なく水が岩を打つ音が聞こえてきた。視界が開け、苔むした巨大な崖が目の前に立ちはだかる。崖の中腹からは、幾筋もの清水が白い滝となって流れ落ち、岩肌を濡らしていた。


「ここだ」

 レオンの言葉に、カイルはごくりと唾をのむ。崖は湿った空気をまとい、人を寄せ付けないような荘厳な雰囲気があった。

「月光草は、陽の当たらない、常に湿った岩肌を好む。よく探せ」

「はい!」


 カイルは教わった特徴――「葉は三つに分かれ、茎は銀色に近い」――を頼りに、目を凝らして崖肌を観察する。滑りやすい足元に注意しながら、シダや苔に覆われた岩の隙間を、一つ一つ丁寧に見ていく。そして、薄暗い岩棚の奥、滝の飛沫が霧となってかかる場所に、何か白いものが群生しているのを見つけた。

 それは、自ら光を放っているかのように見えた。月の光をそのまま閉じ込めたかのように、青白い、柔らかな光を放っていた。


「レオンさん! あれじゃありませんか!?」

 カイルが興奮気味に指さす先を認め、レオンは静かに頷いた。

「ああ、月光草だ。見つけたな」

 苦労の末に目的のものを発見した喜びに、カイルの胸は高鳴った。彼はレオンにロープで安全を確保してもらいながら、慎重に崖を少し登り、薬草が根を張る岩棚に手を伸ばす。足場は滑り、冷たい水滴が顔にかかる。だが、彼の心は不思議と落ち着いていた。

 根を傷つけないよう、土ごとそっと掬い取る。


 掌の中の月光草は、ひんやりとしていて、この世のものとは思えないほど神秘的な光を放っている。これを待っている人がいる。ベルトルドの痛みを和らげ、エイダを笑顔にできる。そう思うと、ただの草とは思えなかった。カイルは、剣を振るって敵を倒すのとは違う、静かで、しかし確かな達成感を胸に、その美しい薬草を革袋へそっと仕舞ったのだった。

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