第一話 レオン
夕暮れが田園を赤く染め、長く伸びる影が土の道に落ちていた。老齢の冒険者、レオンは、ゆっくりとオルステッド村の外れに向かって歩を進める。背中には年季の入った剣、腰には小さな革袋。ここは、かつて彼が剣を置き、穏やかな隠居生活を送っていた場所だ。
しかし、長きにわたる平和な日々は、心の奥底で満たされない渇望を燻らせていた。それは、過ぎ去った日々に置いてきた、戦場と仲間たちの記憶。この世界「アースガルディア」には、剣と知恵、そして鋼の意志だけが頼りだ。魔法などという便利なものは存在しない。そして、常に旅人の命を脅かす魔物たちが存在する。再び旅に出る決意を固めた彼の足取りは、決して軽やかではなかったが、確かな意志を宿していた。
レオンの姿は、齢六十手前とは思えないほど堂々としていた。若き日に鍛え上げた筋肉は歳と共に削げ落ちたが、その骨太な体躯は健在で、背中に背負った剣が小さく見えるほどだ。短く切りそろえられた白髪が風に揺れ、日に焼けた顔には深い皺が刻まれている。しかし、その瞳の奥には、今もなお若い頃と変わらぬ、揺るぎない力が宿っていた。
「……久しぶりだな、風の匂い」
土と干し草の香りが鼻をくすぐる。それは、故郷の村の匂いとは違う、新しい世界へと誘う匂いだ。心地よい緊張が背筋を駆け抜け、レオンはそっと目を閉じる。若い頃、戦場を駆け抜けたあの頃の熱い血の記憶が、まだ自分の中に残っていることを感じる。体は衰えたが、幾多の死線を越えて磨き抜かれた技術と、失うことのない知恵は、今も彼を支えていた。
村の小さな屋台で最後の軽食を取る。焼きたてのパンは表面が香ばしく、パリッと音を立てる。一口かじると、中はふわりと柔らかく、小麦の素朴な甘さが口いっぱいに広がる。木製のボウルに盛られたスープからは、湯気がふわりと立ち上り、冷えた頬を優しく撫でた。一口飲めば、じゃがいもとベーコンの旨味がじんわりと舌の上に広がる。レオンはゆっくりと噛みしめるように味わい、遠い日の食事を思い出し、心の中で小さく微笑んだ。
「さて……ぼちぼち、行くか」
剣を背に、再び歩き出す。遠くの茂みで微かな物音が聞こえた。枝の擦れる音、そして獲物を狙う獣のような、低く唸る声。経験から、それが野盗だとすぐに察した。数は三人。小型の野盗だろう。レオンは静かに剣の柄を握り、間合いを測る。長年の経験が、無駄な動きを省き、最小限の力で敵を制する方法を彼に教えている。
最初の野盗が、粗雑な雄叫びと共に突進してきた。レオンは踏み込みを一瞬遅らせ、体を斜めに避けながら剣先を相手の脇腹に滑り込ませる。鋼の冷たさが肉を切り裂き、野盗は悲鳴を上げてたじろいだ。二人目は焦って攻撃を仕掛けてくるが、レオンは道の石を踏んで体勢を微調整し、相手の動きを完璧に読む。そして、剣の峰でその腕を叩き、動きを封じた。最後の三人目も慎重に踏み込み、間合いを詰めるが、レオンの剣はすでに動いていた。一撃で肩口を弾き、相手の戦意を奪う。
戦いが終わると、レオンは深く息をつき、剣を鞘に戻した。倒れた野盗たちは、肩を抑え、脇腹を抱えて苦しんでいたが、致命傷ではなかった。彼は彼らを一瞥すると、無言で土の道に小銭を数枚投げた。
「治療費だ。まっとうな仕事で稼ぎな」
レオンはそう言い残し、背を向ける。夕焼けに染まる地面、風に揺れる草木、遠くで鳥が鳴く声……森の静けさが心にじんわりと染み渡る。戦いの緊張が解け、再び穏やかな時間がレオンを包み込んだ。
道を進むと、遠くに小さな小川が見えた。水面に夕日が反射し、まるで金の帯のように輝いている。レオンは立ち止まり、ブーツを脱いで手を水に浸す。冷たさが全身を駆け抜け、旅の疲れが洗われていくようだ。遠くで小鳥がさえずり、葉の間を涼やかな風が抜ける。少年や少女ではないが、この穏やかな光景を誰かと分かち合いたいと、ふと孤独を感じた。
しばらく歩いた後、道端の小さな野原に腰を下ろす。革袋から干し肉と果物を取り出し、簡単な夕食を楽しむ。干し肉の噛み応え、果物の甘酸っぱさが疲れた体に染み渡る。空を見上げると、夕日が山の稜線にゆっくりと沈み、茜色から深い藍色へと変わっていく。レオンはゆっくりと呼吸を整え、旅の始まりを心に刻んだ。
食事の後、レオンは剣を膝に置き、過去の記憶に思いを馳せる。若き日の仲間たちとの冒険、戦場での恐怖と歓喜、そして失ったもの。体力は衰えたが、積み重ねた経験と知恵は、今も彼の血肉となり、生きている。若者たちにはない、この道の先に何があるかを知る視点が、レオンにはまだ残っている。
夜が訪れ、野原の小さな森でキャンプを張る。焚き火の炎が揺れるたびに影が揺らめき、星空が広がる。風の音が耳に心地よく、焚き火の温かさが体を包む。レオンは剣を膝に置き、静かに火を見つめる。長い間眠っていた冒険者の魂が、再び目覚めようとしている。
「明日もまた、歩き続けるか……」
小さく呟き、目を閉じる。疲れた体に夜の静けさが染み渡り、心は少しずつ軽くなっていく。遠くの森や丘が闇に沈む中、レオンは旅の始まりを静かに噛みしめるのだった。
