8話 ランチタイム
「うわぁぁぁぁっ!!」
絶叫と共に柊夜は跳ね起きた。
荒い息を繰り返しながら、汗ばんだ額に手をやる。
──見慣れた天井。カーテンの隙間からは、白くまぶしい陽光が差し込んでいた。
「……ここ、自分の部屋……?」
そこはアパートの一室、自分のベッドの上だった。
窓の外には昼下がりの穏やかな光が広がり、鳥の声すら聞こえる。まるであの夜が幻だったかのように、現実は静かすぎた。
柊夜は混乱する頭を抑えながら、状況を整理しようと記憶を辿る。
(えっと……確か──姉ちゃんが近所の岩神ノ公園にいるって、霧子さんから連絡があって……一緒に向かったんだよな?
その時すでに空は真っ暗で……そうだ、姉ちゃんの背後から“俺の生き霊”みたいなのが現れて──)
「エグゼ、エグゼだ! 俺、霧子さんと一緒にエグゼに殺されかけたんだっ……!」
叫ぶように口走った瞬間、鋭い痛みが首筋を貫いた。
「……っぐ!」
堪らず首に手を当てる。じん、と残る鈍い痛みに違和感を覚え、慌てて鏡の前に立つ。
映った自分の首には──赤紫の痣がはっきりと残っていた。
まるで強く締め上げられたように指の跡がくっきりと浮かび上がり、そのひとつひとつの位置までわかるほどだった。
(これ……誰かに、首を……)
そして、唐突に蘇る記憶。
(俺……たしか、エグゼにとどめを刺されそうになった霧子さんを、かばって──)
「……その時、後ろから……霧子さんに……!」
ガチャッ。
突然、勢いよくドアが開いた。
「柊夜くんっ、目覚めたのか!」
扉の向こうから、霧子が駆け込んでくる。
その表情は安堵に満ちていて、柊夜の顔を見た瞬間、ホッとしたように目を細めた。
*****
「霧子さん……あの後、何がどうなったの?
俺の首……どうして……?」
柊夜は言葉を選びながらも、真っすぐ霧子の顔を見つめていた。
彼女が無闇に手を出すような人物でないことは、この短い付き合いの中でも感じている。
それでも、喉に残る鈍い痛みと、鏡に映った生々しい痕が、無言の問いかけをしてくる。
どうして、あんなことを?
──理由があるのなら、知る権利くらいはあるはずだ。
「……あの時は、本当にすまなかった」
霧子は静かに、けれどはっきりと頭を下げた。
その所作には真摯な後悔と、覚悟のようなものが滲んでいる。
「君の命を守るには、それしか方法がなかったんだ」
顔を上げた霧子は、どこか疲れた目で柊夜をまっすぐに見つめ返す。
その視線には嘘も誤魔化しもなく、ただ静かな真実が宿っていた。
「君が“エグゼ”と呼んでいたそれは──知っての通り、君の怒り、憎しみ、悲しみ……そうした強すぎる負の感情から生まれた生き霊だ。
けれど、その想いがあまりにも強すぎて、もはや存在そのものが、生き霊の枠を超え始めている」
語るうちに、霧子の額にはじっとりと冷や汗が浮かびはじめていた。
その様子から、彼女があの夜どれほどの緊張と危険に晒されていたかが、柊夜にも伝わってくる。
「柊夜くんも見ただろう……あれはすでに、創造主である君にさえ牙を剥こうとしていた。
本来、生き霊は感情に従属する存在のはずだ。だがあれはもう、君の支配を離れかけている。
あの時点で止めなければ、君の命はもちろん……もっと多くの命が危なかった」
霧子は拳を握りしめた。
「とはいえ、倒すにはあまりにも強すぎた。
だから私は、君の“意識”を落とすことであれを消す方法に賭けた。
生き霊である以上、君の精神に縛られている。意識を遮断すれば、一時的には存在を消すことができる……」
ひとつひとつ、言葉を選ぶように霧子は語る。
その慎重な説明に、柊夜も徐々に冷静さを取り戻し、理解が追いついていく。
「……そういうことだったんだ。
俺、あの時……とっさに霧子さんをかばって……それで……」
柊夜は首元をそっと押さえた。
あの瞬間の混乱と恐怖、そして霧子の決断の重さが、じわじわと胸に染み込んでくる。
「ということは、俺がこうして目を覚ました今……エグゼも、またどこかで動き出してるってこと?」
「……その通りだ」
霧子の声は低く、厳しかった。
その言葉に、柊夜の背筋がほんの少し粟立つ。
「そして先ほども言ったが──あの生き霊は、もはや生き霊の域を逸脱しつつある。
このまま進化が進めば、自我が完全に芽生え、復讐の対象など関係なくなっていくだろう。
その時、あれは人に害をなす“災い”へと成り果てる。だから私は、あれを止めねばならない。そのために──」
「……そのため、に?」
霧子の目に再び強い光が宿る。
その雰囲気に、柊夜は思わず息を飲んだ。緊迫の空気が部屋を支配する。
──彼女は、また命を懸けるつもりなのか。
──いや、それ以上の何かをしようとしているのか?
霧子は、張り詰めた空気をまとったまま口を開いた。
「──飯だ!」
「……え?」
柊夜は一瞬きょとんとした。
霧子は真剣な顔のまま立ち上がると、キッチンと部屋を何度も往復し始めた。
鍋、皿、丼、ホイル包み、冷蔵庫から取り出された弁当パック──机の上に、次々と食べ物が積み上がっていく。
「量っ、ヤバっ!?」
「腕を振るったからな。腹一杯食べてくれ」
「…………」
テレビの大食い選手権でしか見たことのないような食事量。
柊夜は食べる前から胸焼けしそうになる。
そもそもこの量の料理を、霧子のあの細い体のどこに入れるつもりなのか。
もしかして、彼女の内臓は異界と繋がってるとでもいうのだろうか……?
そんな非科学的な疑念が頭をよぎる。
「食材はすべて私が買ってきた。君の冷蔵庫には手をつけていない」
──いや、そこじゃない!
思わずツッコみかけたが、ここで反応したら負けのような気がして黙ってしまう。
「どうした? 食べないのか?」
霧子は箸で大きな唐揚げを摘み上げながら尋ねた。
「いやぁ……あまりの量にビビっただけで……」
「まあ、たしかにそれは否定できん。
だが、私がこれだけ食べるのには理由があるんだ」
そう言うと、霧子は腰にかけていた“柄だけの刀”を取り出した。
「それ、霧子さんが戦ってた時に使ってたやつ……。オーラみたいなの、出てたよね?」
「ああ。これは『妖刀・禍祓』。
私の切り札にして、必殺の一振りだ。
ただ──困ったことに、持っているだけでも“生気”を吸い、振ればさらに莫大なエネルギーを消耗する。
だから私は、人一倍、食事量が必要になる。
……おかげで、我が事務所は常に赤字だがな。ははっ」
霧子は冗談めかして笑うが、柊夜の胸はギュッと締めつけられた。
自分たちのために、ここまで命を削ってくれている人がいる。
エグゼの断罪が終われば、彼女は戦う必要などない。
──でもきっと、霧子は再び戦場に戻るだろう。
(ならせめて……この刀のことを知っておこう。せめて、その危険性だけでも……)
「霧子さん。この刀について、話せる範囲で教えてくれない?」
真剣な眼差しでそう問いかけると──
「ふむ……いいだろう」
霧子は静かにうなずき、『妖刀・禍祓』について語り始めた。