88話 それでも、物語は続く
今回が最終話となります。
朝比奈家の居間。
生活の匂いが残るその空間で、供養の儀式は執り行われることになった。
卓上には、真昼の遺影。その隣には、かつて彼女が大切にしていた鳥のぬいぐるみ——今はもう布の塊に近いそれが置かれている。線香、花、灯明。どれも特別なものではない。ただ、家族の手で整えられた、ありふれた祈りの場だった。
「姉ちゃん……お別れだね」
柊夜の言葉に応えるように、目の前に立つ霊体の真昼が、ゆっくりと頷いた。
「うん。今度こそ、本当のお別れだね」
真昼は穏やかな声で続ける。
「柊夜……前に言ったこと、覚えてる? 焦らずに、一歩ずつ前に進めばいいって」
それは、かつて行われた——失敗に終わった供養のときに、彼女が口にした言葉だった。
「昨日までの柊夜を見て、安心したよ。ちゃんと前に進んでた」
「自分よりずっと強い真田に立ち向かう姿……正直、かっこよかった」
そう言われ、柊夜は照れくさそうに頬を掻いた。
真昼はふっと視線を逸らし、過去を振り返るように言葉を紡ぐ。
「前に供養してもらったあとね……天に昇ったつもりだった。でも結局、あの部屋に戻ってた」
「もう諦めてたんだ。でも……柊夜の成長した姿を見られたから、満足だった」
俯いた真昼の表情が、ほんの少し曇る。
「それを糧にして、魂が消えるまで耐え抜こうって……そう思ってた」
だが——。
「それなのに、柊夜と霧子さんが助けに来てくれた」
「驚いたよ。本当に」
顔を上げた真昼は、柔らかく微笑んだ。
「ナヨナヨしていて、少し頼りない弟だと思ってた。でも……いざというとき、すごく頼れる男になってた」
「姉として、誇らしいよ。自慢の弟」
にかっと笑うその顔に、一筋の涙が伝う。
窓から差し込む光を受けて、その笑顔はひどく眩しく見えた。
「いつもさ……あの砂浜で泣いてた俺を、迎えに来てくれたのは姉ちゃんだった」
「慰めて、頭を撫でて……だから今度は、俺が必ず探し出して迎えに行かなきゃって思ったんだ」
柊夜は、ゆっくりと周囲を見渡す。
そこには霧子、母、かつて付喪神だった存在がいる。
そして胸の奥には、今この場にいない生き霊のエグゼ、不動、友清の姿がはっきりと浮かんでいた。
「それに……俺一人の力じゃない」
「みんなの力があったから、姉ちゃんを救い出せた」
「みんながいたから、絶望にも立ち向かえた」
昨夜の祭りで、一度は逃げ出してしまった自分を思い出し、柊夜は小さく苦笑する。
「……結局、最後は姉ちゃんの世話になっちゃったけどね」
それでも——。
「でも大丈夫」
「もう過去は乗り越えた。俺の中で止まってた時計の針は、ちゃんと進み始めてる」
柊夜の声には、迷いはなかった。
「俺は一人じゃない。これからも大変なことはあると思う。でも……前に進んでいける」
その言葉を聞き、真昼は胸が温かくなるのを感じた。
嬉しさと同時に、ほんの少しの寂しさを抱きながら——。
「柊夜やお母さんに会えたから、もう思い残すことはないって言ったけど……」
真昼は、どこか照れたように、けれど名残惜しさを隠しきれない声で続けた。
「やっぱり、寂しいなぁ……」
「もっと親孝行したかった。生きてたらさ……就職して、自分のお給料でお母さんにご馳走したり、旅行に連れて行ったり……そんなことも、できたんだろうなって」
口元がわずかに歪み、真昼は指先で滲んだ涙を拭った。
その背後で、柊夜の母も静かに涙を流していた。
「……なんでだろうね」
母は、誰にともなく呟く。
「真昼が今、私のことを話してる気がするよ」
姿は見えなくても、声が聞こえなくても。
娘の想いは、確かにそこに届いていた。
「それに……」
真昼は、懐かしむように微笑んだ。
「柊夜とお酒を飲みながら、他愛のない話をしたり、愚痴を言い合ったり……」
「生きてたら、そんな未来もあったのかもしれないね」
言葉の終わりとともに、再び俯く。
「……やっぱり、逝きたくないよ」
「まだ……みんなと、いたい……」
堪えていた感情が決壊し、涙が溢れ出す。
顔はくしゃくしゃに歪み、声も震えていた。
背後で霧子が、数珠を握る手に力を込める。
(まずい……やはり、一日の猶予を与えたのは——)
その瞬間。
柊夜が一歩踏み出し、迷いなく真昼を抱きしめた。
逃がさないように、力いっぱい。
「大丈夫……大丈夫だよ」
静かに、しかし確かな声で言う。
「俺は、いつでも姉ちゃんを想ってる」
「ずっと……ずっとだ」
深く息を吸い、一拍置いて。
「お墓参りだって行く。その時はいっぱい話をしよう。楽しかったこと、辛かったこといっぱい話そう」
「俺は、姉ちゃんのことを忘れない」
腕に込める力を、ほんの少し強めて。
「近くにいなくても、心は繋がってる」
「……姉ちゃんは、一人じゃない!」
その一言に、真昼の涙腺は完全に崩れた。
「うっ……うぁぁぁぁ……!」
嗚咽混じりの声が、居間に響く。
それは、闇の中で耐えてきた孤独も、寂しさも、恐怖も——
すべてを吐き出すような泣き声だった。
真昼もまた、しがみつくように柊夜を抱き返す。
背後で見守っていた霧子は、ふっと力を抜いた。
(……杞憂だったな)
数珠を握る手を胸元に下ろし、静かに息を吐く。
(大丈夫だ……本当に、強くなったな。柊夜くん)
気づけば霧子も、目元をそっと拭っていた。
*****
しばらくの間、真昼は柊夜の腕の中で泣き続けていた。
強くなった弟の温もりが、霊体であるはずの身体にも確かに伝わり、やがて嗚咽は静かに収まっていく。
真昼は、ゆっくりと顔を上げた。
「……もう、いいよ。柊夜」
涙に濡れた目で、少し照れくさそうに微笑む。
「まさか、あなたの前でこんなに泣いちゃうなんてね」
「もう……どっちが年上かわからなくなっちゃった」
そう言って、小さく息を吐いた。
「それだけ、成長したってことだよね」
真昼は柊夜の腕から離れ、そっと距離を取ると、霧子へ視線を向けた。
「……もう、大丈夫か?」
霧子の問いかけに、真昼は静かに、しかしはっきりと頷いた。
「それでは」
霧子は一歩前へ出て、居住まいを正える。
「これより、朝比奈真昼さんの供養の儀式を執り行う」
深く一礼し、静かに目を閉じる。
短い沈黙の後、澄んだ声が経文を紡ぎ始めた。
柊夜も、母も、目を閉じる。
耳に流れ込む経文の響きに身を委ねながら、それぞれが真昼と過ごした日々を胸に思い浮かべていた。
やがて——
真昼の魂が、淡い光を帯び始める。
その輪郭は次第に透き通り、ゆっくりと、確かに天へと引き上げられていく。
その時だった。
居間に響く経文に応えるかのように、供えられていたぬいぐるみ——
布の塊だったそれから、小さな光の球がふわりと浮かび上がった。
光の球は、迷うことなく真昼のもとへと近づいていく。
「……これは……?」
真昼が呟くと、光は彼女の肩にそっと降り立ち、形を変えた。
大きすぎるくちばしが印象的な、丸い鳥の姿——
かつて、彼女が大切にしていたぬいぐるみの姿だった。
『寂しくないよ。一緒に行こう』
柊夜でも、母でも、霧子でもない。
もちろん、真昼自身の声でもない。
けれど、その言葉は確かに、そこに響いた。
霧子はその光の鳥を見据え、小さく息を吐く。
(なるほど……役目を終えた付喪神か)
(魂だけになっても、主についていくとはな……)
やがて、真昼の魂を包む光は、居間を抜け、家を抜け、夜空へと舞い上がっていった。
鳥の光も寄り添うように、その傍らを飛んでいく。
十年の時を、悪意と怨念に囚われていた姉は——
弟と、その協力者たちの奮闘によって、ついに解き放たれた。
朝比奈 真昼は、今度こそ安らかな眠りへと辿り着いたのだった。
*****
供養の儀式が終わり、部屋には静けさが戻った。
線香の煙だけが、細く、ゆるやかに立ち昇っている。
さっきまで確かにそこにいた魂を、形のないものでなぞるように。
煙は天井に触れる前に、ふっと崩れ、居間に溶けていった。
母は、黙々と儀式の片付けをしていた。
供え物を下げ、線香立てを整えながら、ふと手を止める。
「……言っちゃったわね」
小さく呟き、使い終えた線香に目を落とす。
「でも、不思議ね。ちゃんと……見送れた気がする」
その背中を、柊夜は少し離れた場所から見ていた。
彼もまた、線香を見下ろす。
(もう、手を伸ばしても届かない。
それでも——胸の奥に、確かに残っているものがある)
(姉ちゃんは、もう俺を引き上げる側じゃない)
(だから今度は。
俺が、自分の足で立つ番なんだろう)
柊夜は、片付けの手を止め、窓の外へ視線を向けた。
澄んだ空が、静かに広がっている。
「……行ってらっしゃい、姉ちゃん」
線香の煙は、いつの間にか消えていた。
*****
——半年後。
外気はすっかり冷え込み、吐く息が白くなる季節になっていた。
柊夜は、いつも通り大学から帰宅し、重たいドアを閉める。
部屋には、変わらない日常の匂いがあった。
コートを脱ぎ、鞄を置いた、その時だった。
——ぱらり。
風もないのに、紙をめくるような音がした。
柊夜が振り返ると、本棚の最上段から、一冊のアルバムが音もなく滑り落ちていた。
まるで何かを伝えるかのように……。
「……」
胸の奥が、ひくりと揺れる。
——デジャヴ。
半年前。
真昼の供養のために、奔走した日々。
霊、呪い、人の悪意。
霧子と、不動と、友清と……そして、姉ちゃん。
あれから、世界は少しずつ元の形に戻っていった。
——霧子は、相変わらず探偵業と除霊師の二足草鞋。
ただし、以前のような切迫した生活ではない。
元特A級呪殺師・相楽 常道の討伐。
厄災級大怨霊・"鬼ノ背神"の封殺。
世間を騒がせた“観衆の呪詛”を、事実上終息させた功績。
それらが評価され、霧子はB級からA級除霊師へ昇格した。
多額の報酬と、組織からの固定給。
生活には、はっきりとした余裕が生まれている。
——柊夜は供養が終わってから数日後、ふと不安に苛まれていた。
(……除霊費、いくらになるんだろ)
以前、暴走した生き霊・エグゼの鎮静後に請求された額は三百万円だった。
そこから新たに、相楽との戦い。鬼ノ背神を宿した真田との死闘の分が上乗せされる筈だと考えた。
考えれば考えるほど、恐ろしい金額になっていく。
だが、霧子から請求が来ることは、最後までなかった。
理由を問うと、彼女は淡々と言った。
——今回の功績は、柊夜くんがいなければ成り立たなかった。
だから、報酬の一部を除霊費に充てただけだ、と。
それでも柊夜に渡す分だと、数百万円を差し出された時。
柊夜は、顔を引きつらせて首を振った。
「む、無理……無理です。怖いです……」
霧子は少しだけ目を丸くし、困ったように笑った。
——事件現場となった廃墟は、すでに取り壊されている。
今は、小さな祠が建てられていた。
建立の日。
そこに立ち会っていたのは、霧子と不動だった。
「嬢ちゃん、すげぇな。あの鬼ノ背神とやり合って、生きて帰ってくるとはよ」
不動は首をひねりながら言った。
霧子は、祠を見上げてから、短く答える。
「……柊夜くん。それから、みんなのおかげさ」
それ以上は、何も語らなかった。
——友清は、相変わらずだ。
ひとつ違いがあるとすれば、今回の彼女とは、今も続いていることだ。
柊夜は、その恋路を心から応援していた。
ある日、友清が妙に歯切れ悪く切り出した。
「なぁ……俺のダチの合コンなんだけどさ。人が足りなくて……」
半分、いや——ほとんどダメ元。
そんな声音だった。
「お前がこういうの苦手なのは分かってる。でも……お願いできないか?
埋め合わせは必ずする。人助けと思って……」
柊夜は、一瞬だけ考え——そして、頷いた。
「……なんか、たまには。こういう羽を伸ばすのも、いいかなって」
友清は、目を見開いて固まった。
——ふと、意識が現在に引き戻される。
床に落ちたアルバムを拾い上げる。
ページの間から、一枚の写真が、はらりと落ちた。
それはかつて、霊障によってひどく腫れ上がった真昼の顔。
——の、はずだった。
だが。
そこに写っていたのは、眩しいほどの笑顔で、こちらを見つめる姉だった。
「…………」
柊夜は、何も言わず、その写真を見つめる。
その顔は笑っていた。
——長い旅路の果てに、未来は在った。
今回で柊夜の物語は完結です。
想定よりかなり長くなってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
ここで締めようと思ったのですがあとほんの少し、エピローグがあります。
ぜひ読んでいただければ幸いです。




