87話 心の奥に潜む最後の呪い 後編
夏祭りのクライマックス。
俺たちは高台に並び、夜空を見上げていた。
霧子さんは、打ち上げの時を待ちながら、子どものように目を輝かせている。
「楽しみだな。こうして誰かと祭りを回るのは、本当に久しぶりだ」
その横顔を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
綺麗だ。
普段とのギャップが、ひどく愛らしい。
もう少し近くにいたい。
この時間が、終わらなければいい。
——好きだ。
感情が形になるより早く、身体の内側で別の何かが広がった。
ぬめつくような、不快な感覚。
胸の奥に黒い染みが滲み出し、さっきまでの温度を一気に冷やしていく。
(……違う)
こんな感情は、違う。
惹かれた瞬間、身体の内側がざわつく。
胃の奥が冷えて、胸の奥に粘つく何かが絡みつく。
(汚れる……)
感情が湧くたびに、俺は少しずつ変質していく。
元の自分が削られて、代わりに得体の知れないものが増えていく。
そんな自分になるのが、心底、嫌だった。
「柊夜くん」
名前を呼ばれて、身体がびくりと跳ねた。
「今日は、随分と考え事が多いようだが……大丈夫か?」
心配そうに覗き込まれる。
その視線が、さらに胸をかき乱す。
——やめろ。
そんな目で見るな。
「だ、大丈夫だよ」
平然を装って、言葉を重ねる。
「それより、これからどの屋台を回ろうか。唐揚げとか……高いけど、味は悪くないし」
悟られるな。
この心に、蓋をしろ。
「……あ」
言葉を続けようとした、その時。
パァン、と乾いた音が夜空を裂いた。
一発、また一発。
花火が咲き、夜を鮮やかに塗り替えていく。
周囲の歓声とは裏腹に、俺の視線は空に向かなかった。
花火に照らされた霧子さんの白髪が、淡く色づく。
横顔が、光の中で浮かび上がる。
綺麗だ、と思った。
抑え込んだはずの感情が、堤防を越えて溢れ出す。
「……好きだ」
声にしてしまってから、気づいた。
霧子さんが、そして姉ちゃんまでもが、俺の方を見ていた。
驚いたような、その表情を前にした瞬間——
俺の胸の奥で、何かが音を立てて壊れた。
芽生えかけた感情を、嫌悪が踏み潰す。
拒絶が拒絶を呼び、制御を失って膨れ上がる。
——違う。見るな。
こんなものを抱いた俺を見るな。
自分が自分でなくなっていく感覚に、吐き気がした。
このまま染まってしまう。
あいつと同じ“側”に、堕ちてしまう。
——ダメだ。
ここにいたら、壊れる。
そう思った次の瞬間、喉の奥から声が溢れ出していた。
「うわぁぁぁぁぁぁ!!」
自分の叫びに、自分が一番驚いた。
霧子さんも、姉ちゃんも、周囲にいた人間全員が、凍りついたような顔で俺を見る。
——構うものか。
もう、この場にはいられない。
俺は、俺が信じてきたものを守らなきゃいけない。
「柊夜! 柊夜っ!」
姉ちゃんの声が背中に刺さる。
……ごめん。
せっかくの思い出を、台無しにして。
結局、俺は何も変わっていなかった。
いや——違う。
そのとき、昨夜のエグゼの声が、脳裏を掠めた。
『違う。君は変わった。強くなった』
変わった?
強く……?
足を止めかけて、すぐに首を振る。
確かに、最初の頃の俺とは違う。
それは否定できない。
でも——。
汚れて、黒く染まって。
それは成長なんかじゃない。
むしろ、前よりずっと"醜く"なっただけだ。
「あぁぁぁぁぁっ!」
俺は人混みを掻き分ける。
ぶつかって、よろめいて、それでも止まれない。
『柊夜。お前も同じだ』
真田の声が、追いすがるように蘇る。
『どれだけ否定しても、腹の底じゃ分かってるはずだ』
分かりたくなかった。
『欲しいって気持ちを、抱えたまま生きてる』
違う。
そうじゃない。
そう思いたかった。
『俺と——同じ場所に立ってる』
その言葉が、胸の奥で何かを決定的に砕いた。
もう、否定できない。
否定し続けてきたその感情が、確かにそこにあることを。
俺は——
好きだという気持ちを抱いたまま、ここまで来てしまった。
それを“穢れ”と呼ばずに、何と呼べばいい。
気づけば俺は、会場を飛び出していた。
舗装の途切れた、人気のない山道。
ただ前へ。
逃げるように、縋るように。
俺は、一心不乱に走っていた。
*****
「待ちなさい! 柊夜っ!」
背後から、叩きつけるような声が飛んできた。
「……っ!」
反射的に足が止まり、振り返る。
そこに立っていた姉ちゃんは、いつもの姉ちゃんじゃなかった。
柔らかな微笑みも、穏やかな眼差しもない。
ただ、鬼気迫るほど真剣な目で、まっすぐ俺を射抜いていた。
——逃げられない。
そう直感した瞬間、足の裏が地面に縫い止められたみたいに、身体が動かなくなった。
「私、霊体だから。色々すり抜けて、先回りしたの」
姉ちゃんは淡々と言った。
「霧子さんも柊夜を探してる。でも、まだ来ない」
一拍置いて、静かに続ける。
「……今は、いない方が都合がいいね」
胸に手を当て、息を整えるようにしてから、姉ちゃんは俺を見据えた。
「ねえ。どうして、そんなに自分の気持ちを否定するの?」
今さら、何を——。
姉ちゃんは、その欲望に殺された被害者だ。
その欲望と同じものを、弟の俺が抱えている。
それでいいなんて、思えるはずがなかった。
「……柊夜」
低く、押し殺した声。
胸に当てていた手を、ぎゅっと握りしめる。
そして一歩、距離を詰める。
まるで、俺を絶対に逃がさないと言わんばかりに。
「俺は……穢れた」
ようやく声にした一言。
吐き出したはずの言葉が、地面に落ちる前に霧散した気がした。
自分の声なのに、ひどく遠い。
「もう、霧子さんに……会わせる顔がない。
明日の供養の儀式も……行けない」
違う。
行けないんじゃない。
行こうとしていないだけだ。
最低だ。
姉ちゃんが、どれだけその日を待っていたか。
分かっているはずなのに。
傷ついたままの自分を盾にして、その場に立つ責任から、目を逸らそうとしている。
——どこまで堕ちるんだ、俺は。
底なんて、最初からなかった。
ただ、下へ下へと逃げ続けているだけだ。
「分かってるよ」
姉ちゃんは、即座に否定しなかった。
「柊夜が、何にそんなに苦しんでるのか」
静かな声で、しかし確信をもって言う。
「真田に言われたこと。私も、あの場で全部聞いてた」
「……だったら」
思わず、言葉が荒れる。
「放っておいてくれよ。俺も一皮剥けば、真田と同じ——」
「ふざけるなっ!!」
怒声が、空気を裂いた。
俺の言葉を、姉ちゃんの声が完全に上書きする。
「柊夜が、真田なんかと同じ?
勝手に私の大切な弟を、あんな奴と一緒にするな!」
一歩、踏み込む。
「それを言うのが他人でも許さない。
まして——柊夜自身が言うなんて、私は絶対に許さない!」
普段、決して聞くことのない強い口調だった。
口元をきつく結び、優しげだった目は鋭く吊り上がっている。
その迫力に、俺は言葉を失った。身体が、完全に固まってしまう。
姉ちゃんは、俺をまっすぐ見つめたまま、静かに問いかけた。
「柊夜。あなたは本気で、そう思ってるの?」
一呼吸置いてから、続ける。
「じゃあ聞くけど——
“欲しい”って思っただけで、人は人を殺すの?」
……あり得ない。
そんなこと、言うまでもない。
でも。
「もちろん違う」
即座に答えた声は、思ったよりも強かった。
「そんなの、分かってる。分かってるんだよ」
だからこそ、言葉が詰まる。
「分かった上で……俺は、この感情を許せないんだ」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
「この感情が、姉ちゃんを殺した。
それは……紛れもない事実だから……っ」
本当は分かっている。
俺のこの気持ちが、霧子さんを殺すことになるはずがないなんて。
そんなこと、理屈では百も承知だ。
それでも。
長い間、心の奥に押し込めてきた想いは、
そう簡単に切り分けられるものじゃなかった。
「……もう、放っておいてくれよ」
言葉が、弱くこぼれる。
「俺は、そういう人間だって思ってくれ」
——ごめん、姉ちゃん。
俺は、まだ考えを改められない。
姉ちゃんは、しばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐く。
「……そっか」
その声は、怒りでも失望でもなかった。
「もしね、柊夜が生まれつき、人を好きになれないとか、そういう気持ち自体が苦手だって言うなら……」
少し視線を落とし、続ける。
「私は、何も言わない。言えないよ」
でも、と前置きして、姉ちゃんは顔を上げた。
「違うよね?」
胸を射抜くような目だった。
「柊夜は、人を好きになってる。
ただ……私の死を理由に、その気持ちに蓋をしてるだけだよね?」
違う。
それじゃあ、まるで姉ちゃんが——
「お願い」
姉ちゃんの声は、震えていた。
「私のことを理由に、本当はあったはずの幸せを捨てないで」
一歩、近づく。
「柊夜が、私に安らかに成仏してほしいって思ってくれるのと同じで……」
涙を浮かべながら、はっきりと言った。
「私も、柊夜に笑って過ごせる未来に進んでほしいの!」
言葉のひとつひとつが、胸に突き刺さる。
本当は、「分かった」って言いたい。
一言で、自分の心を認めてしまいたい。
でも、そのたびに——
「……ダメだ」
俺は、首を振った。
「ごめん。ダメなんだ」
視界の奥に、あの顔が浮かぶ。
「それを認めようとした瞬間、どうしても真田の顔が、頭をよぎる」
喉が、ひくりと鳴る。
「……自分が、真田になってしまうみたいなイメージが浮かぶんだ」
必死に言い訳を探す。
「この気持ちを封印したままでも、幸せになれ——」
「友清くんは?」
唐突に、姉ちゃんが遮った。
「あなた、友清くんのことはどう思うの?」
涙をこぼしながら、震える声で続ける。
「柊夜の嫌いな“その感情”、友清くんも持ってるよ?」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「あなたの大切な友達も……真田と同じなの?」
……違う。
友清は、いい奴だ。
応援してるし、幸せになってほしい。
——あれ?
同じ欲望のはずなのに。
いや、違う。
友清がそれを持つのは、許せる。
肯定できる。
だけど。
姉ちゃんの弟である俺が、それを肯定しちゃいけない——
「……友清は、そんな奴じゃない」
気づけば、即答していた。
「いい奴だよ」
その言葉だけは、迷いなく口にできた。
——はっきりと。
姉ちゃんは、少しだけ力を抜いた表情で、俺を見た。
「……ちゃんと、分かってるじゃない」
穏やかな声だった。
「そうだよ。友清くんと真田は、全然違う。
そもそもね、同じ感情だって一括りにしてしまうのが、もう間違いなんだよ」
一括り——。
でも、根っこは同じじゃないのか。
原始的で、動物的で、生々しくて。
ずっと俺が嫌悪してきた、あの感覚。
姉ちゃんは、はっきりと言った。
「真田は、私を人として見てなかった」
その言葉には、迷いがなかった。
「自分の欲求を満たすための道具。
それ以上でも、それ以下でもなかった」
胸が、きゅっと締めつけられる。
「でもね」
言葉は続く。
「友清くんは違う。
……柊夜、あなたも違う」
俺を見つめる、その目は、まっすぐだった。
「相手を、対等な人間として見てる。
確かに、下心がゼロじゃないこともあるかもしれない」
それを否定せず、受け止めた上で。
「でも、それだけじゃないでしょ?」
一つ、指を折る。
「一緒にいたい」
もう一つ。
「喜ばせたい」
そして、静かに言った。
「——相手のためを想う」
胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。
「柊夜たちのそれは、ただの“欲望”なんて言葉で片づけられるものじゃない」
首を振りながら、続けた。
「いろんな感情が重なって、絡み合ってできたもの。
ひとつの衝動じゃない。
ひとつの言葉じゃ、語り尽くせないものだよ」
……友清は、言っていた。
『大切にする』と。
そして俺も、今日。
霧子さんが祭りを楽しんでいる姿が嬉しかった。
無茶をするところを見て、心配になった。
何にでも真剣すぎるくらい真っ直ぐ向き合える彼女を尊敬している。
——だから、好きになった。
真田のような、奪うための欲望とは違う。
そっちじゃない感情の方が、ずっと大きい。
それはもう——
「……別物、だね」
気づけば、そう口にしていた。
「ごめん。姉ちゃんの言う通りだ」
胸の奥を、長い間縛りつけていた“それ”が、音もなく、ほどけていくのを感じた。
姉ちゃんは、少し不安そうに俺を見て。
「……柊夜。分かってくれた?」
「うん」
素直に、頷く。
「ありがとう。……でも、最後まで世話になっちゃったな。
ごめん。せっかくの思い出作り、台無しにしちゃって」
姉ちゃんは、きょとんとした顔をしてから、くすっと笑って、会場の方を指差した。
「何言ってるの?」
柔らかな声だった。
「花火は終わっちゃったけど、お祭りは、まだ終わってないよ」
にっこりと笑う。
「残りの屋台も回ろう? ……大丈夫だよね?」
その笑顔を前にして、俺の答えは、最初から決まっていた。
「うん!」
こうして俺は、再び会場へと向かった。
残された時間を——
大切な思い出にするために。
*****
会場に戻った、その時だった。
「よかった……柊夜くん。心配したぞ。大丈夫か?」
霧子さんが、少し早足で駆け寄ってくる。
眉をひそめたその表情に、胸の奥がじんとした。
「大丈夫。ちょっと……勘違いしてたことがあっただけだよ」
一度、言葉を切る。
胸の中を整理するように、ゆっくり息を吐いた。
「でも、間違ってたって分かった。だから——今することは、ひとつだけ」
一拍置いて、俺は続ける。
「姉ちゃんと。霧子さんと。今を楽しむこと……だよね」
隣で、姉ちゃんが静かに頷いた。
それを見て、霧子さんの表情がふっと緩む。
「……そうだな」
彼女は小さく笑い、俺の手を取った。
「ち、ちょっ……」
「すまん。あっちに、美味しそうなものがあってな」
ぐい、と引かれる腕。
戸惑う俺をよそに、霧子さんは振り返って言った。
「みんなで食べよう」
その笑顔は、今日一日で一番明るかった。
夜空に咲いた花火よりも、ずっと。
姉ちゃんも、その隣で微笑んでいる。
それからしばらく——
屋台を回り、他愛のない話をして、笑って。
ふたりと過ごす最後の夜を、静かに、確かに噛みしめた。
そして俺たちは、笑いながら家路についた。
次回最終回+エピローグ
金曜夜更新予定です




