86話 心の奥に潜む最後の呪い 前編
夜も老けた頃。
俺は自室のベッドに寝転び、天井を見つめながら一人、思いに沈んでいた。
姉ちゃんは救われた。
——“例の事件”は、ようやく本当の意味で終わった。
よかった。
本当に、よかった。
これで俺も、日常に戻れるのだろうか。
そう思った瞬間、胸の奥にわずかな空白が生まれる。
……少し、寂しい。
「し……ぅや……柊夜くん」
隣から、ノイズが混じったような声がした。
視線を向けると、そこに彼がいた。
漆黒のマントを翻し、鋭く逆立つ髪。禍々しくも整然とした装飾に覆われた男——エグゼ。
だが、その存在感は驚くほど薄い。
まるで、今にも溶けて消えてしまいそうだった。
「エグゼ……」
『間もなく、霊力も底をつく。最後に話をしたくてな』
穏やかな声だった。
憎しみから生まれた存在とは思えないほど、すっきりとした表情。
『私は完全に消える。もう"怨芽"として、君の中に残ることもない』
その言葉は、長いあいだ俺の心を蝕んできた“憎しみ”からの解放を意味していた。
喜ぶべきだ。そう分かっている。
なのに——胸が、ちくりと痛む。
まさか、生き霊に対して、"こんな"感情を抱くなんて。
『知っての通り、私は君の一部から生まれた存在だ。だから、君が何を考えているかも分かる』
『寂しいと思ってくれるのは嬉しい。だが私は過去の憎しみ。私が消えるということは、君が未来へ踏み出すということだ』
『だから、そんな顔をするな』
視界が滲んだ。
……ああ、俺、また泣いてるのか。
『“変わらない”と思っているだろ?』
エグゼは首を振る。
『違う。君は変わった。強くなった』
『君の憎しみの象徴である私の“本質”さえ変えた。それが何よりの証だ』
『君は過去から卒業した。——乗り越えたんだ』
そう言って、エグゼは微笑んだ。
『これからも迷うことはある。だが、私という憎しみを乗り越えた経験は、必ず君の力になる』
『自信を持って、未来へ進め』
「ありがとう」
俺は涙を拭い、無理にでも笑ってみせた。
「今までの憎しみを上書きするくらい、人生を楽しむつもりだ」
『それでこそだ』
エグゼの輪郭が、ゆっくりと崩れていく。
『もう……時間だ……』
『あとひとつ……君は……乗り越え……過去……でも――』
言葉は途切れ、姿は霧のように薄れていく。
『大丈夫だ!』
その一言を最後に、エグゼは完全に消滅した。
……意味深な言葉を残して。
俺はまだ知らない。
それが何を指していたのかを。
だが間もなく、理解することになる。
俺の心の奥に潜む——最後の呪いと、向き合う時が来ることを。
*****
翌日。
昼食を終え、居間でごろりと横になって過ごしていた。
霧子さんは、昨夜の除霊の後処理のため事件現場の家へ向かっている。
家の中は、驚くほど静かだった。
……静かすぎて、眠くなる。
まぶたが重くなりかけた、そのとき。
——ピロリロリン♪
スマホの通知音が鳴った。
画面を覗くと、大学の友人——友清からのメッセージだった。
『新しい彼女できた!
今度こそ愛想つかれないように大切にする。
いや、いつもしてるけどさ?
今まで以上にって意味な。
朝比奈も応援よろしく!』
添付されていた写真には、同年代の女性と並んで、満面の笑みでピースをする友清の姿。
「……」
俺は、自然と口元を緩めていた。
『——応援してる。あまり浮かれすぎないように……っと』
そう返信する。
あいつは昔から、浮かれるとすぐ暴走する。
テンションが上がると、奇行に走るタイプだ。
でも——。
(はは……)
そういうところも含めて、憎めない。
それに、あのとき。真田に拉致されそうになった俺を、身体を張って助けようとしてくれた。
本当に、友達思いなやつだ。
今度の彼女さんには、友清の良さがちゃんと伝わるといいな。
「……ふふっ」
思わず、笑いが漏れた。
「柊夜? 何、笑ってるの?」
背後から声がした。
「うわっ!? 姉ちゃん、いつの間にそこに!」
「ひどいなぁ。ずっと居間にいたよ?」
姉ちゃんは、少し拗ねたように笑った。
今日は、供養を一日だけ延ばして、霊体のまま家族と過ごすことになっている。
俺には姉ちゃんの姿が見えるけれど、幽霊だからか、ときどき気配がふっと薄れることもある。
それにしても——。
霧子さんに「一日待ってほしい」と頼んだときの、姉ちゃんの表情。
どこか、引っかかるものがあった。
(……まだ、何か心残りがあるのか?)
俺にできることが、あるならいいんだけど。
「で、何がそんなにおかしかったの?」
「ああ。友清がさ……俺の友達なんだけど、新しい彼女ができたみたいで」
「へぇ……」
姉ちゃんは、少しだけ間を置いてから、こう聞いてきた。
「——柊夜は、友清くんのこと、どう思ってるの?」
その瞬間。
空気が、わずかに変わった気がした。
気のせいかもしれない。
でも、今の質問には、妙な重みがあった。
「ど、どうって……」
俺は言葉を探しながら続ける。
「頑張ってほしいと思うよ。あいつ、いいやつなんだ。この前だって、真田に襲われたとき——」
気づけば、友清の話で盛り上がっていた。
一度も会ったことのないはずの友清の話を、姉ちゃんは楽しそうに聞いている。どうやら、彼を気に入ったらしい。
「ただいま」
玄関から、母さんの声がした。
「……あれ? 柊夜、一人で話してる?」
「いや、その……」
「……ああ。そこに真昼がいるのね?」
補足しておくと、母さんには姉ちゃんの姿は見えない。
だから母さんの目には、俺が楽しそうに独り言を言っている、少し不気味な光景に映っているはずだ。
「柊夜。それに、真昼もいるんでしょう?」
母さんは、優しい声で続けた。
「霧子さんが帰ってきたら、三人で夏祭りにでも行ってらっしゃい」
そういえば、この地域では毎年、お盆に祭りがある。
小規模だけど、だからこそ味のある、静かな祭りだ。
母さんは、見えないはずの姉ちゃんに向かって、微笑んだ。
「真昼……楽しんできて」
きっと母さんなりに、姉ちゃんが最後の思い出を作れるよう、気遣ってくれたのだろう。
俺と姉ちゃんは、顔を見合わせる。
こうして俺たちは、祭りへ行くことになった。
——それが、俺の心の奥に残った“最後の呪い”へと近づく、一歩になるとも知らずに。
*****
夕陽が沈み、空は群青へと溶けていく。
それでも辺りは、昼間よりも明るいほどに賑やかだった。
俺と姉ちゃん、そして霧子さんは、風切市の夏祭りの会場に来ていた。
日が落ちても、夏の蒸し暑さはまだ肌にまとわりつく。
けれど、不思議と不快ではない。
この熱気さえ、祭りの一部のように感じられた。
「いやぁ……祭りに来たのは何年ぶりだろうな。まだ家族がいたころに——」
霧子さんは、ふと遠くを見るような目をしたが、すぐに首を振った。
「……いや、湿っぽい話はナシだ」
そう言って、彼女は屋台の一つを指差す。
「射撃だ。あれをやらないか? 私と競い合おう」
いつも冷静で、どこか大人びた霧子さんが、珍しく子どものようにはしゃいでいる。
提灯の光を受けた横顔は、どこか柔らかくて——。
(……なんだか、いいな)
そんなことを考えている自分に気づいて、胸がひくりと跳ねた。
「柊夜? 何をぼーっとしてるの? 早く行かないと、霧子さん行っちゃったよ?」
姉ちゃんの声で我に返る。
「ご、ごめん。ちょっと考え事してた」
考え事?
俺は、何を考えていた?「なんだかいい」って、何が? 今の俺は、どういう感情を抱いて——。
(ダメだ。ダメだダメだ)
頭をぶんぶんと振り、思考を追い払う。
俺は慌てて、霧子さんの後を追った。
背後で、姉ちゃんが何か言いたげに黙り込んだ気がしたが、振り返る余裕はなかった。
射撃に、型抜き、金魚すくい。
お馴染みの屋台を、俺たちは次々と巡った。
「大量だが……ちょっと持ちづらいな……」
霧子さんは、顔が隠れるほどの景品を抱えながら歩いていた。
彼女は驚くほど器用で、射撃でもすくいでも景品を片っ端から手に入れていく。
屋台泣かせとは、まさにこのことだ。
「さすがに前、見えにくいよね? 俺も持つよ」
差し出された袋の半分を受け取る。
霧子さんは、少し照れたように笑った。
「思い出の夏祭りにしようと思ってな。そう思うと、つい張り切ってしまったんだ。正直な話、景品の大半は私には必要ないんだが……」
隣でその様子を見ていた姉ちゃんが、柔らかく微笑む。
「いつも無駄のない霧子さんでも、そういう一面があるんですね」
「あ、いや……申し訳ない」
「謝らないでください。より親しみやすい人って感じがして、ステキですよ」
姉ちゃんは、心から楽しんでいるようだった。
ただ漂っているだけで退屈していないか心配していたが、杞憂だったらしい。
「柊夜くん!」
霧子さんが、少し離れた場所から手を振る。
「これから花火らしい。高台に急ぐぞ!」
そう言うと、彼女は軽やかに階段を駆け上がっていった。
*****
姉ちゃんとの別れは、霧子さんとの別れでもある。
そんな考えが、唐突に胸に浮かぶ。
(……別れたくない)
もっと、霧子さんと——。
胸の奥で、熱を帯びた何かが芽生えた。
それが何なのか、言葉にする前に、俺は必死に打ち消す。
(違う。そんなの、違う)
胸に浮かんだ熱を、俺は反射的に否定した。
——“好き”だなんて。
そんな言葉で呼んでいい感情じゃない。
真田は、姉ちゃんに欲望を向けた。
異性として見て、触れたいと願って、踏みにじった。
その果てに、姉ちゃんは全てを踏み躙られて殺された。
だったら——。
異性を好きになるという感情そのものが、あいつと同じ場所から生まれるものなんじゃないのか。
恋。
好意。
惹かれる気持ち。
それは全部、形を変えただけの欲望で、一歩踏み外せば、人を傷つけ、奪う側に回るものだ。
(……違う、違う)
霧子さんを見て、心が動いた自分を、俺は必死に切り捨てる。
そんな感情を肯定した瞬間、俺は姉ちゃんを殺した側と、同じ場所に立つことになる。
その瞬間、身体の内側で何かが蠢いた。
胃の奥で、冷たい指が絡みつくような感覚。
胸の底に沈殿していた黒い澱が、静かに形を変えていく。
——それは、怒りでも憎しみでもない。
もっと生々しくて、もっと忌まわしい“拒絶”だった。
(……気のせいだ)
俺は、その感覚を無理やり押し殺し、階段を駆け上がった。
霧子さんの背中を追いながら——
俺はまだ、自分の心の奥に残った"好きという感情そのものを呪う毒"に、気づいていなかった。




