85話 十年越しのただいま
煙の匂いに導かれるように、三人は赤に塗り潰された世界を進んでいた。
地も空も、どこまでも同じ色。歩けど歩けど景色は変わらず、この先に出口があるとは到底思えない。
それでも、真昼だけは迷わなかった。
「だんだん……匂いが、強くなってる」
確かめるように呟き、真昼は一歩、また一歩と前へ進む。
柊夜と霧子も、言葉を挟まずその背中を追った。
——その時だった。
赤一色だった視界に、ふっと灰色が混じる。
空気が濁り、視界が霞み、輪郭が曖昧になっていく。
「近い……」
真昼の声に、確信が滲んだ。
その足取りが、わずかに速くなる。
霧子は、その変化を見逃さなかった。
(これが、死者を迎えるための道しるべか……)
迎え火の煙。
それは単なる霊現象ではない。
弔い、祈り、帰りを待つ心——それらが重なり合って生まれる、概念そのものの力。
地獄の底に落ちようと、異界に閉じ込められようと。
「帰ってこい」と願う者がいれば、死者は道を得る。
真昼は、振り返らずに小さく頷いた。
「もうすぐだよ、柊夜……霧子さん……」
その先に見えたのは、この異界には存在しないはずのもの。
柔らかく、温かい——
太陽の光だった。
引き寄せられるように、三人はその光の中へ踏み出す。
そして次の瞬間。
異界から、三人の姿は消えていた。
*****
朝比奈家の庭では、柊夜の母が迎え火を焚いていた。
ぱち、ぱち、と乾いた音を立てる炎を前に、母は額の汗を拭い、ゆっくりと夕暮れの空を見上げる。
「ふぅ……今年も暑いねぇ」
ぽつりと零し、遠い過去に思いを馳せる。
「あれから、ちょうど十年か……」
炎の向こうに、もう戻らない日々を重ねるように。
母は胸の前で手を合わせ、空に向かって小さく祈った。
「霧子さん……柊夜……」
「あの子を、どうか助けてあげて……」
その時だった。
「……うわっ! 家の、庭?」
不意に、横から聞き慣れた声がする。
まるで、何もなかったかのように。
まるで、そこに最初から立っていたかのように。
母ははっとして振り向いた。
そこにいたのは、柊夜と霧子だった。
二人もまた、状況を飲み込めず、不思議そうに周囲を見回している。
「どうしたの。帰ってきたなら、一言くらい言ってくれればいいのに」
叱るようで、どこか安堵を滲ませた声。
「ごめん……いろいろあってさ」
柊夜はそう言いかけ、言葉を切る。
「それより、姉ちゃ——」
その肩を、霧子がそっと叩いた。
「お母様には、真昼さんの姿は見えていない」
「詳しいことは、後で私から説明する」
小さく、耳打ちする。
柊夜は一拍置き、息を整えた。
「……ただい——」
改めて声をかけようとした、その瞬間。
真昼が、母の方へと勢いよく駆け出した。
「おかえり、柊夜」
「もうすぐ迎え火も終わるから——」
母の背後で、炎がゆっくりと勢いを失っていく。
立ち上る煙も、次第に薄くなり始めていた。
「母さん」
柊夜が、少し強い声で言う。
「ちょっとでいいから、そのまま動かないで」
「え? どうして?」
「いいから……お願い」
その必死さに押され、母は首を傾げながらも、言われた通りその場に立ち止まった。
真昼は、母の正面に立つ。
ゆっくりと、その顔を見上げた。
「……お母さん」
声が、かすかに震える。
「帰ったよ。ただいま」
溢れた涙を、指でそっと拭う。
母には、真昼の姿は見えない。
触れることも、声を交わすこともできない。
それでも——よかった。
もう二度と見ることができないと思っていた母の顔を、こうして、はっきりと見つめることができた。
暗い世界に閉じ込められていた真昼にとって、それだけで、胸が満たされるには十分だった。
これ以上ないほどの、幸福だった。
もう一度言う。
母には、真昼の姿は見えていない。
それでも。
「……真昼?」
母が、ふと首を傾げる。
「なんでか分からないけど……」
「すぐそこに、あの子がいる気がして……」
見えなくても。
触れられなくても。
想いだけは、確かに届いていた。
迎え火の炎が、静かに消えるまで。
二人は、その余韻の中に立ち尽くしていた。
*****
——私は、帰ってきた。
十年の時が過ぎても、我が家はあまり変わっていなかった。
庭の匂いも、夜風の湿り気も、記憶の中とほとんど同じだ。
……ただ一つ。
お母さんが、少し痩せすぎていたことに、胸が詰まった。
やっぱり、私がいないことを気に病んで……。
そう考えると、どうしても申し訳ない気持ちになる。
迎え火が終わり、お母さんは霧子さんと一緒に家の中へ入っていった。
あの事件現場での除霊ことで説明しなければならないことが山ほどあるのだろう。
その間の、ほんのひととき。
私は、柊夜と二人きりになった。
懐かしい。
こうして並んで、外の景色を眺めるのは。
「姉ちゃん……」
柊夜が、少し照れたように、けれど真剣な声で言う。
「助かってよかった」
「……長く待たせちゃったね」
視線を伏せ、続けた。
「本当は、もっと早く助けるつもりだったんだ」
「でも……いろいろ回り道になっちゃってさ」
「ごめん」
申し訳なさそうに謝るその横顔を見て、私は思う。
——うん。
きっと、本当にたくさん回り道をしたんだろうね。
私を守るために、あの人……真田に挑んだ時のことを思い出せば、それはよく分かった。
だから、私は首を振る。
「うん」
「すっごく回り道したんだろうね」
柊夜が、少し驚いたようにこちらを見る。
「でもね、それって悪いことじゃないよ」
「無駄なことなんて、一つもなかった」
柊夜は、いろんなものを乗り越えてきた。
その一つ一つが、確かに意味を持っていた。
「柊夜の回り道が巡り巡って、私を守ってくれた」
「……それに、あなた自身も」
私は、彼の背後をちらりと見る。
「今も背後にいる今にも消えそうな生き霊」
「あなたが使った呪詛を跳ね返す布」
「そして、霧子さんの禍祓」
「回り道があったからこそ、それらは力になってくれたんだと思う」
乗り越えた試練は、最後の最後で、心強い味方として私たちを助けてくれた。
……そういえば。
真田に腹を殴られた、あの瞬間。
明らかに、鞄の内側から光が漏れていた。
「あれ……何だったんだろう?」
胸の奥に引っかかった疑問が、言葉になる。
「柊夜」
「お腹、思いきり殴られたけど……本当に大丈夫?」
「無理、してない?」
一応、確認してみる。
「うん、大丈夫」
柊夜はそう答えてから、首を傾げた。
「でも、あれ……何だったんだろうね?」
「霧子さんが、こっそり護符でも仕込んでくれてたのかな」
そう言いながら、背負っていた鞄を下ろし、中を探り始める。
「……あれ?」
次の瞬間、柊夜の動きが、ぴたりと止まった。
「えっ……?」
嫌な予感に、私も身を屈めて鞄の中を覗き込む。
そこにあったのは——
「……これは……」
かつて、私が大切にしていたもの。
クチバシが異様に大きな、あの鳥のぬいぐるみ。
——その、無残な残骸が。
鞄の中に、無造作に散らばっていた。
「……このぬいぐるみ」
「姉ちゃんと、見えない力で繋がってたんだって」
バラバラになったぬいぐるみの布片を、掌にそっと掬い上げながら続ける。
「姉ちゃんを、苦痛から守ってたって」
「霧子さんが、そう言ってた」
柊夜は、少し言いづらそうに私を見る。
「……姉ちゃん、何か覚えない?」
——覚えが、ないはずがなかった。
私は、死んだあとも暗闇の世界に閉じ込められていた。加害者たちの悪意を模した存在に囲まれ、魂を蝕まれ続けながら……。
蹴られ、殴られ、引きずられ、終わりのない暴力の嵐。
それでも、不思議と——
生きていた頃ほどの痛みは、感じなかった。
死んだから、痛覚が鈍くなったのだと。
そういうものなのだと解釈していた。
でも……それだけじゃ、なかった。
暗闇の中で、不安に押し潰されそうになった時。心が壊れそうになった、その瞬間。
どこからか、声が聞こえた。
『ひとりじゃない。一緒だよ』
誰の声かは、分からない。
姿も、形も、見えなかった。
でも——確かに、そこに「何か」がいた。
話しかけると、答えてくれた。
泣けば、そっと寄り添ってくれた。
その存在が、私の代わりに痛みを引き受け、私の心を、ずっと守り続けてくれていた。
……ああ。
「そうか」
柊夜の言葉を聞いた瞬間、すべてが、一本の線で繋がった。
「覚えなら、あるよ」
私は、静かに頷いた。
「たくさん、ある。ずっと隣にいて……私のことを、護ってくれてた」
柊夜の手の中にある布片に、私は、思わず指を伸ばしていた。
擦り切れ、破れ、形すらも失ったそれを撫でずには、いられなかった。
——そして、思い出す。
あの時。
柊夜が、真田に殴られた瞬間。
私は、心の底から叫んだ。
『いやぁぁぁ! 誰か、助けてっ!』
その声に応えるように、鞄の中から淡い光が溢れ出した。
あれは——
この子、だったんだ。
この子が、柊夜を守ってくれた。
だから、今の私たちが、ここにいる。
「姉ちゃん……?」
気づけば、柊夜が心配そうに私を見ていた。
……いけないね。
涙なんて、見せるつもりなかったのに。
でも、この涙は。
「大丈夫だよ」
私は、微笑もうとした。
「悲しい涙じゃない」
「ありがとうの……感謝の涙だから」
こぼれそうになる感情を、胸の奥で必死に押さえ込む。
ちゃんとした顔で、ちゃんと感謝を伝えたかった。
「柊夜に」
「お母さんに」
「……この子に」
「みんなに、思われてたことが嬉しいんだ」
「みんなのおかげで。私は、今日……ここに帰ってこられた」
私は、すっと立ち上がり、すっきりした笑顔で柊夜の前に立つ。
……いや、嘘。
感情が先に込み上げて、笑顔は、少しくしゃっと歪んでしまった。
それでも、ちゃんと伝えたかった。
「柊夜“たち”……」
「ただいま」
目の前の弟と、その手の中にいる護り手に向かって。
柊夜も、同じような顔で、笑った。
「おかえり、姉ちゃん!」
——この日。
私は、みんなに連れられて、本当の意味で、我が家に帰ってきた。
*****
夜の庭にまた私たちは集まっていた。
音が少なく、空気が澄んでいて、世界が少し遠く感じる。
霧子さんが供養の準備を始めるのを、私は少し離れた場所から見ていた。
あの人の所作は、いつも無駄がない。
迷いがない分、これは“終わりの時間”なのだと嫌でも分かってしまう。
——でも。
私は、まだ行けない。
真田の言葉が、頭から離れなかった。
霊体の内側を削られながら、あの人は笑っていた。
『俺も、お前も同じ』
違う。
同じなわけがない。
柊夜が震えていたのは、欲望なんかじゃない。
あれは、自分自身の感情に対する嫌悪だった。
それでも「違う」と言い切れなかった、自分自身への怯え。
私は察した。
柊夜が、どれほど“そういうもの”を怖がってきたか。
どれほど自分を汚れた存在だと思い込まないよう、必死に生きてきたか。
——あのまま、置いていくわけにはいかない。
供養が始まれば、私はもう振り返れない。
それは正しいことだ。
でも、正しさだけでは救われないものがある。
私は、そっと霧子さんを見る。
言葉は、短くていい。
理由は、言わない。
それは、柊夜に聞かせることじゃない。
「……一日」
夜気の中で、自分の声が静かに響く。
「一日、待って欲しい」
一瞬、庭の空気が張り詰めた。
柊夜の視線がこちらに向くのが分かる。
お母さんも、理由を探すような顔をしている。
でも私は、何も言わない。
霧子さんは、すぐには答えなかった。
除霊師としてなら、待たない方が正しい。
それくらい、私にも分かる。
それでも——
「……分かった」
その一言で、胸の奥が少しだけ緩んだ。
明日、丸一日。
それは、私に残された最後の時間。
姉として、あの子に伝えなければならないことがある。
私は空を見上げる。
夜の星は、驚くほど静かで、優しい。
——大丈夫。
明日、ちゃんと向き合ってから。
それからなら、きっと。
私は、笑って行ける。




