83話 群を前にして個は無力
鬼ノ背神の振るった腕から、霊気を帯びた衝撃波が放たれた。
空気そのものが引き裂かれ、轟音とともに奔流となって赤黒い巨人へと叩きつけられる。
応じるように、巨人は裂けるような咆哮を上げた。
その声には衝撃が伴い、音というよりも暴力そのものが空間を震わせる。
衝突。
霊気と怨念が正面から噛み合い、周囲の景色が歪んだ。
鬼ノ背神は腕から血を噴き、赤黒い巨人の全身には無数の裂傷が刻まれる。
どちらも決定打には至らない。
両者に力の差はほとんど見られない——災害同士が、互いを削り合っている。
余波に耐えきれず、周囲で群れを成していた赤黒い分裂体たちが弾き飛ばされた。
肉片と霊気が砕け、塵のようになって宙を舞う。
「下がれ!」
霧子の声に、柊夜と真昼は即座に距離を取った。
直撃すれば、無事では済まない。
ここは人智を超えた者の戦場であり、災害の震源地のようなもの。ただの人間である彼らに入り込む隙は無い。
——だが。
霧子は、この光景を“好機”と見ていた。
二つの怪異は、互いしか見ていない。
鬼ノ背神の視界に、霧子たちは映っていなかった。
観衆の呪詛もまた、断罪すべき対象をただ一つに定め、それ以外の存在には、もはや関心を払っていない。
この異界において、
今この瞬間——蚊帳の外であることが最大の好機だった。
霧子は再び、妖刀・禍祓を手に取る。
「南無──災業禍祓咒」
霧で出来た刀身が再び形を成す。
「禍祓で、現世と異界の境目を断つ。
以前はこの方法で、ここから脱出できた」
刀身が、異界の空気を拒むように震え始めた。
「我が妖刀よ、その力を持ってこの異界と現世の一切の繋がりを断てっ!」
霧子は、迷いなく振るった禍祓は空に一文字を刻む。
……しかし。
刃が走り、空間そのものを断ち割る感触が──ない。
手応えが、あまりにも希薄だった。
「……?」
霊障でも、結界でもない。
確かに力は込めた。刃も、霊力も、何一つ不足はない。それでも、切れたはずの“境界”の向こうには、何もなかった。
霧子は、ようやく違和感の正体を悟る。
(違う……)
この異界は、現世と"隔てられている"のではない。
壁があり、それを断てば外へ繋がる──そんな構造ですらなかった。
例えるなら、隣室ではない。
はるか遠方。
現世という座標から、意図的に引き剥がされた“孤立点”。
観衆の呪詛は、真田を逃がさない。
その執念が、この空間そのものを成立させている。
逃走路を閉ざすための結界ですらない。
逃げ場という概念そのものを、最初から存在させていない異界。
「……そういうことか」
霧子の声が、わずかに低くなる。
禍祓の本質は"断つ"。それは目に見えない概念にも及ぶ。
だが肝心の断つべき境界が、存在しない。
現世と異界を隔てる壁があると思って斬りつけた先にあったのは、ただの虚空。
刃は、何も繋がっていない場所を、空しく裂いただけだった。
今の観衆の呪詛は、本気だ。
真田を殺すまで、この異界を解かない。
なによりこの空間は、その覚悟を示している。
霧子は、禍祓を握り直す。
(力負けではない……根本から違っていた)
だが、それは同時に意味していた。
この状況において、禍祓の力は“無力”であることを。
ズドン──ッ!!
異界全域を殴りつけるような衝撃が走った。
「うわっ!」
「きゃっ……!」
柊夜と真昼の悲鳴が、同時に弾ける。
足元が大きく跳ね、三人の身体は抗いきれず宙を舞った。
まるで大地そのものが裏返ったかのような、凄まじい揺れ。
「二人とも、大丈夫か!」
霧子は体勢を崩しながらも叫ぶ。
もし現世で起きていれば、古い建物など一瞬で倒壊していただろう。
だが、ここは異界だ。瓦礫も、天井も存在しない。
三人はそのまま地面に投げ出された。
──ぐにゃり。
肉のように柔らかい感触が、衝撃を吸収する。
転倒したものの、怪我はない。
「……あれって……」
柊夜が、息を呑んで前方を見据えた。
遥か先。
地面に突っ伏し、微動だにしない赤黒い巨人の姿があった。
全身は裂け、砕け、もはや原形を保っていない。
観衆の呪詛──その集合体と思しき存在は、完全に沈黙していた。
そして、その傍ら。
鬼ノ背神は、立っていた。
遠目では、その表情までは読み取れない。
だが。
その足取りは、明らかにおかしかった。
一歩、踏み出すたびに、重心が揺れる。
身体を支える力が、確実に削がれている。
霧子は、目を凝らした。
視線は、肉体ではなく──内に秘める霊気を見る。
(……乱れている)
先刻、一線を交えた時。
鬼ノ背神の放つ霊気は、寸分の揺らぎもない、異様なまでに安定した“塊”だった。
だが、今は違う。
炎のような霊気は、激しく明滅し、脈打ち、定まらない。
まるで制御を失いかけた獣の呼吸のように、不規則に揺れ動いている。
「……無事、ではないな」
霧子は、低く呟いた。
鬼ノ背神は立っている。
だが、それは“余裕”ではない。
観衆の呪詛と、全力でぶつかり合った代償。
その霊格でさえ、確実に削られている。
だが、それより──
赤黒い巨人は、地に伏したまま動かない。
もし──あれが、この異界を成立させていた“核”だとすれば。
この空間は、もはや維持できない。
異界が崩れれば、外から引きずり込まれた存在は、本来あるべき座標へと押し戻される。
──ならば。
ここは、消える。
霧子の胸に、かすかな可能性がよぎった。
今度こそ、外へ出られるかもしれないと。
──空が、歪んだ。
次の瞬間、天から“それ”が伸びてきた。
異界そのものを覆い尽くすかのような、巨大な掌。
鬼ノ背神の身体が、握り潰される。
「……っ!」
鬼ノ背神は咆哮し、霊気を迸らせてその掌を振り払おうとする。
だが、びくともしない。
抵抗は、まるで児戯のようにあしらわれた。
その時だった。
「あ……あれ……は?」
真昼が、震える腕を持ち上げ、空を指差す。
柊夜も、霧子も、つられるように視線を上げた。
──空一面に、無数の“目”があった。
感情のない視線。
だが、確かな憎悪と断罪の意思を宿した、数え切れないほどの眼差し。
次いで、声が降ってくる。
『まだ足りない』『逃がすな』
『苦しめ』『終わらせるな』
『潰せ』『砕け』『抉れ』『千切れ』
『この世の痛み全てを刻み込め』
『加害者を許すな』
それは呪文でも、叫びでもない。
加害者に向けられた、観衆の“コメント”だった。
霧子は、息を呑む。
「……桁が違う」
視えた霊気の量も、質も、先程までとは比較にならない。
あの赤黒い巨人──異界を揺るがすほどの存在ですら、ただの端末に過ぎなかったのだと理解させられる。
「先程の巨人すら、分裂体だったということか」
霧子は、確信をもって言い切った。
「あれこそが──観衆の呪詛の本体。この異界の中心だ」
そして、低く吐き捨てるように続ける。
「断罪者の……総意だ」
霧子は、空を見上げたまま、低く呟いた。
「……人はな。大義名分を得た時、どこまでも残酷になれる」
無数の目から放たれる念は、もはや怒りだけではなかった。
正義を掲げ、罰を与える側に回った者特有の、歪んだ高揚が混じっている。
「この情報社会が、それを加速させた。
一人ひとりは取るに足らん感情でも、数百万人分が束ねられれば、こうなる」
霧子は、禍祓を握る手に力を込める。
「個の力では……もはや、どうにもならん」
次の瞬間。
巨大な掌が、押し潰していた鬼ノ背神を、指先で弾いた。
まるで、不要になった玩具を捨てるかのように。
鬼ノ背神の身体は、指先で弾かれたように宙を舞い、勢いよく地面へと叩きつけられた。
──ドン、という鈍く乾いた衝撃音。
腹と背を同時に打ち付けたような、鈍く湿った音。
続いて、骨が耐え切れずに悲鳴を上げた。
全身を打ち付けられ、鬼ノ背神は呻き声を上げた。
その上から、声が降り注ぐ。
『だっさw』『いいぞ、もっとやれw』
『もっと苦しめ』『まだ終わらせるな』
嗤い声。嘲弄。そして、期待。
そこに、断罪者としての厳粛さはなかった。
残っていたのは、弱者を踏みにじる快楽と、憂さ晴らしの熱だけだ。
霧子は、確信したように呟く。
「……やはり、偽善だ」
正義を名乗った瞬間に免罪され、怒りを掲げた瞬間に許された残酷さ。
それこそが、この異界を膨れ上がらせた“正体”だった。
鬼ノ背神は、地面に転がったまま動けなかった。
身体のあちこちが、不自然な角度で折れ曲がっている。
裂けた皮膚からは血が溢れ、異界の地面に赤黒い染みを広げていく。
それでも。
ミチミチ、と嫌な音を立てて、肉が盛り上がった。
折れた骨が無理やり噛み合い、裂けた筋肉が縫い合わされていく。
不格好で、痛々しい再生だった。
「……汝ら!」
鬼ノ背神は、這うように上体を起こし、霧子たちを見た。
その目に宿っているのは、かつての傲慢な光ではない。
「我を、ここから逃がせぃ……!」
命令口調は変わらない。
だが、その声は掠れ、必死さを隠しきれていなかった。
霧子の目には、それがはっきりと映る。
神とは名ばかり、所詮は人の霊。
追い詰められた今、化けの皮は剥がれる。
今や誰かに縋るしかなくなった、小さな存在に成り果てた。
その時、異界の奥の方が、ざわめいた。
ぬるり、と空間が蠢く。
赤黒い巨人が、姿を現す。
先程倒されたものとは別の個体。
しかし先程まで鬼ノ背神が命を削って相手取っていた存在と、寸分違わぬ姿。内包する霊力すら変わらない。
さらに、もう一体。
そして、また一体。
並び立つ巨人たちは、戦況とは無関係に、整然と並んでいた。
倒されることすら想定済みの“予備”として、最初から用意されていたかのように。
鬼ノ背神の喉が、ひくりと鳴った。
──あり得ない。
本来、自分と同格の存在などいること自体信じられない。
そんな存在が一体現れただけでも想定を超える状況。
それを、必死に戦い、ようやく倒したはずだった。
なのに。
「……ふ、ざけるな……」
掠れた声が、鬼ノ背神の口から零れる。
自分が命を削って越えた壁が、この異界では、いとも容易く複製される。
その事実が、力の差以上に、鬼ノ背神の誇りを打ち砕いた。
個の力など、群にとっては無力。
個の足掻きなど、群にはなんの影響力もない。
──届かない。
自分の力は、ここには、まるで及んでいなかった。
その背後から、赤黒い呪詛の分裂体が、ざわりと溢れ出す。
巨人たちは動かない。
ただ、そこに“在る”だけで、逃げ場を奪っていく。
鬼ノ背神は、理解してしまった。
この異界において、自分は支配者ではない。
"あれ"からすれば、吹けば簡単に消える程度の儚く弱い存在だと。
鬼ノ背神の呼吸が、荒く乱れた。
再生しきらない身体を引きずるようにして、地面に爪を立てる。
視線は彷徨い、さっきまでの傲慢さは影も形もない。
「……われ」
声が、震えた。
「かわ……代われ」
誰に向けた言葉なのかも分からない。
ただ、現実から目を逸らすための、意味のない音だった。
次の瞬間、鬼ノ背神は叫ぶ。
「真田ァ!!」
喉が裂けるほどの声。
命令でも、叱責でもない。
助けを求める、必死な呼び声だった。
「出てこい! 代われ! お前の身体だろうが!!」
「これは、お前が受けるべき罰──」
言葉は、最後まで形にならなかった。
鬼ノ背神の身体が、がくりと力を失う。
糸を切られた人形のように、その場に崩れ落ちた。
眼の奥から、光が消える。
これが、驕り高ぶった偽神が選んだ結末だった。
そして。
──ぴくり、と。
倒れ伏していた身体が、小さく動いた。
柊夜は、はっとして身構える。
だが次の瞬間、違和感に気づいた。
気配が、違う。
さっきまで纏っていた、あの圧倒的で高圧的な霊気がない。
だが変わったわけではない。戻ったのだ。
──本来の身体の主に。
男は、ゆっくりと上体を起こす。
「……チッ」
舌打ち混じりに吐き捨てる声は、神のものではなかった。
その人格は紛れもなく真田 誠。
「鬼ノ背神ィ!!」
真田は空に向かって喚き散らす。
「中途半端なことして引っ込むんじゃねぇ!」
「出てこい! アイツらをぶっ殺せ!」
「全部ぶっ壊せ!! 出来るつっただろうが!!」
必死な叫びが、異界に虚しく響く。
だが──応えるものは、何もない。
代わりに。
天が、空そのものがざわめいた。
無数の視線が、再び一点へと集まる。
『──真田 誠』
声は重なり、歪み、溶け合っている。
『──否。安西 亮』
逃げ場を断つように、名を呼ぶ。
『──己ノ身ヲ以テ悔メ』
『──償エ』
『──過去ノ所業』
『──清算ノ時ダ』
真田は、反射的に後ずさった。
視線を逸らし、耳を塞ぎ、首を振る。
だが、どれも無意味だ。
罪から目を背け、罰から逃げ続けてきた男の前に──
断罪の手は、すでに届く距離まで迫っていた。




