82話 赤に塗られる世界
雲一つない青空と、どこまでも続く穏やかな草原。
本来なら心が安らぐはずの光景の中心で、それはあまりにも異質だった。
鬼ノ背神が、そこに立っている。
立っているだけだというのに、周囲の空気が歪んでいた。
草原を渡る風はその身を避けるように流れ、陽光さえも近寄るのをためらっているかのように見える。
肌を刺すような圧迫感。
霊力という言葉では到底言い表せない、存在そのものが放つ禍々しさが、この場を支配していた。
——人の理解を超えたもの。
柊夜は無意識に息を詰める。
これまで幾度となく怪異と対峙してきたはずなのに、目の前の存在は次元が違った。
敵意すら向けられていない。
それでも、近づいてはならないと本能が警鐘を鳴らしている。
霧子は一歩前に出て、低く息を整えた。
「……鬼ノ背神」
その名を口にしただけで、空気がさらに重くなる。
「平安の世に実在した貴族だ。権力と欲望のままに民を嬲り殺し、私腹を肥やした男だった」
淡々とした口調。
だが、その声音には確かな緊張が滲んでいる。
「やがて討たれ、死後は地に堕ちた。だが——そこで終わらなかった。
自らが虐げた民の怨嗟、恐怖、憎悪……それらすべてを逆に取り込み、強大な怨霊となった」
霧子の視線が、鬼ノ背神を真っ直ぐに捉える。
「禍祓と似た境遇だ。だが決定的に違う点がある」
一拍置いて、言葉を続ける。
「人々は禍祓を恐れながらも、妖刀として封じた。
一方、鬼ノ背神もまた封じられはしたが——
やがて祠に祀られ、畏れられ、神として扱われる存在となった」
その結果が、今ここに立っている存在だ。
「霊力の総量は……禍祓に宿る大怨霊を、明確に上回っている」
断言だった。
柊夜は思わず霧子が手に握る禍祓に視線を向ける。
刀身から伝わる重みが、普段よりも遥かに軽く感じられた。
——敵わない。
そう思わせるほどの差が、静かに、しかし圧倒的に突きつけられていた。
のどかな草原は変わらない。
だがその中心に立つ鬼ノ背神の存在だけが、この世界の理から浮き上がっていた。
ここにいるのは、霊でも、人でもない。
——紛れもなく、“神”だった。
「ふたりとも、すぐにここから出るぞ!」
霧子の声は、いつもの凛とした響きを失っていた。抑えきれない焦燥が、言葉の端々に滲んでいる。
彼女が指差した先には、果てしなく広がる草原のただ中に、不自然なほど唐突に立つ扉があった。
異界の出口だ。
三人は無我夢中で駆け出した。
背後にいる鬼ノ背神が、どんな表情で何をしているのか——そんなことを振り返って確かめる余裕はない。
追撃は、なかった。
(……私たちなど、眼中にないのか?)
霧子の脳裏をよぎったその考えは、希望であると同時に、縋るような祈りでもあった。
草を踏みしめ、息を切らしながら、三人は無事に扉の前へと辿り着く。
先頭を走る霧子が、扉に手をかけようとした——その瞬間だった。
咄嗟に、霧子は手を引いた。
扉が、空間ごとぐにゃりと歪む。
引き伸ばされ、捻じれ、まるで見えない力に圧縮されるかのように、中心へと巻き込まれていく。
次の瞬間、扉は跡形もなく消滅した。
背筋に、冷たいものが走る。
霧子が振り向くと、そこには——いつの間にか、すぐ背後に鬼ノ背神が立っていた。
「逃げようなどと、釣れぬことをするでない」
眼前の神は、抗う術を失った人間の希望を、愉しむように嘲笑っていた。
霧子は、鬼ノ背神を正面から見据えた。
「……お前は、何を望む」
問いかけは、静かだった。
だがそれは、戦うためではなく、理解しようとする者の声音だった。
鬼ノ背神は、ゆっくりと首を横に振った。
否定でも肯定でもない。
霧子の問いが、最初から噛み合っていないことを示す仕草だった。
一拍の沈黙。
やがて、低く、腹の底から響く声が草原を震わせた。
「京の世を知る身からすれば——」
鬼ノ背神の視線が、霧子を貫く。
「汝など、まだ一人前にも満たぬ」
その言葉には、侮蔑よりも、圧倒的な時間の隔たりがあった。
積み重ねてきた生と死、欲と怨の量が、根本から違う存在が放つ断言。
だが、次の瞬間。
鬼ノ背神の視線は、霧子の手にある妖刀へと移った。
禍祓。
わずかに、興味の色が宿る。
「……ほう。実に禍々しい気を秘めておるな」
唇の端が、僅かに歪む。
「畏れられ、使われ、捨てられる定めの器。
人の業を煮詰めたような代物よ」
そして、鬼ノ背神は告げた。
「……女」
その一言で、場の空気が引き絞られる。
「刀を振え」
それは命令でも、挑発でもない。
神が刃に興を覚えただけの、取るに足らない瞬間。
しかし霧子たちにとっては、
次の一手を誤れば命を失う、切迫した局面だった。
霧子は一歩、踏み込んだ。
迷いはない。問いもない。ただ、生き残るために振るう。
刹那——
禍祓が閃いた。
残像が遅れて追いつくほどの剣速。
鋭く、無駄のない一閃が、鬼ノ背神の胴を正確に捉える。
——しかし。
金属音にも似た、鈍い反発が空間に走った。
鬼ノ背神は、避けてもいない。
防御の構えすら取っていない。
それでも刃は、何かに阻まれたかのように弾かれていた。
まるで、目に見えぬ鎧がその身を覆っているかのようだった。
霧子は即座に距離を詰め直す。
横薙ぎ、斜め、下段からの切り上げ。
間合いを変え、角度を変え、呼吸を詰める。
——守りの薄い一点を探るために。
だが、結果は変わらない。
どこから斬っても、同じ感触。
同じ反発。
同じ、絶対的な拒絶。
「……っ」
歯を食いしばり、霧子は刀を強く握り直す。
「南無災業禍祓咒──封ぜられし禍の、更なる力を……解放せよッ!」
次の瞬間。
禍祓の霊気が膨れ上がった。
一段階、禍祓の封印を解かれる。
刀身に走る禍々しい脈動。
妖刀が咆哮するかのように黒霧を噴き上げ、刃は一回りも二回りにも巨大化する。
草原がざわめき、空気そのものが悲鳴を上げる。
渾身の一撃が、再び鬼ノ背神を斬り裂いた。
——否。
裂けたのは空気だけだった。
刃は、先ほどと何一つ変わらず弾かれ、霧子の身体に衝撃だけが返ってくる。
鬼ノ背神は、微動だにしない。
戦っている——はずだった。
だがその実態は、戦闘とは呼べぬものだった。
虎の前で爪を振るう子猫。
霧子の剣は、その域を一歩も越えていなかった。
それでも、霧子は退かなかった。
握る柄に力を込める。
胸の奥に、熱が灯る。
——失神していた間。
力も、術も持たぬ柊夜が、それでも真田に立ち向かった。
「……私が、ここで折れるわけにはいかない」
禍祓が応えるように、さらに霊気を膨れ上がらせる。
刀身から溢れ出す怨念が、空気を震わせた。
第二撃を放とうとした、その瞬間。
鬼ノ背神が、ただ——手を翳した。
それだけで、世界が止まった。
霧子の身体が、ぴたりと静止する。
意思とは無関係に、筋肉が、関節が、霊力そのものが縫い止められる。
禍祓の刀身は、音もなく霧散した。
「……っ」
呼吸すら、思うようにできない。
——ここまでか。
霧子の脳裏を、冷たい諦観がよぎる。
だが。
鬼ノ背神は、何もしてこなかった。
それどころか霧子を見てすらしない。
その視線は、ただ一つ。
彼女の右手にあったはずの——禍祓の残滓へと注がれていた。
「……ほう」
愉しげに、喉を鳴らす。
「この霊気……喰えば、さぞ極上の味であろうな」
その声音には、殺意がない。
あるのは、純粋な興味と欲だけだった。
「……女」
霧子の拘束が、ふっと解ける。
「その刀を我に差し出せ。
そうすれば——帰してやろう」
それは取引ですらない。
価値ある玩具を欲した神が、ついでに命を返す。
それだけの話だった。
(……禍祓を、喰らう……?)
一瞬、言葉の意味を測りかねた。だが、それはさして重要ではない。
(そんなことは、今はどうでもいい)
条件反射のように、身体が動く。
霧子は禍祓を手に取り、鬼ノ背神へと差し出そうとした。
「だめだ!」
鋭く、しかし切羽詰まった声。
柊夜が背後から一歩踏み出し、霧子の腕を掴む。
「それを渡したら……! そんなの——」
霧子は振り返らなかった。ただ、静かに首を横に振る。
「いいんだ」
短い一言。
だが、その声には揺らぎがなかった。
「皆、生きて帰れる。
真昼さんも、ちゃんと解放できる。
……それで十分だろ」
掴まれた腕を、そっと外す。
その仕草は拒絶ではなく、覚悟だった。
霧子は迷わず、禍祓を鬼ノ背神へと差し出す。
その瞬間。
——頭の奥に、声が流れ込んできた。
『加害者ヲ、許スナ』
ぞくり、と背筋が凍る。
空が——
青から、赤黒へと塗り替わる。
草原は血のような色に沈み、
空間そのものが、別の意思に侵食されていく。
鬼ノ背神の指先が、禍祓に触れる——
その直前で。
世界は、完全に別の異界へと書き換えられた。
霧子は息を呑むより早く、この状況を確信していた。
「……観衆の呪詛」
一度、足を踏み入れたことがある。
だからこそ、わかる。
ここは——歪んだ正義と、加害者への憎悪が凝り固まって生まれた異界。
名も顔も持たぬ“観るだけの者たち”が、裁く側に回った世界だ。
視線が、ある。
四方八方。逃げ場なく。
赤黒い人型が、いつの間にか彼らを取り囲んでいた。
それらは一様ではない。
人と同じ大きさのものもいれば、歪に引き伸ばされ、腕や胴が不自然に肥大したものもある。
中には、建物ほどの高さを持つ影すらあった。
——同じ憎悪から生まれながら、形も重さも異なる分裂体。
それぞれが、異なる"怒り"と"正義"を宿している。
そして。
その奥。
霧子は、思わず喉を鳴らした。
見上げるほどの巨大な人型が、静かに佇んでいる。
赤黒い巨人。
ただ、そこに“在る”だけで、空間が軋む。
世の理から外れた存在が放つ、底知れぬ圧が周囲を支配していた。
鬼ノ背神が、低く笑った。
「……ほう」
歓喜に近い、声音だった。
「これはまた、見事な怨嗟よ」
その視線は、もはや禍祓には向いていない。
赤黒い巨人を、舐めるように見据えていた。
「なるほど。あれか」
鬼ノ背神は、確信したように頷く。
「この異界の核……無数の念を束ねし、本体よな」
鬼ノ背神の興味は完全に移っていた。
霧子も、柊夜も、真昼も。既に、視界の外。
赤黒い分裂体たちは、揃って鬼ノ背神を睨みつけていた。
無言の敵意。
裁くべき“異物”を見定める視線。
そして鬼ノ背神もまた、その視線を正面から受け止める。
「来るがよい」
その一言を合図に。
分裂体たちが、一斉に動いた。
赤黒い奔流が、神へと殺到する。
同時に、鬼ノ背神の周囲で禍々しい霊気が爆ぜた。
世の理から外れた者同士。
信仰された神と、憎悪を向ける観衆の総意。
異界そのものを舞台にした戦いが、今、始まった。
霧子たちは、その中心から弾き出されるように、ただ立ち尽くしていた。
もはや蚊帳の外だった。




