81話 解放の刻
霧子の鋭い視線は、真田を正確に捉えていた。
袖の破れた左腕は青く腫れ上がり、表情とは裏腹に痛みを堪えて無理をしていることが一目で分かる。
「今更復活なんてありかよ!」
真田は喚き、まるで自分のことを棚に上げて卑怯だと糾弾するかのような顔を向ける。
だが、霧子は何も言わなかった。
視線を逸らすこともなく、ただ静かに、禍祓を握る。
霧子の気配が、すぐ隣にある。
それだけで、柊夜の胸の奥が妙にざわめいた。
同時に、張りつめていた何かが、すっとほどけていく。
呼吸が深くなる。
心臓が、いつもより強く打っている。
だが不安ではない。逃げたい衝動も、拒絶もなかった。
体の内側から、静かな熱が湧き上がってくる。
血と一緒に巡り、手足の先まで満ちていく感覚。
禍祓を握る指に、自然と力が籠もった。
刃が、応えるように低く唸る。
理由は分からない。
——こんな感覚は、知らない。
だが、今はそれでよかった。
迷いは消え、斬るべきものだけが、はっきりと見えていた。
禍祓を握る二人を前に、真田は完全に萎縮していた。
腰は抜け、膝が笑う。後退ろうとして、足がもつれ、その場に崩れ落ちる。
「……もう無理だ」
かすれた声が漏れた。
「降参だ! やめてくれ!」
真田は両手を突き出し、必死に首を振る。
「短期間とはいえ……一緒に過ごした仲だろ?」
返事はなかった。
禍祓に集う霊力が、ただ低く唸り続けている。
真田は唇を噛み、なおも縋りついた。
「そんな……薄情すぎるぞ!」
「なあ、柊夜……松野から守ってやっただろ?」
「見逃してくれたら、喧嘩の仕方も教えてやる。役に立つぞ……?」
その声も、虚空に溶けていくだけだった。
「……違うんだ」
真田は急に調子を変え、必死に言葉を重ねる。
「俺は騙されてたんだ。鬼ノ背神ってやつに……取り憑かれて、こんなことに……」
「本当は、お礼参りなんかしたくなかった」
「信じてくれ……!」
沈黙。
二人は何も答えない。
ただ、唸る霊力の刃を、静かに振り上げる。
「——っ!」
真田の顔から血の気が引いた。
「や、やめろ!」
「鬼ノ背神! 鬼ノ背神ィ!」
真田は這うようにして叫ぶ。
「助けろ! 俺を守れ!」
「俺たちは相棒だろ!? 一蓮托生の仲だろ!!」
手足をばたつかせ、内に宿る“神”へと縋りつく。
叫び声だけが、無様に響いた。
——その慌てぶりが、すでに答えだった。
神にも、とうに見放されている。
禍祓に集う力が、さらに膨れ上がっていく。
エグゼの残した霊力。
姉を救いたいという、柊夜の切実な想い。
刀そのものが秘めていた禍々しい霊威。
そして、霧子の澄んだ霊力。
それらが混ざり合い、刃の内側で渦を巻く。
——だが、それだけでは終わらなかった。
真田の言葉によって掘り起こされた感情が、柊夜の胸の奥で燻っている。
否定し、遠ざけ、見ないふりをしてきたもの。
それでも確かに、今ここにその熱は在る。
心臓が強く脈打つ。
その鼓動に呼応するように、刃が低く震えた。
禍祓は、もはや霊を斬るための道具ではない。
生きているものの衝動そのものを、宿しているかのようだった。
真田の様子が、目に見えて変わる。
先ほどまで身を覆っていた力が、急速に抜け落ちていく。
肩が落ち、腕がだらりと垂れた。
「……な、んだ……?」
声に、力がない。
立っていることすら覚束ず、膝が折れる。
その全身から、抗う意思が、霊力ごと剥ぎ取られていくようだった。
柊夜は、一歩踏み出す。
霧子と重ねたままの手が、わずかに引き締まる。
迷いはない。
言葉も、合図も、必要なかった。
禍祓が、真田へと振り下ろされた。
真田は、最後に何かを叫ぼうとした。
だが、それは声にならず、断末魔だけが虚空に掻き消えた。
次の瞬間。
禍祓から解き放たれた霊気が、爆発する。
それは斬撃ではなかった。
圧だった。
空気が押し潰され、地面が悲鳴を上げる。
霧子も、柊夜も、周囲にいたすべてが抗う間もなく弾き飛ばされた。
爆風が巻き上げた土煙が、白く、深く、その場にいた者すべてを飲み込んでいった。
*****
それから、どれほどの時間が経ったのかは分からない。
「っ……!?」
全身が軋み、押し潰されていた肺に一気に空気が流れ込む。
反射的に息を吸い込み、柊夜は目を覚ました。
「無事だな。……よかった」
視界が定まると、すぐ傍に霧子がいた。
目を覚ました柊夜を見て、ほっとしたように息を吐いている。
その背後には、真昼の姿もあった。
「え……? ここ……どこだ?」
起き上がった柊夜の目に映ったのは、先程までの虚空ではなかった。
雲ひとつない青空がどこまでも広がり、足元には緑の草原が続いている。
息苦しさも、圧迫感もない。
開け放たれたような空間に、胸の奥が静かに緩むのを感じた。
「ここは、さっきまでいた異界だ」
霧子は周囲を一瞥し、続ける。
「恐らく……」
彼女は、真昼の顔を見た。
「真昼さんを縛っていたものは、もうここには存在しない」
一言そう告げると、霧子はゆっくりと真昼の肩に手を置く。
「これより、真昼さんをこの地から解放する儀式を執り行——」
「ちょ、ちょっと待って! あれ……!」
霧子の言葉を遮ったのは、柊夜の声だった。
驚いた表情で、彼はある一点を指差している。
その先には、地面に倒れ伏した真田の姿があった。
「……まだ生きてるかもしれない。確認しなくていいのかな?」
不安そうな柊夜に対して、霧子は、即答した。
「いや、しなくていい」
一拍置いて、淡々と続ける。
「生きていた場合、下手に刺激すれば目を覚ます恐れがある。
次に暴れられれば、真昼さんの解放に支障が出る」
視線を真昼へ戻し、霧子は静かに言った。
「目的は、あくまで真昼さんを救うことだろう」
「……それは、そうだけど」
柊夜はまだ納得しきれない様子で呟く。
「放置して、本当にいいのか?」
「案ずるな」
霧子はスーツのポケットに手を入れながら答える。
「この異界の脱出が完了し次第、組織に連絡する。後の対応は任せればいい」
そう言って、彼女は数珠を取り出し、大きく息を吸った。
「さあ、真昼さん」
霧子は改めて真昼に向き直る。
「解放の儀を執り行おう」
真昼を縛っていた念は、もうこの空間には存在しなかった。
怨嗟も、恐怖も、加害者の影も——すべては断ち切られている。
残されているのは、ほんのわずかな“踏み出す勇気”だけだった。
霧子は静かに息を整え、数珠を握り直す。
「——南無清浄光明遍照……」
低く、澄んだ声が草原に響いた。
「この地に囚われ、苦悩に沈みし魂よ。
今ここに、縁は尽き、業は解かれた。
恐れを捨て、悔いを置き、安らぎの道へ還れ」
言葉は力強くも、どこか優しかった。
読経が進むにつれ、真昼の全身が淡い青の光に包まれていく。
それは拘束する光ではない。
抱き留めるような、温かな輝きだった。
真昼は両手を胸の前で合わせ、震える声で口を開く。
「霧子さん……」
言葉を探すように、一度息を吸う。
「何度も、諦めました。
私はもう……ずっとここに閉じ込められるんだって……」
声が揺れ、滲む。
「本当に……ありがとうございました。
どう感謝すればいいのか……分からないくらいです」
霧子は静かに真昼の肩から手を離し、正面から向き合った。
「私は、きっかけを与えただけだ」
淡々と、だが確かな声音で告げる。
「あなたを想い、救おうとし続けたのは——」
霧子は一歩退き、視線を柊夜へ向けた。
言葉はない。
ただ、小さく頷く。
柊夜はそれを受け取り、前へ出た。
真昼と正面から向き合い、そっと微笑む。
「姉ちゃん……もう大丈夫だ」
胸の奥から絞り出すように、しかし鮮明な声で。
「助けに来たよ」
柊夜は、手を差し出した。
その瞬間だった。
真昼の内側で、張り詰めていた何かが——音もなく、切れた。
「……柊夜……」
震える声。
「柊夜……ありがとう……」
堪えていた涙が、一気に溢れ出す。
暖かな雫が、恐怖に凍りついていた表情を洗い流していく。
強張っていた顔は、少しずつ、少しずつ——柔らかく崩れていった。
次の瞬間。
ぎゅっと、真昼は柊夜の胸に顔を埋めた。
「ごめんね……」
嗚咽交じりの声が、衣服越しに震える。
「私、お姉ちゃんなのに……」
縋るように、力を込める。
「でも……今だけ……今だけ、このままでいさせて……」
「安心したら……力、抜けちゃって……」
「暗い部屋から……連れ出してくれて……ありがとう……」
「怖かった……本当に、怖かったんだよ……」
言葉は次第に崩れ、泣き声へと変わっていく。
草原と青空に包まれた異界に、真昼の嗚咽が静かに響いた。
柊夜は何も言わなかった。
ただ、胸の中で泣きじゃくる姉の頭を、そっと撫で続ける。
——大丈夫だ、と。
言葉ではなく、温もりで伝えるように。
少し離れた場所で、その光景を見守りながら、霧子は小さく息を吐いた。
(……柊夜くん)
(大人になったな)
朝比奈真昼の魂は、今をもって——
忌まわしき地より、完全に解放されたのだった。
*****
少し時間が経ち、真昼は指先でそっと目元を拭った。
泣き腫らしてはいるが、その表情にはもう影はない。
胸の奥に溜まっていた澱を、すべて吐き出し切った顔だった。
霧子が静かに口を開く。
「……ふたりとも」
振り返り、異界の奥——離れた位置にぽつんと佇む扉を指し示す。
「この空間は、間もなく崩壊するだろう」
「ここを脱出する」
柊夜と真昼は頷き、霧子に続いて身体の向きを変えた。
——その瞬間だった。
ドン、と。
空気が裂けるような、鈍く重い破裂音が響いた。
音の発生源は、先ほど真田が倒れていた方向。
反射的に振り返る。
そこには、霊気を帯びた濃い煙が立ち込めていた。
そして——
煙の足元には、肉塊が散乱している。
肥大しきった、真田の肉体。
破裂したかのように弾け、無残に転がるそれら。
「……っ」
柊夜の喉が、無意識に鳴った。
煙の奥。
その中心に——人影が、立っている。
確かに、二本の足で。
こちらを、まっすぐ見据えて。
「汝ら——待つのだ」
低く、しかしはっきりとした声。
煙がゆっくりと晴れていく。
現れたのは——真田だった。
少なくとも、姿形だけを見れば。
異形は消え失せ、歪んだ肉体もない。
整った顔立ち、すらりとした体躯。
その表情は、柊夜が初めて出会った頃の——
爽やかな青年を装っていた、あの真田のものだった。
だが。
「……真田……?」
柊夜は一歩も動けないまま、呟く。
しかし、言葉は続かなかった。
——違う。
決定的に、何かが違う。
空気が重い。
視線を向けられているだけで、背中を撫でるような寒気が走る。
その横から、霧子が静かに前へ出た。
額には汗。
手には再び、禍祓。
完全な警戒態勢だった。
「あれは……真田ではない」
断言。
迷いは一切ない。
「内に潜んでいた大怨霊——」
霧子の視線が、真田の“顔をした存在”を射抜く。
「"鬼ノ背神"だ」
その存在は、ゆっくりと口角を吊り上げた。
——にやり、と。
「如何にも」
声は穏やかで、どこか人懐っこい。
それが、なおさら不気味だった。
「我が名は、"鬼ノ背神"」
「汝らには感謝しているぞ」
一歩、踏み出す。
草を踏む音は、やけに軽い。
「真田 誠を、よい塩梅に追い詰めてくれた」
「おかげで奴は、身体の主導権を我に譲ったのだ」
言葉は礼を述べているはずなのに、そこに感情はない。
ただ事実を並べているだけ。
「即ち——」
鬼ノ背神は、胸に手を当てる。
まるで己の肉体を確かめるように。
「我は、千年の時を経て——受肉した」
その瞬間。
柊夜の背筋を、言いようのない悪寒が貫いた。
目の前に立つ存在は、終わりを許さない。
救済の余韻も、安堵も。
すべてを踏み潰すように——
“神”は、そこに在った。
——戦いは、まだ終わっていない。




