80話 刃を支える者たち
(マズい。決めねぇと——死ぬ)
真田は全身で覆い被さるように、柊夜へと襲いかかった。
「くたばれっ!」
怒号と共に振り下ろされる拳。
雨のように降り注ぐそれは、しかし焦りに引きずられ、先程までの鋭さを失っていた。力任せに振るわれる拳は、柊夜の身体を捉えきれない。
背後へと素早くステップを踏み、距離を取る。
柊夜は妖刀・禍祓を構え、深く息を吸い込んだ。
刃に力が満ちる。
真田の拳の雨が止んだ、その一瞬を逃さず、柊夜は踏み込んだ。
「はぁぁぁっ!」
悍ましい刃が、真田の肉体をすり抜ける。
——否。
その奥にある霊体を抉るように切り刻む。
「いぎゃぁぁぁぁっ!」
獣じみた断末魔が夜に響く。
刃は確かに通った。だが、再生は——
『深い!』
エグゼの短い声に、柊夜は即座に察する。
躊躇なく、追撃の斬撃を叩き込んだ。
真田は顔を歪ませ後ずさる。
(……痛ぇ。身体の中が、痛い……熱い……)
再生が、追いつかない。
斬撃により体内の霊気が飛び散っていく。
不利を悟った、その瞬間。
真田の視界の端に、ひとつの影が映った。
(——!)
思いついたように、真田は踵を返し、その場から離脱する。
その進行方向にいたのは——
真昼だった。
「しまった!」
真田は一直線に、真昼の元へと向かった。
無駄のない直線的な加速。
踏み込みの速さだけなら、今の柊夜でも追いつけない。
「——っ!」
真田の手が、真昼へと伸びる。
「いや……いやだ……やめてぇぇぇ!」
悲鳴が、引き裂かれるように響いた。
目の前に迫るその姿は、かつての事件の日々を生々しく呼び起こし、真昼の魂に刻まれた傷を抉る。
だが真田は容赦も躊躇しない。
乱暴に腕を掴み上げ、その身体を引き寄せる。
「やめろぉぉ!」
柊夜が追いつき、禍祓を構える。
振り抜けば、確実に——
「ストップだ」
低く、しかしはっきりとした声。
真田は片手を突き出し、制止の合図を送った。
その視線は柊夜ではなく、真昼に向けられている。口元には、醜悪な笑み。
嫌な予感が、全身を駆け抜けた。
柊夜は歯を噛みしめ、禍祓を下ろす。
動きを止めるしかなかった。
「よし。偉いな」
真田は満足そうに頷く。
「わかってるだろ? 近づけば、お前の大切な姉ちゃんを潰す」
「……もう死んじまった人間を、さらに殺したらどうなるんだろうな?」
柊夜の喉が、鳴った。
「……どうすれば、姉ちゃんを解放してくれる」
真田はわざとらしく天を仰ぎ、しばし考える素振りを見せる。
沈黙が、異様に長く感じられた。
そして——
「殴らせろ♡」
一言で済まされた条件。
致命傷を受け入れろ、という意味だ。
早い話が、“死ね”。
(エグゼ……耐えられる?)
『今の私には……多分、無理だ』
一瞬の間。
『だが、君は愚直にも、その条件を呑むだろ』
『だから私も、やれるだけ霊力を注ぐ』
さらに一拍。
『——耐えろ!』
(ありがとう……)
柊夜は、逃げない。
それを知っていたからこそ、エグゼは消えゆく霊力を振り絞り、彼を護る選択をした。
「……真田」
柊夜は顔を上げ、覚悟を宿した眼差しで睨み返す。
「来いよ」
空気が、凍りついた。
真田はニヤリと笑い、拳を強く握り締める。
「手こずらせやがって……」
「このお礼参り、割に合わねぇわ。ボコボコにしようとしたら、こっちがズタズタだ」
「……まぁいい。とりあえず死んどけ」
脚を強く踏み込み——
その瞬間。
「いやぁぁぁ! 誰か、助けてっ!」
真昼の叫びが、夜気を切り裂いた。
恐怖に縛られたまま、縋るように視線を彷徨わせた、その刹那。
——視界の端が、わずかに明滅した。
離れた場所に置かれていた鞄。
その隙間から、淡い光が、ほんの一瞬だけ漏れ出していた。
(……なに、今の……?)
問いかける間もなく。
剛腕は、柊夜の腹へと叩き込まれた。
瞬間——
爆発にも近い衝撃が、腹部で弾ける。
余波に吹き飛ばされ、柊夜の身体は地面を転がり、崩れ落ちた。
「……くたばったか」
倒れた柊夜を一瞥し、真田は踵を返す。
ゆっくりと、真昼へ歩み寄る。
絶望の影が、真昼を覆う。
——もう、だめだ。
そう思い、彼女は目を閉じた。
だが、その耳が捉えたのは、絶望を切り裂く"足音"だった。
確かな殺意を伴い、突風の如く勢いで地を蹴る音。
死んだはずの男が、理を無視して背後に迫る。
その時。
「ぎゃぁぁぁぁっ!」
悲鳴と共に、真田の胴に——
一文字の斬撃が、深く刻まれた。
「柊夜……!」
真田の手を離れた真昼は、よろめきながら駆け寄った。
口元を押さえ、涙を滲ませながら、何度も頷く。
「無事だったの……よかった……本当に、よかったよ……」
安堵の声は震えていた。
「……うん」
柊夜は自分の身体を見下ろし、腹部に手を当てる。
剛腕が貫いたはずの場所を、確かめるように何度もぽん、と触れた。
「なんでだろう。全然、痛みがない」
「何がどうなってるのか、さっぱりだけど……生きててよかった」
言葉とは裏腹に、戸惑いが滲む。
(エグゼ……お前が、守って——)
『いや』
短い否定。
『それだけじゃない』
『何か……外からの力が働いた。そんな気がする』
真昼は、ふと視線を逸らした。
無意識に、少し離れた場所に置かれた鞄の方を見る。
(……もしかして)
真田の拳打が繰り出される直前。
視界の端で見えた、あの一瞬の光。
(……あれは、なんだったんだろう)
答えは、出ない。
柊夜は一歩、前に出た。
自然と、真昼を背に庇う位置に立つ。
「何が起こったかなんて、今はいい」
振り返らず、静かに言う。
「一緒に出よう。姉ちゃん」
真昼は一瞬、言葉を失い——
それから、小さく笑って頷いた。
「……うん」
(強くなったね)
(頼もしくなったよ……柊夜)
柊夜の目の前で、真田が地面に膝を付いていた。かと思えば次の瞬間、地をのたうち回り始めた。
「あ"ぁぁぁぁ! いだい……いだいぃ……! ひぃぃぃぃ……! 助けて、助けてくでぇぇ」
無様な悲鳴。
先程までの威勢は見る影もなく、その姿は痛みに縋るだけの弱者そのものだった。
柊夜は禍祓を強く握り締める。
胸の奥——
いつもより、ずっと近い場所から、聞き慣れた声が響いた。
『……禍祓の妖気が、霊体に刻まれた傷口を蝕み続けているようだ』
『このままいけば、霊体より先に……精神が崩壊するかもしれないな。
どの道奴は——終わりだ』
一拍。
その声が、僅かに震えた。
『……し、柊夜くん』
どこか遠く、しかし確かに内側から響く声。
『一気に……やるぞ』
『私の……全霊力を、禍祓に注ぐ』
言葉の端々が掠れ、薄れていく。
時間が残されていないことは、考えるまでもなかった。
柊夜は唇を噛み、短く息を吐く。
「……わかった」
握る手に、力がこもる。
「やろう」
その声には、決意があった。
同時に——名残惜しさも、確かに滲んでいた。
次の瞬間。
禍祓の柄から、霧が噴き出した。
刃の形を保てなくなるほどの勢いで、濃密な霊気が溢れ出す。
「……っ!?」
柊夜は思わず息を呑む。
霊感を持たないはずの彼でさえ、肌を刺す寒気と、本能的な危機感を覚える。
悍ましく、圧倒的な濃度。
それは“力”と呼ぶにはあまりに禍々しく、壮大すぎる。
——ガキン。
柄の奥で、何かが砕ける音。
——ガキン、ガキン。
鎖が断ち切られるような音が、ひとつ、ふたつ……
いや、それ以上。
(……封印が)
禍祓は、エグゼという存在を喰らいながら、その内に秘めた“大怨霊”の力を、解き放とうとしていた。
それに呼応するかのように、真田の動きが、ぴたりと止まる。
「……な、んだ……?」
掠れた声。
真田の顔から、みるみる血の気が引いていく。
眼前にあるものは、もはや刀ではなかった。
自身を喰らい尽くさんとする、強大な怨霊の霊力——その具現。
人質は失われ、逃げ場もない。
真田は、絶対絶命の渦中に立たされていた。
——にも関わらず。
真田は、荒い息の合間に、鼻で笑った。
「……くっ、くく……」
次の瞬間、張り裂けるような笑い声が響く。
「クハハハハハ!」
柊夜は、思わず足を止めた。
その笑いに、嫌な確信が混じっていたからだ。
真田は顔を引きつらせ、霊体の内側を削られるような苦痛に耐えながら、ねっとりとした視線を向けた。
「なぁ……お前」
一拍。
「除霊女——神城霧子のこと、好きだろ?」
その一言が、柊夜の胸の奥、
触れてはならない場所を正確に突き刺した。
「……っ」
真田は、柊夜の反応を見逃さない。
わずかに揺れた瞳、こわばった指先。
「はは、やっぱりな。短い付き合いでも分かるもんだ」
「欲しいって思うだろ? 触れたいってさ」
吐き捨てるように、続ける。
「それが男だ。生き物だ。俺も、お前も同じ」
柊夜の身体が、震え始める。
それは怒りでも、羞恥でもない。
胸の内側から湧き上がる、耐え難い嫌悪だった。
真田は、そこに畳みかける。
「俺は、そう思った」
「だから手を伸ばした。それだけの話だ」
まるであの陵辱を"誇る武勇伝"であるかのように当然のこととして言い放ち、肩をすくめる。
「そのせいで人生がどうなったか? 知るかよ」
「後悔? するわけねぇだろ」
口角が、歪につり上がる。
「柊夜。お前も同じだ」
「どれだけ否定しても、腹の底じゃ分かってるはずだ」
「欲しいって気持ちを、抱えたまま生きてる」
「俺と——同じ場所に立ってる」
沈黙。
柊夜の胸が、どくん、と脈打つ。
否定したいのに、言葉が出ない。
『……聞くな』
胸の奥から、かすれた声が届く。
『やるべきことを……思い出せ……』
だが、その声は弱い。
柊夜の意識は、真田の言葉に絡め取られていた。
——そのとき。
禍祓を握る柊夜の手に、そっと、もう一つの温もりが重なった。
背後からの、確かな感触。
「待たせたな、柊夜くん」
凛とした声。
「よく持ち堪えてくれた。ありがとう」
その一言で、張り詰めていた世界が、静かに戻ってくる。
柊夜の胸を満たしたのは、言葉でも期待でもない。
——信頼だった。
揺れていた視線が、再び前を向く。
禍祓の切っ先が、真田を捉える。




