78話 護るために…
真田は、倒れた霧子にはもう興味を示さず、柊夜だけを見下ろしたまま口を開いた。
「覚えてるか? 最初に会った時のこと」
小さく肩をすくめる。
「俺がさ。除霊女に"あの怪異に見覚えはあるか?" って聞かれた時のことだ。
“心当たりはない”って言ったやつ。
工場で襲われただの、必死に逃げただの、元社員だから隠れ場所が分かってただの」
くつくつと喉を鳴らして笑う。
「あれ、全部デタラメだから笑えるよな
……俺はあの廃工場の元社員じゃねぇし、見覚えが無いわけねぇ。
極め付けはお前もご存知の通り、俺が殺した張本人だ」
柊夜の表情が強張るのを見て、真田は楽しそうに続ける。
「お前、あの時すげー取り乱してたよな。
椅子からガタンって立ち上がってさ」
声色をわざと真似る。
「“姉ちゃんはそんな人じゃない!”
“優しくて、お人好しで、笑顔で!”
……ぷっ」
堪えきれず、はっきりと笑った。
「悪い悪い。
あの必死な顔がさ、頭に浮かんできちまってさ」
真田は指でこめかみを叩く。
「十年だぞ?
それでもまだ“姉ちゃん姉ちゃん”って。
どんだけシスコンなんだよ。きっもち悪りぃ」
一歩、わざと近づく。
「除霊女が言ったの、覚えてるか?
“無闇な憶測で人を疑うのはよくない”って」
にやり、と歪んだ笑み。
「あーあ。
正解だったのになぁ」
肩をすくめ、ため息交じりに言う。
「お前もさぁ……」
鼻で笑う。
「せっかく正解を当てたのに、除霊女の言葉通り“無関係な被害者”としてまんまと俺を受け入れちまう」
両手を広げる。
「そうして、自分で考えるのをやめて、楽な結論に納得するしかねぇ」
最後に、低く囁く。
「お前の顔、マジで傑作だったぜ。
まぁ、でもあの時点で俺が殺した張本人だって分かったところで、どうせ何もできやしない」
一歩踏み込む。
「お前は松野にボコられて、ピーピー泣くことしかできねぇ弱虫だかんな」
真田は、思い出したように鼻で笑う。
「そういやさ……
あの時のお前、最高だったよな」
首を傾げ、わざとらしく考える素振り。
「俺の背中見て、“真田さんみたいに強ければ姉ちゃんを守れたのに”とか言ってたっけ?」
鼻で吹き出すように笑う。
「ちょっと松野を追っ払ってやっただけで、姉の仇を憧れの目で見てくるんだもんなぁ」
一歩、距離を詰める。
「チョロすぎだろ。
あんなの、俺からしたら朝飯前だぞ?
松野たち雑魚をどかしただけだ」
肩をすくめる。
「その程度で信頼されて、“ダチを助けるのに見返りはいらねぇ”なんて言えば、お前はもう全部信じちまう」
にやり、と口角が歪む。
「まぁ、仕方ねぇよな。
弱いんだからさ」
低く、突き刺すように続ける。
「松野一人にすら手も足も出ねぇ。
助けがなきゃ、何もできねぇ」
間を置いて。
「だから俺や除霊女に縋るしかなかった」
最後に、はっきりと言い切る。
「姉ちゃん助けたい、守りたいって口では言うけどさ。
結局、自分じゃ何一つできねぇ」
嘲笑が、声に滲む。
「——最高にダサいよ、お前」
真田は、ふと思い出したように口元を歪める。
「……ああ、そうだ。もういっちょ思い出した」
指を鳴らす。
「俺の正体を知った時のお前の顔」
楽しそうに首を振る。
「写メ撮っときゃよかったわ。
マジで後悔してる。あれは傑作だった」
一歩、ゆっくりと近づく。
「膝ついてさ。
地面に手ぇついて、声も出ねぇで」
低く笑う。
「困惑、恐怖、怒り……
裏切られた? ははっ、勝手にだろ」
吐き捨てるように言う。
「お前が勝手に信じて、勝手に憧れて、勝手に期待して」
肩をすくめる。
「思ってたのと違ったからって、今度はキレ散らかす」
鼻で笑う。
「中々、都合のいい頭してるよな」
間を置いて、はっきりと告げる。
「でもさ、全部お前の力不足だ」
声が冷え切る。
「弱いのが悪いんだよ」
逃げ場を塞ぐように続ける。
「これからもお前は、自分の弱さを呪いながら、泣くことしかできねぇ」
最後に、見下ろして言い切る。
「情けねぇ、小さな野郎」
嘲笑を込めて名を呼ぶ。
「——それが、お前っていう空っぽな人間、朝比奈 柊夜だ」
*****
真田は、にやりと口角を上げた。
「口だけじゃねぇなら、来いよ」
一拍置き、楽しげに続ける。
「来ねぇなら退け。……その代わり、どうなるかは分かってるよな?」
言葉よりも、その視線が下劣だった。
柊夜の背後——真昼の存在を、値踏みするように舐め回す。
次はあの女をどう料理してやろうか、そんな下卑た欲望を隠そうともしない視線。それが柊夜を突き動かす。
考えるより早く、柊夜の身体が前に出ていた。
怖い、という感情は確かにあった。だが、それ以上に、これ以上姉が傷つくのが耐えられなかった。
「柊夜、だめ」
真昼が袖を掴む。
「いいの。私なら……我慢できる。柊夜が助かるなら……」
その言葉に、柊夜は一瞬だけ歯を噛みしめた。
「……ごめん」
それだけ言って、手を振り払う。
次の瞬間、柊夜は真田に向かって踏み込んでいた。
拳を振るう。蹴りを放つ。
無我夢中だった。形も、距離も、威力も考えていない。ただ、目の前の男を止めるために、身体を動かす。
だが——
「お、いいねぇ」
真田は避けもしない。防御もしない。
全力で放った拳は、厚い壁を叩いたかのようにびくともしない。それどころか、真田は欠伸さえ噛み殺していた。
「ほらほら、頑張れ頑張れ」
次の瞬間、柊夜の視界が反転した。
何をされたのか分からない。
衝撃だけが遅れて全身を貫き、背中から地面に叩きつけられる。
息が詰まる。視界が白く滲む。
「……っ!」
それでも柊夜は、歯を食いしばって立ち上がった。
「おっと、手が滑ったわ」
軽い調子の声と同時に、また視界が吹き飛ぶ。
今度は地面を転がり、ようやく止まった。
身体が悲鳴を上げている。
だが、考える余裕はなかった。
——立たなきゃ。
理由も、覚悟も、言葉にならない。
ただ、立たなければならない気がした。
「まだやんのか?」
真田が首を傾げる。
「いいぞ。付き合ってやる」
柊夜は、ふらつきながらも再び立ち上がった。
拳を握る。足に力を込める。
目の光だけは、消えていなかった。
それを見て、真田は心底楽しそうに笑った。
「その顔だよ。その顔」
次の瞬間、またしても柊夜の身体は宙を舞った。
何度倒れても、何度叩きつけられても、柊夜は立ち上がろうとした。
考えていない。分かっていない。勝てるとも思っていない。
それでも——視線だけは、決して逸らさなかった。
*****
——その瞬間だった。
周囲の景色が色を失い、真田の嘲笑も、姉の泣き声も、遠い世界の出来事のように遠のいた。
すべてが途中で切り取られたように静止する。
「柊夜……くん……」
微かに、声がした。
真昼でもない。真田でもない。ましてや霧子でもない。
柊夜は、ゆっくりと振り返る。
背後に立っていたのは、漆黒のマントを翻す男だった。鋭く逆立つ髪。禍々しくも整然とした装飾に覆われた異形の姿。
夜の執行者——エグゼ。
「……エグゼ」
エグゼは一歩踏み出し、柊夜を見下ろした。
「君は、あの男が憎いか?」
低く、問いかける。
「殺すための力なら、私が与えよう」
そう言って、手を差し出す。
柊夜は、迷わず答えた。
「憎い。殺したい。この世から消し去りたい」
一拍置き、はっきりと続ける。
「それは変わらない」
だが、拳を握りしめて言葉を重ねた。
「でも、それ以上に——護りたい」
視線を逸らさず、エグゼを見据える。
「護る力が欲しい」
エグゼは、短く笑った。
「フッ……今の君なら、そう言うと思っていた」
その声に、かつてのような濁りはない。
「私は君の一部だ。考えなど、お見通しだよ」
柊夜は、違和感に気づいていた。
雰囲気だけではない。
以前は、装飾の隙間から覗いていた剥き出しの繊維。皮膚を失った、不完全な肉体。
だが今、エグゼの身体には、はっきりと“皮膚”があった。
エグゼは、静かに仮面を外す。
それは、鏡を見ているようだった。だが、鏡の中の自分よりもずっと強く、静かな決意を秘めた瞳。憎悪の塊だったはずの怪異が、今は『自分自身』としてそこに立っていた。
明らかに、以前とは違う。姿も、気配も、在り方も。
「復讐のために振るう刃も、護るための刃も……」
エグゼは淡々と語る。
「今は同じだ。相手も変わらない」
わずかに目を細める。
「私の本質が、復讐心のままなのか……
それとも、君と同じく完全に変化したのかは分からない」
だが、と続ける。
「どちらにしても、目的は同じだ」
再び、手を差し出した。
「力を貸そう。そして、守ろう」
柊夜は一歩踏み出す。
「わかった」
はっきりと告げる。
「もし君が、復讐に囚われて真田を殺してしまいそうになったら……」
一瞬、言葉を選び……。
「その時は、俺がブレーキになる」
そして、力強く言った。
「だから、力を貸してくれ。ともに戦ってくれ」
胸の奥で、柊夜は思う。
(その必要はないだろうけど……)
だって——。
(俺の生き霊……君は、間違いなく変わった)
エグゼは、少しだけ間を置いて頷いた。
「……わかった」
その声は、かつてよりも、ずっと静かだった。
*****
——世界が、再び動き出す。
「何ボサっとしてやがる」
真田が、指で柊夜を弾こうとした。
その瞬間だった。
柊夜の手が伸び、真田の指を正確に受け止める。
「……なっ」
真田の表情が、初めて歪んだ。
柊夜は、静かに息を吐く。
全身から、黒い瘴気が滲み出していた。
荒れ狂うのではない。噴き上がるでもない。
まるで、身体に馴染むように——自然に、そこに在った。
「エグゼ……ありがとう」
その言葉と同時に、柊夜の内側で何かが噛み合う。
意志と意志。
感情と感情。
復讐と守護。
どちらかが上書きされるのではない。
どちらかが消えるのでもない。
ただ、二つが一つに重なり合った。
「何だ……それ……!」
真田は、指を引き抜きながら一歩下がる。
柊夜から感じ取れる霊力——
いや、それだけじゃない。
迷いが、ない。
以前の柊夜は、揺れていた。
怒りと恐怖、憎しみとためらいの間で。
だが今は違う。
柊夜が手を伸ばすと、瘴気が集束していく。
形を持ち、輪郭を得て、やがて一振りの大鎌へと変わった。
「……あれは……」
真田の脳裏に、忌まわしい記憶が蘇る。
——あの日。
自身の生活の拠点を脅かされ、一方的に踏み込まれ、抵抗する暇すら与えられず、命そのものを脅かされた。
地元では負け知らずの真田だが、一騎当千の猛者ではない。
故に彼も喧嘩に負けたことなら、これまでにもあった。
だが、あれは違う。
暴力で、力で、存在そのものを捩じ伏せられた。
真田が初めて味わった、"逃げるしかない"という恐怖の記憶。
制御の利かない力を振るう、あの時の柊夜。
「あん時の……!?」
だが、すぐに気づく。
違う。
同じ形をしていても、在り方がまるで違う。
柊夜から放たれる圧は、以前の比ではなかった。
力が増したからではない。
ブレが、完全に消えている。
真田は、無意識のうちに後退していた。
柊夜は何も言わない。
睨みつけもしない。
叫びもしない。
ただ、大鎌を構える。
次の瞬間——
黒い軌跡が、空間を切り裂いた。
「——っ!」
真田の身体に、確かな衝撃が走る。
——だが、血は出なかった。
「……っ!!」
喉の奥から、押し殺した声が漏れる。
斬られたのは、肉体ではない。
もっと内側。
身体の奥に“あるはずのもの”を、直接引き裂かれた感覚。
魂を、撫で斬りにされた。
それは、霧子の禍祓による斬撃と同種のもの。
激痛が、遅れて爆発する。
内側から灼かれるような、逃げ場のない痛み。
真田は歯を食いしばり、思わず後退した。
しかしこれでも致命傷ではない。
だが——。
間違いなく、“通った”。
真田は、歯を食いしばりながら距離を取る。
「……クソ……」
先程とは打って変わり、焦りの混じった声だった。
それでも、これで終わるほど浅い相手ではない。
だが——。
もう、遊びの時間は終わった。




