74話 あの日々は、未だここに在り
霧子が先に足を踏み入れ、柊夜がそれに続いた。
軋む音を立てて、扉がゆっくりと閉じられる。
——その瞬間だった。
もともと異界に足を踏み入れたかのような感覚はあった。
だが、扉が閉まった途端、空気がもう一段、沈む。
外とは完全に切り離された、別の世界。
息を吸うたび、胸の奥がわずかに詰まる。
真夏だというのに、肌寒い。
腕に、ぞわりと鳥肌が立った。
それでも柊夜は、振り返らなかった。
恐怖から目を逸らしたわけではない。
ここで立ち止まるという選択肢を、すでに自分で捨てていた。
進むと決めた以上、後ろを見る必要はない。
柊夜は前を向いたまま、迷いなく一歩を踏み出した。
「……靴、脱いだほうがいいかな?」
沈黙を破るように、柊夜が尋ねた。
霧子は玄関先を一瞥し、即座に首を横に振る。
「いや。床は荒れている。割れたものも多い……怪我の恐れがある。土足のまま行こう」
「うん」
柊夜はそのまま足を踏み出そうとして——
ふと、違和感に引っかかった。
「……靴」
声が、自然と低くなる。
霧子が振り返る。
「どうした?」
柊夜は、言葉を続ける代わりに、そっと指を差した。
玄関の隅。
そこに置かれていたのは、一足の靴だけだった。
茶色いローファー。
使い込まれているのに、傷みは少ない。
誰かが大切に扱っていた痕跡だけが、静かに残っている。
まるで、持ち主だけが置き去りにされたかのように。
柊夜の喉が、ひくりと鳴る。
「……これ」
一拍置いて、絞り出すように言う。
「これ……姉ちゃんのだ」
かつて、真昼が履いていた靴。
通学のとき、買い物に出るとき、何度も見たはずの靴。
(……遺品は、全部回収したはずだ)
そう、はっきり覚えている。
なのに、なぜ——。
(昔のことだ。俺の記憶が、曖昧なだけかもしれない)
そう自分に言い聞かせようとしても、胸の奥が否定する。
(……でも)
これは、姉ちゃんのものだ。
理由は分からない。けれど、そうだと分かってしまう。
霧子は何も言わず、しばらくその靴を見つめていた。
やがて、静かに息を吐く。
「……真昼さんは、今もここに囚われている」
それだけ告げると、霧子は視線を前へ戻し、歩き出した。
柊夜は、もう一度だけローファーを見下ろす。
玄関に残された、帰ることのなかった靴。
——それは、この家がまだ“手放していない”証のように見えた。
柊夜は視線を切り、霧子の後を追った。
*****
廊下に足を踏み入れた、その直後だった。
柊夜は反射的に背中へ手を伸ばした。
(……何だ、これ)
痛みではない。
かといって、寒気とも違う。
背中の奥が、むず痒く、落ち着かない。
一歩。
また一歩。
進むたびに、その感覚ははっきりしていった。
まるで見えない指先が、じわじわと一点に集まり、背中の中央へと押し当てられてくるような——逃げ場を塞ぐような圧。
柊夜は思わず肩をすくめる。
振り払おうとしても、そこには何もない。
それでも、確かに“何か”がそこに在ると、身体だけが理解していた。
その様子に気づき、霧子が立ち止まる。
一瞬、周囲に視線を走らせ——低く呟いた。
「……見張られているな」
その言葉に、柊夜の中で違和感の正体が繋がった。
背中に感じていた圧迫感。
絡みつくように離れない不快感。
(——視線だ)
誰のものかなど、考える必要もなかった。
この家に残る、加害者の念。
逃がすまいと、逃げ場を奪うためだけに張り付いた、粘つく悪意。
見られている。
ただそれだけなのに、肺の奥が重くなる。
背中に、じりじりと熱を帯びた線を引かれるような感覚が、いつまでも消えなかった。
*****
さらに廊下を進んだ先、襖が半ば開いたままの部屋があった。
その前を通り過ぎようとした、その瞬間だった。
「……っ」
柊夜は思わず鼻を押さえ、足を止めた。
「うっ……何だ、この匂い……」
空気が、重い。
鉄を舐めたような、湿った臭気が喉の奥にまとわりつく。
息を吸い込んだだけで、内臓の位置がずれるような不快感があった。
隣の霧子も同時に眉をひそめる。
彼女は咄嗟に右手を伸ばし、柊夜の胸元で制するように止めた。
「……待て」
低く短い声。
柊夜は黙って頷き、その場に留まる。
霧子は一歩だけ前に出て、ゆっくりと襖の内側を覗き込んだ。
一瞬——その呼吸が止まる。
「……っ!?」
息を呑む音が、はっきりと聞こえた。
「霧子さん!」
反射的に声を上げ、柊夜も中を見てしまう。
「——っ!!」
視界に飛び込んできた光景に、思考が一瞬で凍りついた。
部屋そのものが赤く染まっているような錯覚。
実際に色が付いているわけではない。
ただ、あまりにも濃く、あまりにも生々しい血の匂いが、視覚までも侵食していた。
床に無造作に並べられていたのは……
刃先が赤黒く変色したカッター。
片側だけ、異様に汚れたダンベル。
何度も叩きつけられたのだろう、歪みきったフライパン。
そして——結び目だけを残して放り出された電気コード。
どれも、どこにでもある日用品。
それなのに。
使われたまま、片づけられることもなく、そこに置かれている。
まるで"用途"を誇示するかのように。
漂う鉄の匂いと、赤く染みついた痕跡が、それらが何に使われたのかを雄弁に物語っていた。
二人とも、言葉を失うには十分だった。
「……ぐっ……」
柊夜は歯を食いしばり、拳を強く握り締める。
怒りと吐き気が、同時にこみ上げてくる。
それでも——
彼は、視線を廊下の先へと戻した。
(今は……姉ちゃんを助けることだけを考えろ)
そう言い聞かせるように、胸の奥で繰り返す。
「……大丈夫か」
霧子が、横から静かに声をかけた。
「うん……大丈夫……」
そう答えはしたが、明らかに平静ではない。
怒りを押し殺した瞳が、わずかに揺れている。
それでも霧子は、それ以上踏み込まなかった。
彼が、ただ耐えているのではなく——
覚悟を固めて前を向いているのだと、理解したからだ。
*****
二人はそのまま廊下を進み、突き当たりの台所へ辿り着いた。
流し台、古い戸棚。
その先にあるのは風呂場とトイレだけで、行き止まりだった。
「……ここで終わりか」
霧子が低く呟く。
二人は来た道を引き返し、左右の襖や扉を一つずつ開けて確認していく。
居室、物置、押し入れ。
どこにも異常はない——いや、あるはずのものがない。
二階へ続く階段が、見当たらなかった。
「……おかしい」
柊夜は、思わず声を漏らしていた。
視線が、廊下の奥から天井へ、そして壁へと彷徨う。
どこを見渡しても、上へ続くはずの“余地”が見当たらない。
「外から見た時は、確かに二階があったのに……」
自分に言い聞かせるような呟きだった。
記憶違いであってほしい。
そう思うほど、家の構造が噛み合わない感覚が、胸の奥に溜まっていく。
「おかしくはない」
霧子の声が、その曖昧な期待を断ち切った。
彼女は足元から天井までを一瞥し、淡々と言い放つ。
「この家の中は、既に現世の理屈から逸脱している」
その言葉に、柊夜の胸に引っかかりが残る。
『真昼さんは、"この世界ではない異界に囚われている”』
以前、霧子がそう言っていたのを思い出した。
柊夜は、無意識に息を呑んだ。
——姉が囚われていた“世界”に、足を踏み入れたのだ。
そう思い知らされるには、十分すぎる言葉だった。
その時だった。
「……?」
霧子が、ぴたりと足を止める。
何かを感じ取ったように、ゆっくりと周囲を見渡した。
「……何か、ある」
そう言って、彼女は廊下の壁沿いへと歩み寄る。
——ガリ……。
微かな音。
——ガリ、ガリ……。
何かを削るような、爪を立てるような音が、静寂の底から滲み出てくる。
「……聞こえる?」
柊夜は、反射的に声量を殺して尋ねた。
廊下に、音が満ちている。
はっきりとした方向を持たず、壁の内側を這い回るような、不快な響き。
「これも……無視した方がいい?」
視線を動かさないまま、柊夜は霧子に問いかける。
これまでなら、聞かなかったふりをして進めば済んだ。
だが、この音は——何かが違う。
「……いや」
霧子は、わずかに首を横に振った。
その仕草は小さいが、迷いはなかった。
——ガリガリ……。
乾いた音が、再び走る。
木材を削るような、あるいは、閉じ込められた何かが出口を探しているような——
意思を感じさせる音だった。
その瞬間——
ガサ……ガサガサ……。
「!?」
今度は、柊夜の背後。
背負っていた鞄の中から、布擦れのような微かな音がした。
壁の音と、鞄の中の音。
互いに呼応するように、間を詰めて重なっていく。
「……柊夜くん」
霧子が静かに声をかける。
「少し、鞄の中を失礼する」
柊夜が頷くよりも早く、霧子は行動していた。
躊躇いなどない。最初から答えを知っていたかのように、彼女は柊夜の鞄へと手を伸ばす。
布越しに、何かが微かに震えた。
霧子は中を探り、そっと取り出す。
姿を現したのは——あの、ぬいぐるみだった。
…………。
………………。
ぬいぐるみが外気に晒された、その瞬間。
嘘のように、壁の内側を削っていた音が途絶えた。
まるで家そのものが、息を呑んだかのように。
空気は張りつめ、重く、音の存在を許さない静寂へと変わる。
——次の瞬間。
ガタン。
どこか深い場所で、建物が軋む音がした。
それは崩壊の前触れではない。
長く閉ざされていたものが、仕方なく道を譲った——そんな響きだった。
二人が音のした方へ視線を向けると、さっきまで、ただの壁だった場所に。
いつの間にか、階段が現れていた。
「……やはりな」
霧子は、確信を帯びた声で小さく呟く。
手にしたぬいぐるみの、大きな嘴を、労わるように一撫でする。
それは礼であり、合図でもあった。
霧子はぬいぐるみを丁寧に鞄へ戻した。役目は果たされた、とでも言うように。
「階段!? え……? どうして?」
柊夜は目を丸くして霧子を見る。
「真昼さんと、このぬいぐるみは繋がっている」
霧子は階段の上を見上げながら、静かに言った。
「……互いに惹かれ合い、呼び合う存在だ。
このぬいぐるみも、真昼さんを助けたいんだろう。だから道を示した。
——私たちに、真昼さんを託すようにな」
そう告げてから、彼女は振り返る。
「行くぞ。真昼さんの待つ場所まで——もう少しだ」
*****
階段は、上が見えないほど長く続いていた。
右手の壁には、同じ大きさのポスターが等間隔で貼られている。
柊夜は、最初の一枚の前で足を止めた。
「……このポスター、懐かしいな」
水着姿の女性が、カメラに向かって屈託なく笑っている。
どこか時代を感じさせる、ありふれたアイドルの宣材写真だった。
「俺が小学生の頃、すごく売れてたアイドルだ」
何気なく視線を外し、階段を上がる。
すぐに、二枚目のポスターが目に入った。
「また……同じ、ポスター?」
同じ女性、同じ構図、同じ笑顔。
だが、霧子は足を止めたまま、じっと二枚目を見つめていた。
(……何かが違う)
霧子の視線が鋭くなる。
顔や身体にわずかに汚れがある。
それはポスターの汚れなのか、それとも——
三枚目。
柊夜は、無意識に眉をひそめた。
(……表情が、違う?)
笑っているはずなのに、どこかぎこちない。
そして、顔と脚に、うっすらと痣が浮かんでいる。
「……さっきまでは、なかったよな」
四枚目の前で、柊夜は言葉を失った。
女性の表情は、もはや笑顔ではなかった。
目には涙が溜まり、頬は赤く腫れ上がっている。
「……このポスター、なんか……気味が悪い……」
「気づいたか」
霧子が静かに言う。
「私の予想が正しければ、次は——」
五枚目。
腹には大きな青痣。
手足には、明らかに増えた切り傷。
「……やはりな」
霧子は低く呟いた。
「この階段は、この建物の記憶を司る通路だ」
「そして、このポスターは……真昼さんが殺されるまでの日々を、刻んでいる」
柊夜は、喉を鳴らした。
六枚目。七枚目。
進むたびに、傷は増えていく。
十五枚目を過ぎる頃には、一枚目とは同一人物と思えないほど顔は大きく腫れ上がっていた。
二十枚。
三十枚。
その前で、柊夜の足が止まる。
「……あの写真……」
腫れ上がり、頭の形まで歪んだその顔。
それは——柊夜が初めて目にした霊障。
アルバムの中から突如こぼれ落ちた、"あの写真"と同じだった。
階段を登り切った後、柊夜は真っ青な顔で俯いていた。
「大丈夫か?」
霧子が声をかける。
「あれを、無理に見る必要はなかった。……なぜだ?」
柊夜は、しばらく黙っていた。
言葉を探しているというより、胸の奥に溜まったものを、どう外に出せばいいのか分からない、といった様子だった。
額から汗が流れ落ちる。
呼吸を整えようとしても、うまくいかない。
やがて、絞り出すように口を開いた。
「……見て見ぬふりは、出来なかった」
自分に言い聞かせるような声だった。
「目を逸らしたら……逃げてる気がして」
何から逃げるのか。
姉の死からか、自分の無力さからか、それとも——復讐を望んだ自分自身からか。
柊夜には、もう切り分けることが出来なかった。
「……そうか」
霧子は、否定も肯定もせず、ただ短く応じた。
その手が、柊夜の背に置かれる。
ゆっくりと、一定のリズムでさすられるたび、強張っていた体から、少しずつ力が抜けていった。
「よく頑張ったな」
その言葉は、労いというより、認めるための言葉だった。
(不器用だな)
霧子は、俯いたままの柊夜を見つめる。
傷つくと分かっていても、目を逸らさない。
楽になる道を選ばず、あえて苦しい方を選んでしまう。
(だが——)
霧子の表情が、ほんのわずかに緩む。
(その強い想いは、必ず真昼さんを救う)
それは祈りに近い確信だった。
「ありがとう、霧子さん。体調、もう大丈夫だよ……」
柊夜は再び目線を前に戻し歩き始める。
——その時だった。
「……っ」
足が、ぴたりと止まる。
理由は分からない。ただ、背筋を撫でるような違和感が走った。
次の瞬間、耳に届いた。
『……ぃや……』
掠れた、消え入りそうな声。
『……うぅ……』
啜り泣くような、嗚咽。
柊夜は息を呑んだ。
霧子も、無言のまま視線を奥へ向ける。
——考えるまでもなかった。
この家にいて、この声で、この場所で泣いている存在など、ひとつしかない。
声は、二階の奥。
廊下の突き当たりにある、閉ざされた一室から漏れている。
一歩、踏み出す。
軋む床の音に混じって、声がわずかに鮮明になる。
『……やだ……』
また一歩。
『……こないで……』
胸の奥を、直接掴まれるような感覚だった。
耳で聞いているはずなのに、心臓の裏側に触れられている気がする。
柊夜は無意識のうちに、拳を握り締めていた。
——ここまで来た。
もう、目を逸らす理由はなかった。
廊下の先。
声の正体を隔てる、最後の境界線。
柊夜は、その扉の前に立つ。
手を伸ばした、その瞬間——
「……待て」
霧子の声が、低く響いた。
止めるほど強くはない。
だが、確かに一瞬の躊躇を与える声だった。
霧子は、柊夜の横顔を見る。
その目には、警戒と、覚悟を測るような色が滲んでいる。
——この扉の先にあるものは、
救いか、
それとも、耐え難い現実か。
柊夜は、短く息を吸い——
柊夜は、ゆっくりと扉に手をかけた。
力を込めると、扉は抵抗するように軋んだ音を立てながら開いていく。
その先にあったのは——部屋ではなかった。
一面の黒。
どこまでが床で、どこからが壁なのかも分からない。
奥行きも、天井の高さも測れない。空間そのものが、形を拒んでいるようだった。
そこは“何もない”虚空だった。
一歩、足を踏み入れた瞬間。
まとわりつくような湿気が、肌を撫でた。
じっとりとした不快感が、衣服の内側にまで染み込んでくる。
「……いる」
柊夜が、思わずそう呟く。
何もないはずの虚空の中。
ただ一箇所だけ、影があった。
ぽつんと、取り残されたように。
そして——啜り泣く声は、そこから確かに聞こえている。
二人は一度だけ顔を見合わせ、言葉を交わさぬまま、慎重に距離を詰めた。
近づくにつれ、その影の輪郭が、ゆっくりと形を帯びていく。
……人だ。
いや——違う。
彼女こそが、この場所に囚われ続けている存在。
朝比奈 真昼。その魂だった。
「姉ちゃん!」
柊夜の声に反応するように、影が微かに動いた。
ゆっくりと振り向いた、その顔を見て——二人は、息を呑む。
以前、現れた時の彼女は、生前の面影を残していた。
穏やかで、元気だった頃の姿だった。
だが、今は違う。
全身は痣だらけで、脚元には血溜まりが広がっている。
片脚は在らぬ方向に折れ曲がり、力を失った腕はだらりと垂れていた。
腹部には、紫と黄色に変色した無数の痣。
古い傷の上に、新しい暴力が重ねられた痕跡。
そして——顔。
腫れ上がり、歪み、もはや以前の彼女の面影を探すことすら難しい。
目の前にいる真昼は、今もなお——
“あの事件”の最中に、閉じ込められ続けていた。
今年最後の更新です。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
もう少しだけ続きますのでよろしくお願いします。
良いお年を!




