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赦すも処すも、生者次第 #加害者を許すな  作者: ヨウカン
最終章 旅路の果てに、未来は在って…
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73話 それでも、進む

 雲ひとつない空だった。

 柊夜は部屋の窓からしばらくの間、何も考えずにその青空を見上げていた。


 ——ついに、この日が来た。


 一時間ほど前、霧子のもとに連絡が入った。

 姉・真昼の魂が囚われている“あの事件現場”への立入許可が、正式に下りたのだ。


 連絡を受けるや否や、霧子は部屋へ駆け込み、精神を統一するために籠もった。

 その背中を見送ったあと、柊夜はひとり、空を仰いでいた。


 逃げたいわけじゃない。

 怖くないわけでもない。

 ただ、もう一度だけ——自分の覚悟を確かめておきたかった。


 「……ちょうど今日は迎え火の日、か」


 ぽつりと漏れた独り言は、誰に聞かせるでもない。

 盆の入り。あの世とこの世の境が、わずかに緩む日。


 「今年こそ……姉ちゃんを家に帰してあげたい」


 一瞬、言葉が詰まる。

 けれど、すぐに首を振り、言い直した。


 「いや……帰してあげたい。帰す——絶対に救うんだ」


 その瞳には、迷いはなかった。

 かつて復讐に呑まれ、怒りと憎悪に支配されていた頃の光とは違う。

 痛みを知ったうえで、それでも前を向こうとする者の、静かで強い光だった。


 ——コンコンコン。


 不意に、部屋の扉を叩く音が響く。

 柊夜が扉を開けると、そこに立っていたのは霧子だった。


「霧子さん。準備、整ったんだね」


「あぁ」


 短く答えた霧子の声は、澄んでいた。


 「今の私は、最高の状態だ。必ず——真昼さんを助けられる」


 断言するその口調に、根拠のない虚勢はない。

 幾度も修羅場をくぐってきた者だけが持つ、研ぎ澄まされた確信があった。


 霧子は一拍置いてから、柊夜をまっすぐに見据える。


 「最後に、ひとついいかな?」


 「うん」


 「真昼さんが昔、大切にしていたぬいぐるみ……あれも、持っていきたい」


 柊夜は小さく頷いた。


 ——真昼のぬいぐるみ。

 身体に対して不釣り合いなほど大きな嘴を持つ、鳥の形をしたそれは、真昼が生前、肌身離さず大切にしていたものだった。


 だが、もはや“ただのぬいぐるみ”ではない。

 長い年月を経て魂が宿り、付喪神となったそれは、事件現場に縛られ続ける真昼の苦痛を、今この瞬間まで、代わりに引き受けていた。


 ——誰にも知られず、誰にも褒められず、それでも。

 柊夜はそっと、その存在を思い浮かべる。


 「……一緒に行こう」


 それはぬいぐるみに向けた言葉であり、遠く離れた姉に向けた、無言の誓いでもあった。



 *****


 

 最寄りの駐車場に車を停めたのは、事件現場から少し離れた場所だった。

 周辺は空き家ばかりで、近くに車を停められるような場所がない。生活の気配を失った一帯は、地図で見る以上に歪んだ空白地帯に見えた。


 エンジンを切ると、急に音が遠のく。

 虫の声も、風の音も、やけに薄い。


 車を降りた瞬間だった。


 ——ぞわり。


 足元から背筋へ、冷たい感触が這い上がる。

 肌を撫でたのは風ではない。空気そのものが、違う。


 柊夜は思わず周囲を見回した。


 さっきまで確かに現実だったはずの景色が、薄い膜一枚隔てた向こう側にあるような——そんな錯覚に陥る。

 色がくすみ、距離感が狂い、世界がわずかに傾いている。

 それは異変というより、"境界を踏み越えた"という感覚に近かった。


 「……ここ、なんか……すごく嫌な感じがするんだけど」


 自分でも驚くほど、声が低くなった。

 困惑というより、本能的な拒絶に近い。


 霧子はすでに周囲へ視線を巡らせていた。

 何もない空間を睨みつけるように、ゆっくりと首を動かす。


 「あぁ。事件現場を中心に、高濃度の霊気が溜まっている」


 淡々とした口調だったが、その声音には緊張が混じっている。


 「その影響で、この辺り一帯には浮遊霊が溢れている。……とはいえ」


 霧子は一瞬だけ、柊夜を見た。


「驚いたな。霊感のない柊夜くんにまで、ここまで強く感じさせるとは」


 その言葉が、逆に不安を煽る。

 “感じてしまっている”という事実が、引き返せない場所に立っていることを、否応なく思い知らせる。


 柊夜は無意識に拳を握りしめた。


 ——そのとき。


 『……つらい……』


 耳元で、確かに“声”がした。


 『さみしい……たすけて……』


 泣いているのか、呻いているのかも分からない。

 男か女かも曖昧な、輪郭の溶けた声。


 「え……? いまの、誰……?」


 反射的に振り返ろうとした瞬間、柊夜の口を、霧子の手が塞いだ。

 強くはない。だが、寸分の迷いもない動きだった。


 霧子は柊夜の耳元で、低く、鋭く囁く。


 「——耳を貸すな」


 視線は前方から逸らさない。


 「ここでは、何が聞こえても無視しろ。呼びかけに応えるな。振り返るな」


 そして、言い聞かせるように続ける。


 「考えることはひとつだけだ。ただ、前へ進む。それ以外は切り捨てろ」


 喉がひくりと鳴った。

 柊夜は霧子の手の下で、唾を飲み込み、小さく、しかし確かに頷いた。


 ——大丈夫だ。

 逃げない。戻らない。


 ここが、姉の魂が囚われ続けた場所なのだから。


 二人は並んで歩き出す。

 沈黙の中、見えない“何か”に見つめられながら。

 事件現場は、もうすぐそこだった。



 *****


 歩みを進めるにつれて、空気は明らかに変質していった。


 霊気が、濃い。

 それは寒さや圧迫感といった分かりやすいものではなく、もっと生理的な——

 まるで見えない手で、全身をゆっくりと撫で回されているような、不快な感触だった。


 柊夜は無意識のうちに肩をすくめ、視線を落とす。

 じっと、じーっと目を細め、周囲を“見ない”ようにしながら、霧子の背中だけを追って歩いた。


 足を止めたのは、霧子だった。


 「……着いたぞ」


 その一言に、柊夜は顔を上げる。


 そこにあったのは、ごくありふれた二階建ての一軒家。

 瓦屋根に、色あせた外壁——

 ただし、その壁面は無数の落書きで汚されていた。


 「犯罪者」「鬼畜」「出ていけ」「死ね」


 ひとつひとつは違う筆跡なのに、そこに込められた感情だけは、驚くほど似通っていた。

 どこにでもありそうな住宅街の一角にありながら、そこだけが世界から露骨に拒絶されていた。


 ——なのに。


 奥行きが、感じられない。


 建物としての大きさは分かるのに、視線が中へと届かない。

 平面的で、薄っぺらなのに、底が抜けたような感覚だけが残る。


 「……言葉が聞こえるわけじゃない」


 柊夜は慎重に言葉を選んだ。


 「でも、なんでかな……中から、侵入を拒まれてる気がする。空気そのものが……。気のせい、だよね?」


 霧子は即座に首を横に振る。


 「気のせいなんかじゃない」


 視線は、家の扉に固定されたままだ。


 「ここは、加害者たちが必死になって事件を隠蔽しようとした場所だ。

 真実を閉じ込め、なかったことにしようとした——その念が、今も染みついている」


 吐き捨てるような声だった。


 「だから内部に人を入れさせようとしない。

 “見られること”そのものを、拒んでいる」


 霧子は、睨みつけるように扉を見る。

 まるで、相手が生き物であるかのように。


 「柊夜くん」


 「……はい?」


 「怖いか?」


 一瞬、言葉に詰まった。

 だが、柊夜は視線を逸らさなかった。


 「……怖いよ」


 正直な声だった。


 「ここは……来ちゃいけない場所だって、本能が訴えてる。

 逃げろって、今すぐ引き返せって……」


 一拍、息を吸う。


 「でも——」


 柊夜は、はっきりと言った。


 「逃げない」


 足先が、わずかに震えている。

 それでも、その瞳に揺らぎはなかった。


 強い視線は、真っ直ぐに——家の扉を捉えている。


 「……覚悟の籠った、いい目だ」


 霧子は小さく頷いた。


 「大丈夫だ。私がいる」


 その一言が、胸の奥に静かに沈んだ。


 そして、霧子は柊夜の背中を力強く叩いた。

 軽い衝撃が、張り詰めていた身体に伝わる。


 ——その瞬間。


 柊夜の脳裏に、過去の光景がよみがえった。


 夕暮れの砂浜。

 くしゃくしゃになったテスト用紙を握りしめ、泣いている自分。


 『どうしたの? 早く帰らないと、お母さん心配するよ』


 顔を上げると、真昼がいた。


 『テスト? うーん……たしかに点は悪いけど』


 少し目線が高くなる。立ち上がったのだ。


 『あ、これ、解答欄ズレちゃってるね。

 お母さん、そんなに怒らないと思うよ。柊夜、サボったわけじゃないでしょ?

 それは、私もお母さんも知ってる』


 夕日を背に、真昼が前に立つ。


『大丈夫。私が、一緒についててあげるから』


 そして——

 背中を優しく叩いた。


 ——過去から今へと意識が戻る。


 「……ありがとう」


 柊夜は、霧子に向けて言った。


 「でも俺、本当に大丈夫だから」


 目を逸らさず、続ける。


 「姉ちゃんを助けるって、もう散々決めた。

 今さら、その決意が揺らぐことはない」


 霧子は何も言わず、静かに頷いた。


 右手に持った鍵が、扉の鍵穴へと差し込まれる。

 鈍い音を立てて、鍵が回った。


 扉の向こうは、闇だった。

 中が見えない、光を拒むような闇。

 それでも柊夜は、霧子という“光”を感じながら、一歩、足を踏み入れた。


 ——ここが、始まりだ。

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