71話 罪人たち
数日前——
都内某所。深夜の繁華街に建つホストクラブは、すでに原形を留めていなかった。
燃え盛る炎が天井を舐め、赤黒い光が割れたガラスと床に散らばる酒瓶を照らしている。焦げた甘い匂いと、溶けた内装材の刺激臭が、空気を重く満たしていた。
その店の奥。
逃げ遅れた一人のホストが、炎に囲まれながら立ち尽くしていた。
向かいにいるのは——
大柄で、異様に筋肉質な男。
人間の輪郭を保ちながらも、どこか決定的に“逸脱した”存在。
——真田 誠である。
過去の罪から逃げ抜いた果てに人であることを捨て、怪異へと堕ちたものだった。
「……てめぇ」
ホストが、掠れた声で吐き捨てる。
「知ってるぞ。ちょっと前にSNSで出回ってた……お尋ね者だろ。十年前、あの胸糞悪い事件を起こした——」
言い切る前に、真田が口角を吊り上げた。
「へぇ。よく知ってんじゃん♡」
弾ける火の粉が真田の頬をなめるが、その肌には火傷一つ刻まれない。
「そうだよ。俺は十年前、ある女を徹底的に壊して、殺した男だ。……でもさぁ」
炎が弾ける音が、言葉の合間に割り込む。
「女を食い物にして、心まで枯らして金稼いでるてめぇなら……俺の愉悦、少しは分かるんじゃねぇか?」
真田は、わざとらしく首を傾けた。
「なぁ? ナンバーワンホスト君よぉ」
「……はぁ?」
ホストの顔に、露骨な嫌悪が浮かぶ。
「一緒にするんじゃねぇよ。俺は“仕事”でやってんだ」
その言葉には、歪んだ自負が滲んでいた。
数十人の女を魅了し、破産させ、裏の世界へ引きずり込んできた男。
だが——世間から“鬼畜”と断じられた真田と同類扱いされることだけは、どうしても耐え難いらしい。
その時、背後で凄まじい破裂音が響いた。 熱に耐えかねたシャンパンタワーが、音を立てて崩落したのだ。
数百万円の虚飾が、琥珀色の飛沫を撒き散らしながら炎の中へと消えていく。飛び散った酒が火勢を強め、逃げ場のない熱気がさらに膨れ上がった。
真田は、その光景をうっとりと眺めている。
「いい音だなぁ。……なぁ? ナンバーワンホスト君よぉ」
「狂人め……」
整った顔は歪み、不快感が隠しきれず滲み出ていた。
それを見て、真田は愉快そうに目を細める。
「……いいツラじゃん」
ぱん、ぱん、と。
大袈裟な拍手が、燃え落ちる店内に虚しく響いた。
「商売用に取り繕った嘘っぱちの仮面よりさ。今の、その汚ねぇツラの方が——よっぽどお前らしいぜ?」
「……っ」
ホストは歯噛みし、視線を逸らす。
「もういい。そんなことはどうでもいい」
声を荒げ、叫ぶように続けた。
「それより——お前は俺に何をしに来た?
女を取られて逆恨みか? だったら話が違う。悪いのは、尻の軽い——」
「だぁぁっ、違う違う」
真田が、面倒くさそうに手を振る。
その指先が不自然に長く伸び、爪の先からどす黒い瘴気が漏れ出した。外付けの強大な力が、彼の精神を追い越して暴走しているかのようだ。
「勘違いすんな。俺がここをぶっ壊してんのは、お前個人にゃ関係ねぇ話だ」
一歩、近づく。
熱で歪んだ空気が、二人の間で揺れた。
「今こうしてお前と喋ってんのはな——」
口元に、歪んだ笑み。
「単なる暇つぶしだよ」
炎が、さらに勢いを増した。
「それにしても——」
真田は、炎に照らされたホストの全身を、値踏みするように眺め回した。
「お前、ほんとモテモテだなぁ。憎いねぇ」
口元が、愉しげに歪む。
「身体中にさ。お前を“愛した”女どもの念が、べったり張り付いてやがる」
「なっ……何を、気味の悪ぃこと言ってやがる!」
ホストは吐き捨てるように叫ぶ。
「そんな幼稚な嘘で、俺がビビるとでも——」
ピタ……
言葉が、途中で止まった。
「……ひっ?」
頬に、何かが触れた。
冷たくて、柔らかい。
反射的に身を引く。だが、そこには何もいない。
ヒタ……
今度は、肩。
「ちくしょう……何だよ!」
苛立ち紛れに、手を伸ばす。
掴んだ瞬間——
「……ひぃ……」
声が、喉の奥で固まった。
氷のように冷たく、腐肉のように柔らかい。
そして——脈打っている。
恐る恐る、掴んだものを見る。
「……う、腕……?」
細く、青白い、女の腕だった。
その先。
炎に揺れる視界の向こうで、腕の持ち主が、じっとこちらを見つめている。
生気の抜けた目。
粘つくような視線。
真田が、その光景を見て、くつくつと喉を鳴らした。
「いいねぇ……」
「熱い視線で、熱望されてやがる」
腕の主は、一人じゃない。
背後に——
気づけば、数十人。
精気を失った女たちが、無言で立っていた。
「ぎゃああああっ!!」
ホストは悲鳴を上げ、逃げ出そうとする。
だが、行く手は炎に遮られ、退路はない。
女たちが、足元に張り付くようにしがみついた。
『私だけのものにならないなら——』
声が、重なり合う。
「やめろ! 放せ!!」
「この……尻軽女共がっ!!」
必死に拳を振るい、殴りつける。
だが——手応えはあるはずなのに、女たちは泥のように拳を飲み込み、微動だにしない。
「無駄無駄」
真田が、肩をすくめる。
「そいつら、この世のモンじゃねぇからな。
……かといって、本人でもねぇけど」
「じゃ、じゃあ……何なんだよ……!」
泣き声混じりに、縋るような問い。
真田は、にたりと笑った。
「最初に言っただろ?」
「お前を愛した女たちの“念”だよ」
一歩、近づく。
「そこに、俺がちょっと力を吹き込んでやった」
炎の揺らぎの中で、真田の影が歪む。
「そうして生まれたのが——」
「生き霊だ」
「……そんな……バカな……」
ホストは、力なく首を振る。
「世の中な」
真田は、楽しげに言った。
「目に見えるもんが、全部じゃねぇってことだ。
死んでりゃ諦めもつくが……生きてる女の情念は、どこまでも追いかけてくるぜ?」
「——一つ、勉強になったな」
女たちの腕が、一斉に締め上げる。
炎の中で、ホストの悲鳴が、短く——途切れた。
*****
——朝。
夜を焼き尽くした炎の痕跡だけを残し、街は何事もなかったかのように目を覚まし始めていた。
真田は、人気のない路地裏で壁にもたれかかり、スマートフォンを眺めていた。
画面に映るのは、ニュースサイトの速報記事と、ざわつくSNSのタイムライン。
《都内ホストクラブで放火事件》
《逃げ遅れた男性ホスト、変死体で発見》
《顔面の皮膚が剥がされるなど、残虐な損傷》
指先でスクロールする。
《顔のみが集中的に焼かれていた》
《犯行の意図は不明》
《極めて異常性の高い事件として捜査中》
写真は当然、伏せられている。
それでも、断片的な言葉だけで十分だった。
「……ふふ」
真田の喉から、小さな笑いが漏れる。
「女の恨みは……怖ぇなぁ」
どこか他人事のように、皮肉っぽく呟いた。
炎の中で見た、あの数十の視線。
整った“顔”だけを執拗に求め、引き剥がし、焼き尽くした女たちの念。
真田は、画面から視線を外し、肩をすくめる。
「まっ……」
「俺が“買った”怨念も、相当だがな」
軽い口調だった。
背後の地面に、赤黒い塊が転がっていた。
それはもはや、人の形ですらない。
手足も、顔も、判別できない。
肉が潰れ、捻じれ、溶け合ったような——ただの肉塊。
かつては、無数の声を宿し、群れとなり、
加害者たちを恐怖のどん底へ突き落としてきた“観衆の呪詛”の分裂体。
そんな怪異が——
今日、初めて“獲物だったはずの相手”から返り討ちに遭った。
真田は振り返りもせず、ぽつりと呟く。
「……なぁ」
視線は、既に灰になったホストのいた方向へ向いていた。
「俺もお前も、同じだぜ」
殺す側。
壊す側。
奪う側。
——罪の種類は違えど、本質は加害者だ。
「ただな……」
足を止め、低く続ける。
「決定的な違いがある」
赤黒い肉塊が、じくじくと音もなく崩れていく。
「俺には、力がある」
淡々と。
誇示でもなく、宣言でもなく。
「力がありゃ、呪いも怨念も……屁でもねぇ」
観衆の怒りも。
正義の名を被った裁きも。
「どんな“罰”だろうが、跳ね返せる力がありゃ——」
真田は、笑った。
「無罪放免だ」
赤黒い残骸を一瞥もしない。
「圧倒的な暴力を持つことが、正義なんだよ」
真田はスマートフォンをポケットにしまい、何事もなかったかのように、ゆっくりと歩き出した。
「さて……」
朝の光の中で、真田は笑った。
「ちゃんと、気づいてくれよ?」
真田の被害に遭った場所は、五件。
昨晩のホストクラブのような店が二件。
金融機関が一件。
その他の企業が一件。
一見すれば、無差別。
だが、そのすべての裏には——
"八獄等活會"という組織があった。
かつて瀬戸 大地が所属していた反社会的な組織。
そして真田たちが率いていたグループの、元締め。
だが、そこに情も恩もない。
「散々、ピンハネして……」
「好き勝手使い回してくれた会長には——」
真田は、そこで言葉を切った。
——礼など、するはずがない。
残るのは、始まるべき“お礼参り”だけだ。




