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赦すも処すも、生者次第 #加害者を許すな  作者: ヨウカン
最終章 旅路の果てに、未来は在って…
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70話 雨が止む前に

 桐谷の母との対話を終え、霧子は朝比奈家へ戻った。

 胸の奥に残る重たい違和感を抱えたまま、玄関をくぐる。


 ——柊夜くんは、もう帰っているはずだ。


 そう思って居間を見渡した瞬間、霧子の足が止まった。

 そこに、彼の姿はない。


 「……まだ、帰っていない?」


 思わず声が強張る。

 居間にいた柊夜の母が、きょとんとした顔で振り返った。


 「え? あの子と一緒じゃなかったのですか?」


 「いえ……柊夜くんは、私より先に帰ったはずなんです。ですから、てっきりもう戻っているものだと……」


 霧子の言葉に、母は少し困ったように笑った。


 「仕方のない子ねぇ。霧子さんに心配をかけて……。ちょっと電話してみますから、今はゆっくりしていてください」


 「はい……お言葉に甘えさせていただきます」


 そう答えながらも、霧子の胸の奥は落ち着かなかった。

 窓の外では、今だに厚い雲が垂れ込め、止む気配のない雨が景色を灰色に染めている。


 母がスマートフォンを手に取り、柊夜へ発信する。

 呼び出し音が、静まり返った部屋に空虚に鳴り響く。


 ——出ない。


 二度、三度。  

 それでも、繋がらない。


 霧子は居間の端に腰を下ろしたが、じっとしていられなかった。

 胸の奥で、ざわりとした嫌な予感が膨らんでいく。


 時間が過ぎるたび、霧子の鼓動は早くなり、胸のざわめきははっきりとした不安へ変わっていく。

 ——嫌な予感が、確信に近づいていく。


 ついに霧子は立ち上がった。


 「すみません。私、柊夜くんを探してきます」


 母が少し驚いたように顔を上げる。


 「え? でも、あの子ならそのうち——」


 「元はと言えば、私が柊夜くんを連れて出たんです。私の責任です」


 霧子の気迫に、母はそれ以上言葉を続けられなかった。  

 その場に留まるという選択肢は、もう霧子の中にはなかった。


 (……あの時だ)


 柊夜は、桐谷の母からあれほどの怒りと憎しみをぶつけられても、表情を崩さなかった。

 だが、それは「平気だった」わけではない。


 少し前まで、テレビに加害者たちの名前が映るだけで、あれほど激しく心を乱していた彼だ。いくら短期間の間に成長したとはいえ、あの言葉の刃をすべて無傷で受け流せるはずがない。


 ——傷は、表に出ないほど深くなる。


 もし、あの心の傷を放置すれば。

 心の底に潜んでいる怨芽は、再び形を持ち、生き霊として動き出しかねない。


 霧子は、その可能性を誰よりも理解していた。


 ……いや、それだけではない。

 今の柊夜に必要なのは、除霊でも、説法でもない。

 ただ、近くにいて、感情を受け止める存在だ。


 そして——

 それをできる人間は、今この場では自分しかいない。


 (待っていてくれ……柊夜くん)


 霧子は傘も手に取らず、叩きつけるような雨の中へと飛び出した。  

 濡れて冷えていく肌の感覚が、独りきりで心を凍らせているであろう彼の孤独と重なり、霧子の足をさらに速めた。



 *****



 雨の中、霧子は走っていた。

 冷たい雨粒が頬を打ち、吸水したスーツは鉛のように重く体にまとわりつく。それでも足を止めることはなかった。


 先日、柊夜と街を散策したおかげで、多少の土地勘はある。

 山と海に挟まれた、こぢんまりとした街。

 だが、雨に煙る視界の中で当てもなく人を探すには、あまりにも広い。


 霧子はまず、桐谷家へ向かう道をなぞるように歩いた。

 行き交う人の顔を一人ひとり確かめるが、柊夜の姿はどこにもない。


 (……いない)


 胸の奥が、じわりと冷えていく。


 (柊夜くんが、行きそうな場所は……)


 答えを探すように思考を巡らせた、その瞬間だった。


 ——ふと、彼の声が蘇る。


 『ここで姉ちゃんと、よく海を眺めていたんだ』


 激しい雨音を突き抜けて、その言葉がはっきりと響いた。


 『今さ……少しだけ、姉ちゃんが戻ってきた気がしたんだ』


 次にその話をした時の、柊夜の表情が思い浮かぶ。

 感情を押し殺したものでも、無理に明るく振る舞ったものでもない。

 凪いだ水面のように静かで、それでいて、奥底にかすかな光を宿した顔。


 胸の奥で、小さく何かが繋がる。


「……あの砂浜か」


 霧子は思わず呟いていた。

 それは確信というほど強いものではない。

 ただ、心に引っかかった、たった一つの手がかり。


 霧子は進路を変え、海の方角へと足を向けた。

 アスファルトを叩く雨音が、次第に遠い波濤の音に混じり始める。


 ——そこはかつて、柊夜が落ち込むたびに駆け込み、決まって真昼が迎えに来る場所。


 その約束めいた因縁に、霧子はまだ気づいていない。  

 ただ、祈るような心地で、雨の帳の向こうにある海へと走り続けた。



 *****



 雨が降り頻る砂浜に、ひとつだけ人影があった。


 「……はぁ、はぁ……柊夜、くん……」


 息を切らしながら、霧子はその背中を見つめる。

 間違えようがない。

 打ち付ける雨の向こうに立つ、その後ろ姿は——柊夜だった。


 彼は、ただ海を見ていた。

 背後から近づく霧子に気づく様子もなく、身じろぎひとつせず、灰色の海面を凝視し続けている。  

 だが、霧子の霊感ははっきりと異変を感じ取っていた。


 ——出ている。


 彼の身体から、澱のような黒い念が漏れ出している。

 誰かに向けられた呪詛ではない。

 鋭さも、殺意も、目的もない。


 ただ、行き場を失った怒りと憎悪が、器から溢れ出した泥水のように、足元へ、周囲へと広がっている。


 (……まずい)


 霧子の背筋を、本能的な戦慄が走った。


 脳裏に浮かぶのは、かつて柊夜の憎しみを糧に猛威を振るった、生き霊エグゼの姿。

 あの怨芽は今も、柊夜の中で眠っている。

 だがそれは、消えたわけではない。


 ——心が再び憎しみに染まれば、目を覚ます。


(また動き出せば……真昼さんの供養どころじゃない)


 霧子は反射的に、腰に携えた柄だけの妖刀へと手を伸ばしかけた。


 だが——


 (……え?)


 そこで、決定的な違和感に指が止まる。


 柊夜から滲み出る念の"質"が、以前とは根本的に違っていた。


 かつてのそれは、針のように鋭く、明確な殺意を孕んでいた。誰を憎み、誰を断罪するのか、その矛先が恐ろしいほどに研ぎ澄まされていた。


 しかし、今のそれは——あまりにも形をなしていない。


 どろり、と重く濁ったものが、意味も目的もなく漏れ出している。

 行き先を見失い、形を持てず、ただ存在しているだけの感情。


 (……どうしていいか、分からないんだ)


 霧子は直感した。


 怒りをぶつける相手は、もういない。

 復讐に身を委ねる正義も、もうない。

 それでも、胸の奥底に溜まった泥のような感情だけは、消えてくれないのだ。


 ——これは、危険だ。


 明確な敵がいる時よりも、ずっと。


 行き場を失った負の感情は、外へ向かわない代わりに、内側を蝕む。

 押し込めば押し込むほど、心そのものを削り取り、やがて——中から崩壊させてしまう。


 ("止めなきゃ"、じゃない……)


 霧子の思考が、戦慄から切実な祈りへと切り替わる。


 (……壊れる前に)


 次の瞬間、霧子は考えるより早く走り出していた。  

 重いスーツの裾を翻し、砂を蹴り、彼との距離を強引に詰める。


 ——その刹那。


 「馬鹿野郎ッ……!!」


 柊夜の叫びが、叩きつけるように響いた。


 誰の名も呼ばない。

 誰を罵るでもない。


 腹の奥底から引きずり出された、生身の声。

 行き場のない感情そのものが、海へ向かって叩きつけられたような叫びだった。


 雨音と波音の中で、その声だけが、異様なほどはっきりと残っていた。


 「馬鹿野郎ッ——!!」


 柊夜は、腹の底から声を叩きつけた。

 波音と雨音を引き裂くように、叫びが夜の海へと投げ出される。


 「馬鹿野郎ッ!!」


 もう一度。

 肺が軋むほどに息を吸い込み、吐き出す。


 「馬鹿野郎ッ!」


 三度、四度。

 喉が痛むのも構わず、何度でも。

 次第に声は掠れ、喉の奥に血の味が錯覚のように混じりはじめる。それでも彼は止めなかった。叫ばなければ、この理不尽な感情に内側から焼き殺されてしまうと分かっていたから。


 それは、誰かに向けられた言葉ではなかった。

 加害者でもない。

 桐谷の母でもない。

 自分自身ですらない。


 どうしようもなく理不尽な出来事。

 奪われ、壊され、置き去りにされた現実。

 世界そのものに向かって、叩きつけるしかなかった言葉。


 「……馬鹿野郎ッ!!」


 叫ぶたび、胸の奥で凝り固まっていたものが、ひび割れていく。

 黒く澱んでいた念が、形を保てなくなり、内側から弾けるように散っていく。


 ——吐き出したのだ。


 怒りも、憎しみも、悲しみも。

 抱えきれなかった感情を、言葉にして、外へ。

 砂浜に立つ柊夜の身体から、黒い気配が薄れていくのを、霧子ははっきりと感じていた。

 震える肩、泥に汚れた靴、雨に打たれて小さく見える背中。霧子の目には、彼が世界に取り残された迷子のようにも見えた。

 誰にもぶつけられない怒りを、たった一人で、拳を握りしめて耐えてきた彼の姿に。


 「……柊夜くん……」


 思わず、息を呑む。

 彼は、桐谷の母から向けられた言葉の刃を、涼しい顔で受け流していたわけではなかった。

 決して、達観した大人のように振る舞えたわけでもない。


 けれど——


 逃げもしなかった。

 誰かを呪うことで乗り越えようともしなかった。


 不器用で、荒々しくて、格好悪い。

 それでも確かに、自分の力で感情を外へ出し、自分で立ち直ろうとしている。

 霧子の胸に、熱いものが込み上げる。


 (……すごいな)


 かつて、生き霊を生み出すほど激しく誰かを憎んだ、心だけが取り残されていた青年が、今は自分の言葉の力で、内側から湧き出る念を手放している。


 「……ば……馬鹿野郎ッ……!」


 最後の叫びは、掠れ、震えていた。

 声が枯れ始めたその時——


 柊夜は、ふと背後の気配に気づいた。


 振り返ろうとして、止まる。

 涙で滲んだ視界の向こうに、ぼんやりと人影が立っている。


 「……姉ちゃん……」


 反射的に、姉の名が口をついて出そうになった。


 「——……いや」


 喉の奥で、その言葉を噛み殺す。

 そして、はっきりと言い直した。


 「……霧子さん……?」


 その名は、雨音に消えそうなほど小さかった。けれど、彼が自分の足で、新しい誰かと繋がろうとした確かな一歩だった。


 雨の中に立つ彼女の姿を認めた瞬間、柊夜は静かに息を吐いた。


 幼い頃。

 辛いことがあるたびに、この砂浜で泣いていた。

 そして必ず、姉が迎えに来てくれた。


 ——でも、もう違う。


 今、ここに立っているのは、姉ではない。

 それを、柊夜はちゃんと理解している。


 これは、喪失ではない。

 裏切りでもない。


 前へ進んだ、ということだ。


 死んだ姉に縋り続ける時間を、ようやく終えた。

 その事実を、柊夜は自分自身の叫びで証明した。


 雨は、まだ降り続いている。

 けれど、砂浜に立つ彼の背中から、あの黒い念はもう消えていた。


 霧子は、すぐには声をかけなかった。

 叫び疲れ、肩で息をする柊夜の背中を、ただ少し離れた場所から見守る。


 雨に濡れた砂浜。

 荒れた呼吸。

 まだ、感情は終わっていない。


 ——今、声をかければ、彼はまた自分の心に蓋をしてしまう

 霧子はそう直感していた。


 「……無理に、落ち着かなくていい」


 ようやく、低く静かな声で言う。


 「今は、全部外に出せ」


 慰めるような調子ではなかった。

 励ましでも、諭しでもない。

 ただ、許可を与えるような声音だった。


 「綺麗な言葉にしなくていい。支離滅裂でも、格好悪くても構わない」


 霧子は一歩も近づかない。

 手も伸ばさない。

 代わりに、逃げ道を塞ぐように、その場に立ち続ける。


 「ここには、私しかいない」


 それは安心させるための言葉ではない。

 逃げずに吐き出すための、最低限の事実だった。


 「言え。叫べ。罵れ」

 

 一拍。それから霧子は、念を押すように付け加えた。


 「……呪いにさえしなければ、私は止めん」


 柊夜の肩が、小さく揺れた。


 霧子はそれ以上、何も言わない。

 この時間は、導くものではなく、耐えるものだと分かっていたから。


 ——大人とは、答えを出す存在ではない。

 答えが出るまで、場を壊さずに立っていられる存在だ。


 霧子は、そう在ろうとしていた。



 *****



 しばらく、雨と波の音だけが続いた。

 柊夜は俯いたまま、拳を強く握りしめている。

 爪が掌に食い込み、じわりとした痛みが伝わる。


 「……桐谷の母親さ」


 ぽつりと、乾いた声が零れた。


 「“償った”とか……」

 「“本当は、やりたくなかった”って……」


 言葉を並べるほど、声が歪む。


 「……でもさ」


 小さく、首を振る。


 「俺は……見たんだ」


 雨に打たれながら、続ける。


 「桐谷は……覚えてた」

 「姉ちゃんのこと」

 「忘れてなんか、いなかった」


 喉が、詰まる。


 「覚えてて……」

 「俺の目の前で……見せてきたんだ」


 拳が、震える。


 「画像」

 「姉ちゃんの……あの時の姿」

 「懐かしいだろ、って……」


 息が荒くなる。


 「“やりたくなかった”人間が……」

 「そんなこと、できるかよ……」


 声が、掠れた。


 「“償った”って……」

 「過去を乗り越えた、だなんて……」


 低く、吐き捨てる。


 「……そんな顔で、笑えるわけないだろ」


 しばらく、言葉が途切れた。

 雨音だけが、二人の間を埋める。


 「母親はさ……」

 「自分も、被害者みたいに泣いてた」

 「怖かった、逆らえなかった、って……」


 声が、少しだけ荒れる。


 「でも……」

 「だからって……」

 「姉ちゃんが、あんなふうに扱われていい理由にはならない」


 ゆっくりと、顔を上げる。


 「誰かに脅されてたとか」

 「環境が悪かったとか」

 「もう家庭があって、子供がいるとか……」


 一つ一つ、否定するように。


 「そんなの……」

 「俺には、関係ない」

 「姉ちゃんにも、関係ない!」


 唇を強く噛みしめる。


 「姉ちゃんは……」

 「今も、あの時のままなんだ」


 声が、震える。


 「時間は、進んでない」

 「やり直すことも、やり過ごすことも……できない」


 深く、息を吸う。


 「……だから」


 霧子を見る。


 「俺、もう……誰かを裁きたいわけじゃない」

 「ただ……」

 「姉ちゃんの死を、都合のいい物語にしないでほしい」


 静かだが、はっきりと。


 「“仕方なかった”とか」

 「“償った”とか」

 「そんな言葉で、終わらせないでほしい」


 一拍、置いて。


 「……それだけだ」


 雨に濡れた声は、叫びではなかった。

 だが、その分だけ重かった。


 霧子は、相変わらず何も言わない。

 ただ、その場を離れずに立っている。


 ——これは復讐の宣言ではない。

 記憶と事実を、奪われないための抵抗だった。


 ……それで、終わらせるつもりだった。

 けれど、奥歯を噛み締めた隙間から、どろりとした熱い塊がせり上がってくる。

 理性で押さえつけたはずの憎悪が、喉の奥を焼いた。


 次の瞬間、柊夜の肩が、大きく揺れる。


 「……あいつら、みんな同じだ」


 吐き捨てるような声だった。


 「自分のことばっかりで……」

 「後悔してるふりして……」

 「都合が悪くなると、逆ギレして……」


 言葉を重ねるほど、声が荒れていく。


 「姉ちゃんが死んでるのに……」

 「それでも、まだ……平気で踏みつけてくる……!」


 雨に紛れて、叫びが滲んだ。


 しばらくして、声のトーンが落ちる。


 「……どうしてさ」


 ほとんど、独り言だった。


 「どうして……死んでまで、苦しまなきゃいけなかったんだよ……」


 喉が詰まり、言葉が続かない。


 「姉ちゃん、何も悪いことしてないだろ……」

 「優しくて……」

 「俺のこと、いつも守ってくれて……」


 拳を、さらに強く、白くなるまで握りしめる。


 「……それなのに」


 絞り出すように、言う。


 「俺も……悪い」

 「姉ちゃんの気持ち、分かってたはずなのに……」

 「憎しみで、何かが解決するわけないって……」

 「知ってたのに……」


 唇から血が滲むほどに強く噛みしめる。


 「それでも俺……」

 「怒って……」

 「勝手に、憎んで……」


 声が掠れた。


 「……全部だよ」


 顔を歪めて、吐き出す。


 「全部、腹立たしい」

 「みんな、間違ってる」

 「自分勝手で……ふざけてる……!」


 ゆっくりと、柊夜は顔を上げる。

 霧子の姿を、まっすぐ見据える。


 「……だから」


 一拍、深く息を吸って。


 「俺は……俺だけは、前に進みたい」

 「もう、憎しみで決めたくない」


 震えてはいるが、声ははっきりしていた。


 「……霧子さん」

 「お願いします」

 「手伝ってください」


 そして、迷いなく続ける。


 「姉ちゃんを……」

 「今度こそ、ちゃんと救いたいんです」


 それは、縋る声ではなかった。

 自分で立った上で、差し出された言葉だった。


 霧子は、まだ何も言わない。

 ただ、その場に立ち、逃げ場を壊さずにいる。


 ——吐き出さなければ、前に進めない瞬間がある。

 柊夜は今、その瞬間を生きていた。



 *****



 柊夜は、しばらく俯いたまま動かなかった。

 肩の震えが、少しずつ収まっていく。


 濡れた袖で、乱暴に目元を拭う。


 「……すみません」


 声はまだ掠れていた。


 「見苦しいところ、見せて……」


 言い切る前に、霧子の声が重なった。


 「いや」


 短く、しかし即答だった。


 霧子は、初めて一歩だけ近づき、柊夜を正面から見た。

 叱りもしない。慰めもしない。

 ただ、事実を告げるように。


 「今までで、一番いい表情だと思う」


 柊夜が、目を瞬かせる。


 「……え」


 霧子はそれ以上、何も付け足さなかった。

 理由も、評価も、未来の話もない。

 ただ一言だけ、そこに置いた。


 「……全部、聞いた」


 それだけだった。


 その言葉は、肯定でも救済でもない。

 けれど柊夜には、それで十分だった。


 ここにいていい。

 逃げていない。

 今の自分は、間違っていない。


 誰にも言われなかったその答えを、霧子は、たった一言に込めていた。


 ——そのとき。


 空を叩いていた雨音が、ふっと途切れた。

 雨粒が、いつの間にか肌を打たなくなっていた。


 雲の切れ間から、淡い光が差し込む。

 濡れた地面が、白く反射する。


 柊夜は、ゆっくりと顔を上げた。


 そこに、姉の姿はない。

 代わりにあるのは雨上がりの空と、眩いほどの光だけだった。


 胸の奥に残っていた重たいものが、行き場を失い、静かに沈んでいく。


 ——何度でも言うが。

 吐き出さなければならない瞬間は、確かにある。

 その瞬間を、柊夜は静かに越えていた。

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