6話 幼き日の英雄
霧子の手に残ったのは、かすかな手応えだった。
斬ったそれは、霊でも人でもない──もっと異質な“何か”。
けれど、この気配に覚えはある。
「……やはり、こいつは……」
ザワ……ザワワ……。
姉・真昼が、糸の切れた人形のように力を失い、沈黙する。
次の瞬間──生ぬるく、不快な風が公園一帯に立ち込めた。
ズズズ……ズル……ズル……。
真昼の背中から、何かが這い出す。
皮膚を裏返したような、血肉むき出しの体。
以前に対峙した“赤黒い者”たちと同質の肉体。──だが、これは別格だった。
圧倒的な“念”が、周囲の霊気を引き寄せ、実体を成していく。
それは──“生き霊”。
しかも、その気配は紛れもなく、柊夜のもの。
すなわちこれは、柊夜の深い憎しみから生まれた、彼自身の分身──いや、“もう一人の柊夜”だ。
(……なるほど、これで合点がいく。
これほどの力……柊夜くんの憎しみは、並のものではなかった。
あの時──何度も見せていた取り乱し。もっと早く、適切に介入していれば……)
「柊夜くん……これは私のミスだ。君は、何も悪くない」
「霧子さん……なら……」
──見逃してくれるのではないか。
そんな期待が、柊夜の目に宿っていた。だが──
「けれど、それでも私は──これを放ってはおけない!」
己の信念のもと、霧子は構え直す。
それを見た生き霊が口を開いた。
「……霧子……サン……。
姉チャン、シュウヤ、そして……俺……。
ヒガン……達成、ゼッタイ。アナタデモ……
ジャマハ──ユルサナイッ!」
咆哮と共に、生き霊は右手を掲げる。
直後、空間を裂くような衝撃波が放たれた。
「無駄だ!
──南無・災業禍祓咒……はあっ!」
霧子の一太刀が、空間を裂くように奔る。
次の瞬間、衝撃波は見事に真っ二つに断ち割られ、拡散し、虚空へと消えた。
生き霊の攻撃は確かに強力。
だが、先ほどの禍々しさとは比べ物にならない。
(真昼から分離したことで……力が、大きく落ちた)
霧子はそう確信した。
「……モウ、容赦は……しないッ!」
生き霊の目から光が消える。代わりに宿ったのは、底の知れぬ殺意。
空気が、変わった。
生ぬるかった風が一変し、肌を斬るような冷気が辺りを覆ってゆく。
ボコ……ボココ……ッ。
不気味な音を立てながら、肉体が膨張し始める。
腕が泡のように膨れては破裂し、そのたび形を歪め──
筋肉と骨が捩じれ合い、最終的に鉄塊のような棒状の武器へと変貌した。
「ジャマ……サセナイッ!」
そのまま勢いよく、生き霊は霧子へと飛びかかる。
振り下ろされた異形の腕が空を裂くように唸り──
ガンッ!!
鋼鉄を叩きつけたような激しい音が響き渡る。
だが──霧子は、微動だにしなかった。
「……何ッ!?」
武器は妖刀に弾き返される。
返す刀、霧子は静かに唱える。
「南無──」
一閃。妖刀が残光を引き、生き霊の腕を根元から斬り落とす。
「ギャァァァッ!! イタイッ……イタイイイイ!!」
地面に倒れ込み、のたうち回る生き霊。
断面からは黒い霧のような霊気が噴き出していた。
「……カクナルウエハッ……!
チカラヲ……オレニ……チカラヲ……カセェェェ!!」
残った腕を空へと翳す。
直後──
パキィ……ッバキン!
空間に無数の亀裂が走る。
バリバリと音を立てて崩れ、やがて人が並んで通れるほどの巨大な穴が穿たれた。
「オオオオオオ……」
その裂け目から、赤黒い者たちがぞろぞろと這い出してくる。数にして十余体。
一斉に霧子へと襲いかかる──が。
霧子の眼差しは、一分も揺るがない。
「──南無浄斎神光王ッ!
霊撃・烈衝波ッ!!」
放たれた掌底から、霊気の奔流がほとばしる。
突風のような衝撃波が、赤黒い者たちを容赦なく吹き飛ばす。
「ギャアアアァッ!」
宙を舞い、身動きできぬまま空中でさらされる赤黒い者たち。
霧子はそこへ、畳み掛ける。
「南無災業禍祓咒──
我が刀よ……更なる力を、今ここにッ!」
禍祓が霧のように揺らぎ、刀身が光を吸い込みながら拡張していく。
刃は巨大な弧を描き──
ズバアアアァッ!!
広範囲を薙ぎ払う霊撃が、赤黒い者たちを一瞬で断ち斬る。
まるでそこに“存在していなかった”かのように、彼らは音もなく消えていった。
「すまない、柊夜くん……」
霧子はその背に、かつての柊夜の苦しみを背負いながら静かに言う。
「この呪いに──終止符を打たせてもらう。……君のためにも」
──一刀。
振り下ろされた禍祓が、生き霊の身体を真っ二つに裂く。
「ギャアアアアアァァァ……ッ!!
ココ……マデ……カ……ッ……!!」
絶叫とともに、生き霊は虚空へと溶けるようにして消えていった。
……すべてが、終わったかに思えた──
「真昼さん、これで貴方を縛るものは、もう何も無いはずだ。
これより、供養を執り行う」
霧子は静かに真昼へと歩み寄ると、数珠を手に取り、経文を唱えはじめた。
「南無浄斎し──」
「やめろぉぉぉぉッ!!!」
柊夜の絶叫が響き、彼は霧子に飛びかかった。
「くっ、何を──!?」
その勢いに霧子は体勢を崩し、地面へと押し倒される。
「……うっ……うぅ……」
頭上から、ぽたりと水滴が頬を打つ。次の瞬間、柊夜の声が震えた。
「や、やめてくれよ……! 除霊なんて……しないでくれ……」
彼は顔をくしゃくしゃにし、感情を押し殺すように絞り出す。
「姉ちゃんは……復讐をしてるんだ。
いや、きっと……復讐しなきゃならなかったんだ……。
あいつらから受けた仕打ちの数々が、姉ちゃんの心に……消えない傷として残ってる。
復讐を続けているってことは、それが姉ちゃんをこの世に縛ってる証拠なんだ……!
だから、最後までやり遂げなきゃ……姉ちゃんは報われない!」
柊夜の声は震えていた。それでも、止まらない。
「俺……見たんだ。
捕まって数年経っても、あいつらは何事もなかったみたいな顔して、平気で笑ってた。
むしろ、あの仕打ちを武勇伝みたいに話してて、少しも悪いと思ってない……!
姉ちゃんが……壊されて、踏みにじられて……あんまりだよ。
苦しみ続けた姉ちゃんが笑い者にされて、許されるはずがない……!
悔しい、悔しいよ……俺は、何もできなかった。
あの日……場所がわかってたら、ナイフを持ってでも飛び込んで……助けられたのに……!」
悔しさ、怒り、後悔、それらが混じり合い、言葉がしがみつくように吐き出される。
「でも……最近ようやく、姉ちゃんの想いが……形になってる気がして……。
俺にも……やっと、できることが見つかったんだ。
ただ傍にいるだけかもしれない。手助けなんてできないかもしれない。
それでも……姉ちゃんの“意思”が進んでるのなら、俺は……それを支えたい……!」
柊夜の目から、こぼれた涙が霧子の頬に落ちる。
「あいつらは……生きてる限り、また同じことを繰り返すかもしれない。
これは、姉ちゃんの復讐が終わって成仏する──それだけの話じゃない。
あいつらを止めるのは使命でもあるんだ。
それがたとえ“復讐”でも……それしかないなら……!
姉ちゃんが、それを背負ってるなら……俺も、一緒に背負いたい……!
……だから……お願いだよ、霧子さん……
せめて……あと少しだけでいい……!
お願いだ……!」
堪えきれない涙が次々と霧子の頬へ落ちる。その訴えに、霧子は一瞬、目を細めた。
「……すまない。復讐と聞いて、それを容認はできない。
だが、後のことは私と一緒に考えよう。──許せっ!」
そう言って霧子は身体を捻り、体重のバランスを崩した柊夜の下から抜け出す。
「さて、改めて供養を──」
「まてぇぇぇぇッ! ダメだ、やめろ、やめてくれ!!」
柊夜は叫び、今度は空へ向けて咆哮する。
「“お前”もこのままでいいのか!?
このままじゃ姉ちゃんは浮かばれねぇだろ……!
“お前”は……もう一人の俺だ。
俺の中にある憎しみ、怒り、あいつらを裁きたいって願い……それが消えない限り、“お前”がいなくなるわけがない!
わかってるんだよ……お前はまだ……俺の中にいる……!
今こそ──現れてくれ!
奴らに報いを……最悪の結末をッ!!」
その瞬間だった。
ブワァッ──!!
一陣の風が吹き荒れ、黒い霧が渦を巻くように空間に集まり始めた。
それはただの霊気ではない。明らかに、意志を持った力の塊だ。
そして、霧の中心に──あの生き霊とは異なる、新たな「存在」が立ち現れる。
「こっ、これは……“夜の執行者・エグゼ”……!?」
それを見た柊夜の目が見開かれる。
かつて柊夜が紡いだ空想の中の闇を裁く英雄。
法で裁けぬ悪を消し去る、影の処刑人。
その姿は、漆黒のマントを翻し、鋭く逆立つ髪、禍々しくも整然とした装飾に覆われていた。
肌だけが肉のまま露出し、霊的存在であることを物語るも──柊夜の目には、紛れもなく“ヒーロー”に映っていた。
エグゼは、ゆっくりと柊夜に手を差し伸べる。
「もう大丈夫だ。外道どもの断罪執行は、確定している。
誰にも、邪魔はさせない。君は静かに見届けていればいい──」
そして、霧子を指差す。
「白髪の女。貴様が悪を庇うというなら、例外ではない。執行対象だ。
退けるなら、今は見逃してやる……どうする?」
その眼差しは、怒りも慈悲もない。ただ一つ──“正義”の名を信じた者だけが持つ、信念の炎。
だが、霧子もまた退かぬ者であった。
「退かん。私は──私の責務を、果たす!」
正義と正義が、今、真正面からぶつかり合おうとしていた。




