67話 染みつく悪意の残り香
朝の日差しが、薄い白布越しに部屋を満たしていく。
霧子は静かに身を起こし、長い白髪をひとつに括った。
ワイシャツの襟を整え、黒のパンツスーツに袖を通す。
壁の時計に視線を走らせた。
「……ふむ。少し早いが、向かうとするか」
机の上には昨夜まとめた道具袋が置かれている。
数珠、水晶、護符、経文──そして封の施された妖刀・禍祓。
どれも扱い慣れたものばかりだが、重みはその都度違う。
今日の目的は 事前の現地調査。
まだ公式な立ち入り許可は出ていないため、家屋の内部には入れない。
それでも、霊的な“気”の流れや土地の癖くらいは掴める。
──そして何より。
柊夜を現場に連れて行くことが、本当に安全かどうか。
その判断は、自分の目で下したかった。
踵を鳴らさぬよう静かに階段を降りる。
すると、台所の方から包丁の細やかなリズムが聞こえてきた。
霧子は足を止め、ほんの一拍だけ迷い、そっと覗き込んだ。
エプロン姿の柊夜が、真剣な表情で野菜を刻んでいた。
湯気の立つ鍋からは、味噌と出汁のまろやかな香りが漂う。
「……おはようございます、霧子さん!」
振り返った柊夜は、いつもより少し明るい笑顔を浮かべていた。
「早いな。それに、張り切っているようだ」
「昨日さ……母さん、疲れ切っていたからさ。
せめて俺がいる間くらい、ゆっくり休んでてほしいなって」
照れたような笑みを浮かべる柊夜のそばの机には、目玉焼きと焼き魚が並べられている。
(……すぐにでも出るつもりだったが。これを無碍にする理由はないな)
霧子は短く息を吐いた。
「ならば、ありがたくいただこう」
霧子は椅子に腰を下ろし、完成を待つ。
やがて湯気の立つ皿が並べられ、二人は向かい合った。
「いただきます」
「どうぞ、召し上がって」
温かい汁物の味が、早朝の冷気にこわばった体をほぐしていく。
その時、居間のテレビから聞き覚えのある名が流れ、二人は同時に顔を上げた。
『……死亡が確認されたのは、瀬戸 大地さん(28)。
遺体の損傷が激しく……』
画面には、四人目の加害者・瀬戸の死亡報道が映し出されていた。
瀬戸の死亡報道は、短いニュース原稿にもかかわらず、場の空気を凍り付かせた。
霧子は箸を置き、静かに息を吐く。
「……やはり、か。
分かってはいたが──柊夜くんが復讐心を捨てても、観衆の呪詛は止まらないのだな」
淡々とした声。それなのに、その奥には冷たい現実だけが残っていた。
柊夜はテレビを見つめたまま、短く呟く。
「これで、残るは──」
「真田だけとなる」
霧子の言葉は鋭い刃のように部屋の静けさを切り裂いた。
“例の事件”の加害者五名のうち、四人の死亡が確定した。
かつて憎悪の中心にいた男たちが、因果に引きずられるように命を失っていく。
だが、復讐心を捨てた今の柊夜の表情は複雑な心境を物語っていた。
憐れみは当然ない。
だが、姉の仇の死を歓喜する感情も、彼の中にはもうなかった。
過去の憎悪を捨て去ったがゆえの、言葉にできない、砂を噛むような重さが胸の奥に沈んでいた。
「……これで残りは真田一人となったわけだが」
霧子の声は淡々としている。
「観衆の呪詛が真昼さんとは無関係である以上、私にできることはない」
霧子の声は淡々としていた。
真田の名を口にした瞬間、瞳の底にかすかな冷えが宿る。
そこに情も怒りもない。ただ、完全に縁を断った相手に向ける視線。
かつては対話の余地があると信じていた。
だが裏切りを重ね、人を捨て、怪異へと堕ちた時点で──霧子の中で真田は“人間の枠”から外れた。
もはや扱いは、災厄と同じだ。
そして霧子は、怪異に対しても全てに刃を振るうわけではない。
必要なときだけだ。意味があるときだけだ。
真田については、どちらも当てはまらない。
(観衆の呪詛が相手なら……勝手にやり合うだろう。私が介入する理由はない)
それが霧子の結論だった。
討つ価値も、手を汚す意味もない。
ただ、厄介な怪異がひとつ残っているという事実──彼女にとってそれ以上でも、それ以下でもない。
霧子は手を合わせ、味噌汁の最後の一口を飲み干した。
「ご馳走様だ」
「どういたしまして……」
霧子は立ち上がり、道具袋の紐を結び直す。
「朝から頑張るのは良いことだが──あまり無理をするな。
では、私は行ってくる」
短く言い残し、霧子は靴音を立てずに部屋を後にした。
和やかに始まった朝食は、報道一つで重い沈黙に変わった。
だが霧子にとっては、この張り詰めた空気のまま調査に向かえるのはむしろ都合がよかった。
彼女の背に残されたのは、温かい湯気を失いかけた味噌汁と、言葉にならない重さだけだった。
*****
風切市の端。
舗装はところどころ割れ、道路の縁には使われなくなった郵便受けが斜めに突き出している。背後には山が控え、空気は冷たく澄み切っていた。しかし、その透明感は清浄ではなく、むしろ放置されたような、忘れ去られた土地特有の重さがあった。
かつて朝比奈 真昼が、死よりも凄惨な地獄を見せられたあの場所──加害者宅は、この“端の端”にある。
霧子は地図アプリを確認しながら、道を辿る。
「事件現場は、この道をまっすぐ……」
スマホの白い画面が、早朝の薄闇に淡く浮かぶ。だが地図に示されたピンよりも先に、霧子の感覚は既に“場”の異常を告げていた。
「……先に進むほど、霊気が強くなるな」
口元で呟き、まっすぐ前だけを見据えて歩を進める。視線を寄せれば、そこかしこに浮遊霊が揺れているのが見えるはずだが——見ない。気づきながら見えないふりをするのは意図的な処置だ。下手に目を向ければ、些細なものでも干渉を招きやすい。不要な干渉を避けるように、彼女は淡々と足を運んだ。
歩を進めるごとに、周囲の植物が枯れていくのが分かる。芝は黄色く、木々の葉も生気を失っている。土までがどこか凍りついたようで、生命の循環が断たれた場所の匂いがする。同時に、周囲の音がまるで吸い取られたように消えていく。風の音も、遠くの車の走行音すら届かない。
「ここか」
目の前に立つ家屋は、周囲の空気をより濃く引き寄せていた。屋根は一部崩れ、外壁にはひび割れが走る。庭に草一本生えていない。土地そのものが“死んでいる”としか言いようがない。だがそれ以上に異様なのは、空き家であるにもかかわらず、中から漂う“気配”だった。
それは人の気配ではない。濃厚な悪意の念。閉じられたものを外へ出さぬよう殴り付けられた扉のような圧。霧子は眉間に小さな皺を寄せる。
(中から感じるのは、「出すな」と命じる念だ。真昼さんをこの場所に縛る“檻”になっているものだろう)
外壁に視線を移すと、薄れながらも刻まれた文字がいくつも残っていた。
「死ね」「犯罪者」「鬼畜」──いずれも粗雑で、怒り任せに掻きつけられたものばかりだ。
霧子はその痕跡に静かに目を細めた。
(……事件のあと、加害者宅として“私刑”の標的にされたのだな。怒りに任せて落書きしに来た者が相当数いたようだ)
壁の文字から滲む念も、人ではなく“群衆”のものだ。正義を名乗りながら悪意を叩きつける種類の、浅くて歪んだ集団心理。観衆の呪詛に近い質の憎悪が、外壁そのものに染み込んでいた。それは、生々しい憤怒の熱量を帯びており、近づく者の肌にまとわりつくような不快な層を形成していた。
(歪んだ正義感……。集合的な憎悪の残滓が念としてこびりついている)
霧子はゆっくりと呼吸を整え、目に映る全てを分析していく。細かな変化、念の層、流入と停滞の兆候。彼女の中では、言語にならぬ情報が次々と整理されていった。
霧子がさらに一歩、家へと近づいた瞬間だった。
そのわずかな接近に反応するように、家屋の内部から、別種の“気配”がどろりと滲み出した。
霊気でも怨霊の圧でもない。
もっと原始的で、もっと生々しい——。
加害者たちがこの家に撒き散らした、悪意の残滓。その濁りは周囲の空気を微かに軋ませ、気温を体感でわずかに押し下げた。
真昼を陵辱し、嘲笑し、黙らせ、命を奪った日々。
彼らが残した感情の澱は、まるで泥水が固まったように重く、肌に張りつく腐臭のようにねっとりしていた。
それは今なお家の隙間という隙間にへばりつき、醜く呼吸を続けている。
霧子は外壁のひびを指先でなぞるように視線を流し、静かに息を吐く。
怒りをぶつけることなく、しかし確かに温度の低い火を宿した淡々とした声で呟いた。
「……そうか。真昼さんがあの時、私たちに直接助けを求められなかった理由……これだな」
家屋から滲む濁りを、霧子は冷ややかに見据える。
表情は変わらない。だが目の奥には、ほんのわずかに揺らぎがあった。それは怒りではなく、深い嫌悪だった。
「……あいつらは、自分たちの悪事を隠すことに躍起だった。 その意志が、その卑しい念が……この家を介して、今もなお真昼さんの魂を縛っているのだろう」
霧子はわずかに眉を寄せた。
「『助けを呼ぶな』『外に知らせるな』……そんな姑息な命令だけが、今も彼女を縛っている。これこそが、あの時の呪いそのものだ。間違いないな」
そう確信を口にすると、霧子は踵を返す。
調査を切り上げるためではなく、この場の穢れにこれ以上関わる必要がないと判断したからだ。
「……現場の確認はここまでで十分だ」
背後の家からは、いまもなお、人ならざる悪意が静かに揺れ続けていた。
*****
現場の確認を終えた後、霧子は周辺住民への聞き取りや、役場で可能な手続きの処理に追われていた。すべてが片付く頃には、空はすっかり夕暮れの色に沈んでいた。
「……さて、そろそろ帰るか。事前の調査も済んだし、あとは現場宅の所有者に挨拶を——」
そこまで口にしたところで、霧子の視線がふと止まった。
朝比奈家。その前に、奇妙な影が立っている。
深くフードを被り、顔は見えない。だがその体つきと、不自然な静けさをまとった立ち姿には、強烈な既視感があった。
——先日、柊夜を襲った女。
手には、あの日と同じ形の刃物が握られている。
女が静かに、家の扉へと手を伸ばす。
その瞬間、霧子の身体は反射で動いていた。
「——やめろ!」
地を蹴る音に振り向いた女は、一瞬の躊躇もなく身を翻し、狭い路地へと駆け出した。霧子も追ったが、間合いの遠さが災いした。角を曲がる度に靴音が遠ざかり、最後の角を抜けた時には、もう影ひとつ残っていなかった。
夕暮れの通りに、霧子の荒い呼吸だけが響いた。
「……はぁ……はぁ……一体、何者だ?」
この事態を今の柊夜とその母に伝えて余計な不安を与えるわけにはいかない。
霧子は胸の奥に芽生えた疑念を、無理やり押し沈めた。
——今は、何も起きていない。
少なくとも、そういうことにしておくべきだ。
深く息を整え、表情を切り替える。
そして何事もなかったかのように、朝比奈家の敷居を跨いだ。
その夜、家の中で騒ぎが起きることはなかった。
誰かが訪ねてくることも、刃が振るわれることもない。
夕食は静かに終わり、会話も、いつも通りに交わされた。
——ただ、霧子だけが知っていた。
今日という一日は、確かに“何か”が家のすぐ傍まで迫った日だったことを。
何も起きなかった。
だからこそ、不安だけが残ったまま。
そうして、一日は静かに幕を下ろした。




