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赦すも処すも、生者次第 #加害者を許すな  作者: ヨウカン
最終章 旅路の果てに、未来は在って…
66/82

65話 振り返れば、そこに

 海沿いの長い道を、二人は並んで歩いていた。

 傾き始めた真夏の陽が上から降りそそぎ、海面のあちこちで白い光が瞬いている。店も家々も背が低く、遠くまで抜けるような水平線が、ただ静かに続いていた。

 潮風に混じるほんのりとした磯の匂いが、懐かしい昼下がりの記憶をそっと揺らす。


 「また誰かと並んで、この道を歩く日が来るなんて……」


 ぽつりとこぼれた柊夜の声は、波の音に溶けていく。

 波に目をやった後、すっと目線を水平線に戻す。

 横顔は穏やかで、それでいて遠くを眺めるような寂しさがあった。

 霧子が歩みを緩める。


 「ここは、思い出の場所なのか?」


 ほんのわずかに、顎を引いて頷く。


 「うん、まぁ……そんなところかな。姉ちゃんと出かける時は、だいたいこの道を通ってさ。海の音を聞くと、今でも一緒に歩いた日のことを思い出すんだ」


 一瞬の沈黙。

 波が寄せては返す音が、そばで呼吸をしているようだった。

 霧子は、その静かな呼吸を壊さぬよう、そっと言葉を選んだ。


 「柊夜くんのその刻まれた日々こそが、真昼さんが確かに生きていた証だな。

 私は……口下手で、上手くは言えんが——その思い出は、これからも大切にしていて欲しい。」


 「……そうだね」


 海面がきらりと跳ね、反射した光が柊夜の横顔を照らした。

 細かな表情までは見えない。けれど、口元がほんの少し、たしかに緩んでいるのが分かる。


 (柊夜くん——私だって君に救われている。

 勝手に君と霞真を重ねてしまう自分を、どこかで恥じてもいる。

 けれど……君と歩いていると、不思議とあの子と過ごした日々がそっと手のひらに戻ってくる気がして、胸がじんわりと温かくなるのだ)


 二人はそれ以上多くを語らず、ただゆっくりと、静かに道を進んだ。

 波のリズムと足音だけが、寄り添うように二人を包んでいた。


 しばらく歩いたところで、柊夜がふっと足を止めた。

 視線の先には、誰もいない小さな砂浜が広がっている。波が寄せては返し、淡い音を残して消えていく。


 「ここで姉ちゃんと、よく海を眺めていたんだ」


 その言葉とともに、胸の奥から淡い声が立ち上がった。


 『柊夜、大丈夫よ。私がそばにいるから』


 『ここにいたのね。……ダメじゃない。お母さんだって心配しているのよ』


 『今日はよく頑張ったね。バイト代、奮発しちゃった。お菓子いっぱい食べよっ』


 楽しい時も、つらい時も、いつも隣にいてくれた。

 甘えるばかりではなく、時には真剣に叱られた。

 そのひとつひとつが、胸の奥で宝石みたいに光っている。色褪せたことなんて、一度もない。

 そっと、片手の指先を胸元に当てる。


 「……なるほど。ここは二人にとって、特別な場所なのだな」


 霧子が穏やかに言った。


 「語らずともわかる。君の、その目を見れば」


 言い終えた霧子は、ほんの一瞬だけ視線を海に落とした。

 揺れる水面を見つめながら、胸の奥に淡い痛みが走る。

 誰かを想う気持ちの深さ——それが、波の光と重なって見えたのかもしれない。

 そしてそっと柊夜へ目を戻す。その表情には、静かな敬意と、寄り添おうとする意志が滲んでいた。


 「今さ……少しだけ姉ちゃんが戻ってきた気がしたんだ」


 柊夜は照れたように笑った。


 「霧子さんが横にいてくれるから、かな」


 「気にすることはない」


 静かに瞳を細め、霧子は短く首を振る。

 

 「時間はまだある。私でよければ、いくらでも一緒に——」


 「ううん、大丈夫」


 柊夜はそう言って、海から顔を上げる。家にいた時の無理に作った笑顔ではなかった。その表情は、凪いだ水面のように静かで、奥底に光を宿していた。


 「ここに来たら、ちゃんと元気出たよ」


 そして軽く背伸びをしてから、道の先を指さした。


 「せっかくだし、この町を案内するよ」


 海風を受けながら、二人は再び歩き出した。



 *****



 歩道の角を曲がったところで、柊夜がふと足を止めた。

 霧子もつられて歩みを止め、彼の視線の先を追う。

 そこには、どこにでもある小さなコンビニが立っていた。

 冷たく明るい蛍光灯に照らされた店内、自動ドアが静かに開閉する音だけが響く。

 だが柊夜の表情は、まるで遠い昔の誰かを見つけたように、わずかに揺れている。


 「普通のコンビニのようだが?」


  霧子が静かに問いかける。


 「うん、でも昔は違ったんだ。前は駄菓子屋で……俺、よく通ってたんだ。そういえば最近、駄菓子屋って全然ないよね」


 ぽつりと落ちた言葉は、懐かしさよりむしろ戸惑いの色を帯びていた。

 あの頃の店先にあったはずの、賑やかな子どもの声や、甘いお菓子の匂い、古びた引き戸の軋む音。今はそれらの面影すらない。


 柊夜はそのまま黙りこんだ。

 霧子は横顔を訝しげに見る。


 「……柊夜くん?」


 声をかけても、柊夜は返事をせず、ただコンビニを見つめ続けていた。


 「なんか……胸騒ぎがして。何だったかな……何か、あったはずなんだけど」


 何かを思い出している。

 しかしそれが何なのか、自分でも掴めていない——そんな表情だった。


 柊夜は小さく息を呑む。

 胸の奥が、急に強く締めつけられたように。


 「変だな……なんでだろ……急に、涙が出そうで……」


 自分でも驚いたように、目を伏せる。

 霧子は声をかけかけて、結局やめた。ただ、そっと柊夜の肩に手のひらを置きたい衝動をこらえ、視線を置くだけにした。


 その瞬間——

 かすかな光のように、記憶の断片が脳裏を走った。


 * * *


 『柊夜、探したのよ? あら……どうしたの? なんで泣いてるの……?』


 優しく覗き込む真昼の声が浮かんだ。

 近くて、温かくて、胸の奥をそっと撫でるような声。


 『だが……さん……、だった。でも……のお……さん……に言われた。……なってから……って……』


 これは幼き日の柊夜自身の声だ。

 けれど、ノイズにまみれて意味を結ばない。

 短い言葉だけが、途切れ途切れに浮かんでは消える。

 自身のこのセリフだけは、輪郭を掴むほどに霧散し、胸の奥にざらつく痛みだけを残す。


 『泣かないで。初めてなんてそんなものよ。

 それより……勇気を出して、ちゃんと伝えられた。それってすごいよ。大人だって簡単じゃないんだから』


 優しい温もりだけがはっきりしている。

 なのに——自分がなぜ泣いていたのかだけが、どうしても思い出せない。

 胸が苦しくて、何故だか少し恥ずかしくもあり……。

 世界のどこにも逃げ場がなかったような、あの圧迫感だけが残っている。


 * * *


 記憶の断片が途切れたところで、柊夜は額に手を当てた。


 「……全然覚えてない。なんで泣いてたんだろ。なんで姉ちゃんが……あんなに優しくしてくれてたんだろ……」


 しばらく沈黙し——

 ぽつりと漏れる。


 「思い出そうとすると……気持ち悪い」


 内臓をひっくり返されるような、拒絶の波に襲われる。

 その声は震えていた。

 思い出の中の「何か」が、今の彼にとって“触れてはいけないもの”のように。


 視線は落ち、肩が小さく揺れる。

 理由のわからない罪悪感が押しつぶそうとしていた。


 霧子は何も言わず、ただ一歩だけ間合いを詰め、隣に立ち続けた。

 慰めよりも、沈黙の方が今は寄り添えると感じたからだ。


 「……行こうか」


 柊夜は、涙をこらえるように小さく笑った。

 「あぁ……」


 霧子も短く頷く。


 そして二人が再び前を向いた、その時だった。


 ——目の前から、背の低いフードの女が、勢いよく駆けてくる。

 影が、真っ直ぐ柊夜へ向かって迫った。



 *****



 空気が、裂けた。

 何の前触れもなく、『シャッ』と布を断つ鋭い音だけが響いた。

 血の気も、叫びもない。

 世界が一拍だけ止まったような、“無音”の隙間が生まれる。


 柊夜の身体がわずかに揺れ息を飲むことすら忘れたように硬直した。数瞬遅れて、胸元に鋭利な熱が走る。

 服の胸元に細い線が走り、そこからまるで毒が染み出すように赤がじわりと滲み出す。


 「——ッ!? 柊夜くんっ!」


 霧子が地面を蹴る。


 フードの女は、顔の半分を影に沈めたまま「チッ」と舌打ちした。

 その素顔の断片からは、霊気すら帯びていないのに——

 強い怨念だけが、濃度を持って吹き出していた。


 (こいつ……霊でも怪異でもない。ただの“人間”だというのか)


 霧子の背筋に、一瞬だけ冷たいものが走る。


 次の瞬間——風が逆流するように、ドス黒い気が立ちのぼった。


 それは柊夜の傷口からだ。

 血に混じり、粘つくような“憎念”が滲み出ている。

 形も霊気も持たない。ただの念。だが、そこには確かな"意志"があり、霧子の肌を刺すような冷気を放っている。


 霧子の表情が険しくなる。

 理屈では説明しきれない感覚が、内側をざわつかせる。


 (これは……極めて強い“怨念”だ。だが本質は、先ほど感じたものと酷似している。

 ——柊夜くんの母君が発していた、あの我が子を失った"母の嘆き”と同じだ)


 霧子が顔を上げた時、女はすでに背を向け、遠ざかっていた。

 霧子は歯を噛み締める。


 「無差別の通り魔ではない。……確実に、柊夜くんを狙っていた」



 *****



 応急処置を終え、二人は潮風の届かない路地に身を寄せていた。

 傷は浅い。だが、刃が触れた場所にはまだ、じんわりと“あの気配”が居座っている。


 霧子が静かに口を開いた。


 「通報するべきだ。人が人を斬ったのだぞ。放置していい類ではない」


 その声は決して強圧ではなく、事実を淡々と並べただけのものだ。

 だが柊夜は、短く息を呑み、視線を伏せた。


 「……しない」


  霧子の眉がわずかに動く。


 「理由を聞いてもいいか」


 柊夜は胸元を押さえながら、ゆっくりと言葉を探した。


 「母さん……今も傷つきながら、姉ちゃんのこと、前に進もうとしてるんだ。

 ここで“また事件に巻き込まれました”なんて言ったら……絶対、崩れちゃう」


 それは優しさだった。

 傷よりも痛そうに、彼の声が震えている。

 だがその奥に、もうひとつ別の色が潜んでいるのを霧子は感じ取った。


 「……それだけか?」


 柊夜は苦笑のような表情を浮かべる。


 「……姉ちゃんのことが全部終わるまで、警察になんか邪魔されたくない。

 今ここで止まりたくないんだ。

 “供養の時間”を……誰にも奪われたくない。少しでも早く救い出したい」


 その声には震えがなかった。

 静かで、けれど何より強かった。

 霧子はしばし沈黙し、風の音だけがふたりの間を満たす。


 「……君が覚悟の上で選ぶのなら、私は従おう。

 だが、気を抜くな。あの女は間違いなく“狙い”を持っている」


 柊夜は小さくうなずいた。


 「怖いよ。でも、それでも……進む」


 その表情は、不思議なほど静かで揺れていなかった。

 優しさと執念、そのどちらも手放せないまま——彼はまた、前へ歩こうとしていた。



 *****



 暑さを吸い込んだカーテンの隙間から、夕陽の赤が細く差し込み、まぶたの裏を淡く染めた。

 柊夜の母はゆっくりと目を開け、寝返りを打つように身体を起こす。


 「あら……もうこんな時間……?」


 枕元の時計はちょうど午後七時を指していた。


 「えっ、夕飯の時間じゃない!?」


 慌てて立ち上がり部屋の扉を開けた瞬間、鼻先をくすぐるような香ばしい匂いがふわりと広がった。

 昼前に途中まで作ってラップをかけておいた、あの未完成だった料理の匂いだ。


 「え……? あれは冷蔵庫に入れておいたはずなのに……柊夜?」


 胸の奥がざわつくまま台所へ向かうと、そこに立っていたのはエプロン姿の柊夜と、静かに手を貸している霧子だった。


 「母さん、起きた? ゆっくり休めた?」


 「台所、お借りしています」


 テーブルには、昼に作りかけていた料理がきちんと完成した形で並び、さらに見覚えのない一皿が添えられている。焼き色のついた肉汁の香りが、夕食の空気を広げていた。


 「……ハンバーグ? これ、柊夜が作ったの?」


 「うん。最近練習しててさ。母さんに一番に食べてもらいたかったんだ」


 そう言って見せた笑顔は、どこか誇らしげで、少し照れていて、けれど確かな自信を帯びていた。


 「柊夜くんのハンバーグ、私も横で見ていましたが……ぜひ味わってあげてください」


 その穏やかな声に、母の胸がじんわりと温かくなる。

 気づけば日常が、確かに少しずつ形を取り戻している。

 息子が、自分のいないところで、ちゃんと前へ進もうとしている——その事実が、何よりも嬉しかった。



 *****



 食卓には、三人分の皿が並んでいた。照明の下でハンバーグの肉汁がほのかに光り、味噌汁から立ちのぼる湯気がゆるやかに揺れている。


 「……本当に、全部作ったのね。すごいじゃない、柊夜」


 箸を取る手が、高ぶる胸を抑えきれないように震えていた。

 一口食べると、ふっと目を細める。驚きでも感動でもない、胸の奥に染みていくような、静かな喜びの表情だった。


 「おいしい……。本当に、おいしいよ」


 「よかった……。ちょっと緊張したけど」


 霧子はそんな二人の横で、煮物の皿をさりげなく母の近くに寄せたり、柊夜の味噌汁が少なくなると自然に注ぎ足したりしていた。

 その動きは、何年もこの家の食卓に座ってきたかのような、淀みのない自然さがあった。

 母は、自分が疲労で横になっていた間、この台所が二人によって動いていたことを想像し、胸の奥の重荷が一つ消えたような気がした。


 母はその姿に気づくと、声には出さず、小さく微笑んだ。

 “この子はきっと、柊夜を導いてくれる”

 そんな確信が、言葉よりも先に胸へ降りてくる。


 霧子は一口味わってから、静かに頷いた。


 「……うむ。自炊は苦手と言っていたが、前にハンバーグの作り方を教わってから、めきめき腕を上げているな。これからが楽しみだ」


 「え、ほんと? ……ていうか霧子さんこそ凄いじゃん。大量の食材を一瞬で仕分けて、手際よく作るし」


 「効率だけは自信がある。今度、時間短縮できる調理法も教えようか?」


 「ぜひぜひ〜! 俺、そういうの超助かる!」


 「では次に会う時までに、課題を出しておくか」


 「え、課題!?」


 二人のやりとりに思わず口元が緩む母。

 張りつめていた胸の奥が、ゆっくり溶けていくような光景だった。

 母は箸を置き、二人の横顔を見つめながら、そっと息を吐いた。


 「……こうして食べるの、久しぶりね」


 呟きに似たその言葉は、誰に向けたものでもなかった。それは、何ヶ月……何年も止まっていた家族の食事が、ようやく再び動き出したことへの、素直な感謝だった。

 けれど柊夜も霧子も、自然と微笑み返していた。


 食卓の静かな笑い声を包みこむように、湯気は窓の外の夜へとゆるやかに溶けていった。

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