64話 笑顔の奥に
厚いカーテンの隙間から差し込む朝の光が、まぶたを薄く照らす。
柊夜は顔をしかめ、まどろみの中でゆっくりと目を開いた。
「……う、んっ」
寝ぼけた視界が徐々に焦点を取り戻し、見慣れた天井が映る。
覚醒した意識の中で、ふと思い出したようにぽつりと呟いた。
「あ……そういや、実家に帰ってたんだ」
重たい身体を起こし、ベッド脇のスマホを手に取る。
画面に表示された時刻を見て、目を丸くした。
「じっ……十一時っ!?」
大寝坊、すでに昼前である。
昨日の長旅の疲れと、久々の実家の安心感が相まって、すっかり気が緩んでしまったようだった。
階段を降りると、ふわりと鼻をくすぐる良い匂い。
柊夜はそのまま吸い寄せられるように台所へ向かった。
そこでは——。
「霧子さんがいると、なんだか真昼が帰ってきたみたいだわ」
母が笑いながら、霧子と肩を並べて調理していた。
エプロン姿の二人は、すっかり昔からの知り合いのような空気で、和やかに談笑している。
「ははっ、そんな……恐れ多いです」
霧子は照れたように小さく笑う。
その姿に母は目を細めた。
「このまま、うちにずっといてくれたら——」
しかし、その声は普段の明るさから一転し、まるで願掛けをするように切実で、かすかに震えていた。
「母さんまたそんなこと言って……霧子さんが困るだろ——っ!?」
軽く止めようとした、その瞬間だった。
柊夜の視界に映った母の顔——
目元には、溢れんばかりの涙。
唇を強く噛みしめ、涙だけでなく、声を上げないよう懸命に耐えている。
その姿に、柊夜ははっと息を飲む。
「……母さん。ごめん……」
一歩後ろに下がりながら、自然と頭が下がっていた。
謝る理由なんて頭ではわからない。けれど口が勝手に謝罪の言葉を発した。
なぜなら、母の胸に広がる痛みだけは、言葉を介さずとも、肌に突き刺さるように伝わってしまったから……。
「……私こそ、ごめん……ごめん、ね……」
ぽつりと零れた声は、昨日まで必死に保っていた明るさをあっさりと溶かし、母はその場に座り込んで両手で顔を覆った。
「母……さん……」
胸の奥がひゅっと痛む。
すぐにでも支えたいのに、どんな言葉をかければいいのか分からない。唇がもどかしげに震えるだけで、声は出ない。
柊夜はただ、崩れ落ちる母を見つめるしかなかった。
「……昨日ね。柊夜と霧子さんが楽しそうに話してるのを見て……思い出しちゃったの」
母は涙を拭うが、拭っても拭っても溢れ出る。
震える指先が、そのまま母の心の弱さと強さ、その両方を物語っていた。
「真昼がね……柊夜と毎日あんなふうに笑ってた頃、ずっと……あの時間が続くと思ってたの。
どうして……真昼だったんだろうね……?
なんで真昼が、あんな……ひどい目に遭わなきゃいけなかったんだろう……」
涙ながらに語る母の姿は——かつての柊夜の姿と重なった。 いや、柊夜以上だ。
親が精一杯の愛情を注いだ我が子を喪う痛みは、柊夜はもちろん霧子にだって想像できない領域。
それなのに母は今日まで、憎しみに呑まれることなく、ずっと明るく振る舞ってきた。
そんな母が、今泣いている。
柊夜はそっと腕を伸ばし抱きしめた。
「……我慢しないで、いいよ」
励ましの言葉なんて見つからない。
なら、無理に言葉を作らなくていい。
ただ傍にいて、母が泣ける場所になればいい。
それが今の自分にできる、精いっぱいの向き合い方だった。
(……柊夜くん。君だって、どれほど辛いか分からんのに)
霧子は静かに視線を落とし、ふたりの背中を見つめていた。
「……ごめんね……せっかく来てくれたのに……」
母は涙を拭いながらも、なおも無理に笑顔を作ろうとしていた。
(……母さん。よく見ると、また痩せた? 白髪も増えて……クマまでできてる。こんなに……)
抱きしめた瞬間、胸の奥がざわついた。
腕に収まる母の身体が、驚くほど軽かった。
昔は冗談めかして「太った?」と言えるくらい肉付きが良かったのに、今の身体は骨ばっていて、まるで空洞を抱きしめているかのように、腕の中で抵抗なくくぼむ。
それだけじゃない。
真夏だというのに、肌はひんやりしていた。真夏の太陽を浴びて、多少なりとも熱を持っているはずなのに……。
汗ばむ季節なのに血の通った人間のものとは思えないほどの冷たさ、母が確かに弱っているという事実を、何より雄弁に物語っていた。
(力になりたい。支えなきゃいけないのに……俺は——)
悲しみと焦りが胸に刺さる。何を言っても、どう動いても、現状は変えられない。その事実に、胃の腑が締め付けられた。
抱きしめる腕に、自然と力がこもる。母の背骨が自分の胸に当たって痛いほどだったが、力を緩めることができなかった。
(俺は……無力だ)
「……柊夜、ありがとう。少し落ち着いたよ。やっぱり、我慢は良くないね」
顔を上げた母は、涙の跡を残したまま微笑んだ。
弱々しい身体に宿る、その瞳だけは、濁りのない炎のように燃えていた。
悲しみに屈しないと決めた者だけが持つ、固い意志の光だった。
それは、自分の命をすり減らしてでも、この悲しみに抗うという決意の光であり、柊夜から見れば、死へと向かう潔さのようにも映った。
それこそが柊夜には怖かった。
「……まだ我慢してるんじゃない? ダメだよ、全部ここで——」
「柊夜くん……ちょっと」
霧子が静かに肩へ手を置いた。
その仕草は、責めるでも諭すでもなく、ただ“止めるべきときだ”と伝えるものだった。
「……霧子さん?」
「今は……その時じゃないのかもしれない」
その小さな囁きを受け取った瞬間、柊夜の胸の熱が静かに冷まされた。
「…………うん」
そっと腕をほどき、一歩下がる。
「本当にありがとうね……。少し休んだら、またご飯作るから……」
よろめく足取りで立ち上がると、母は作りかけの料理に丁寧にラップをかけた。
霧子と柊夜も、無言のままそっと手伝う。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうね。霧子さんも……せっかく来てくれたのに気を遣わせて、ごめんなさいね」
弱々しく、それでも精一杯の笑みを残し、母は台所を後にした。
さっきまで火が上がる音と楽しげな談笑が満ちていた空間が、さっきまでの“日常”を、全て置き去りにしたように静まり返る。
その静寂を埋めるように、外で鳴く蝉の声がひときわ大きく響き渡る。その喧騒だけが、ここに残された二人の”今”が、どこか現実離れしていることを告げていた。
*****
柊夜は霧子と並んで居間の座布団に腰を下ろしていた。先ほどまで台所に満ちていた温かい気配は、嘘のように消えている。この部屋の時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いていた。
「……余計なこと、言っちゃったよな。霧子さん、楽しそうに料理してたのに。全部、台無しにしちゃった」
かすれた声には、後悔と自己嫌悪が滲んでいた。
「君の言葉に悪意はなかった。それに……気を遣ってくれたのも分かっている。お母様も君を責めたりはしないだろう。だから、自分を追い詰める必要はない」
落ち着いた声だったが、その優しさはそっと肩を包み込むような温かさを持っていた。霧子は静かに口を閉じたまま、静かに柊夜を見つめていた。
「……そう、だね。俺まで落ち込んでたら……余計に母さんが心配しちゃうよな。元気、出さないと。……元気を……っ」
柊夜は言い聞かせるように言葉を区切り、座布団の上で膝をきつく抱え込んだ。その笑顔は、どう見ても無理に張り付けたものだった。目元はうっすら赤い。潤んだ瞳が、一瞬、焦点を見失って宙を彷徨った。
(……親子なんだな。強がり方までそっくりだ。だが、今は下手な慰めより空気を変えた方がいいかもしれん)
霧子はふと窓の外に視線を移した。木々の揺れる音が、静かな室内にかすかに届く。
(……そうだな)
その考えが形になった瞬間、霧子はすっと立ち上がった。
「柊夜くん、少しいいか?」
「え? あ、うん。どうしたの?」
霧子は窓の外、夏の光に淡く照らされる庭を見つめたまま言う。その横顔には、小さな決意の色が浮かんでいた。
「散歩に行こう。……ここに籠もっていると、気持ちまで重くなる。外の空気を吸った方が、ずっといい」
言葉は短い。しかし、押しつけがましさは一切なく、ただ静かに手を差し伸べるような響きを持っていた。
「散歩……?」
しかし誘われた瞬間、柊夜はわずかに眉を寄せた。今は外に出る気分になれなかったし、何よりこの重たい気持ちを抱えたまま歩いても、霧子に気を遣わせてしまうだけだと思ったからだ。
「でも、俺……今の状態じゃ——」
そこまで言いかけて、霧子の横顔が視界に入った。
窓の外を見ていた時とは違う、真剣な眼差しを向けていた。
まっすぐ、こちらだけを見ている。
余計な感情を乗せない、静かで、それでいてどこか温かい眼差し。
「……外の空気を吸えば、少しは軽くなる。私は、そう思う」
言葉自体は静かだったが、不思議と胸の奥に届いた。
心配でもなく、同情でもなく、ただ“寄り添おう”とする気持ちが滲んでいる。
柊夜は息を一つ吐いた。
胸の重みはまだ消えない。それでも、その目に応えたいと思った。
「……うん。行こう。霧子さんと一緒なら、少しは気分も変わるかもしれないし」
そう言った時、ほんの少しだけ、心が前に動いた気がした。




