63話 朝比奈家
賑やかな街並みを抜け、変わり映えのしない山道を何時間も走り続けた。高速を降りる頃には、空はすっかり夜の色をまとっている。
街灯の少ない道は闇が深く、ヘッドライトが照らす範囲だけが頼りだった。木々の切れ間を縫って進むと、ぽっかりと口を開けた一本のトンネルが現れる。
そのトンネルを抜けた瞬間、視界がふっと広がった。
眼前に広がるのは、山間に抱かれたこじんまりとした街。
背後には黒々とした山の稜線が沈み、前方には海が広がっていた。
月光がその水面に細い銀の橋をかけ、街全体が静かな光の膜に包まれている。
——ここが、風切市。
柊夜の実家があり、真昼の人生が終わった“例の事件”の舞台。
半日近い長旅を終え、二人はようやく車を降りた。ドアを閉める音が、静まり返った夜の闇に妙に大きく響く。
「うぅ〜ん! 身体がカチコチだぁ……」
柊夜は大きく伸びをし、夜気を胸いっぱいに吸い込む。
「やっぱりこっちは空気がいいなぁ」
澄んだ空気の中、遠くでかすかに波の音が聞こえる。東京の喧騒とはかけ離れた、何もかもが停止したかのような静けさだった。
「あぁ、東京とは大違いだ」
霧子が短く相槌を打ち——次の瞬間、ふと動きを止めた。
「……ん?」
彼女の視線がゆっくりと空へ向かう。
山間の街の夜空は、雲ひとつない。
そしてそこには、目を奪うほどの満天の星があった。
彼女の冷たい目を、闇に瞬く無数の光が映し込む。
「……満天の星、か」
人の営みを遥かに超えた、圧倒的な永遠の静寂が、彼女の心を一瞬だけ解きほぐしたのかもしれない。
そして、淡々とした声だが、どこか高揚を隠しきれていない。
普段は堅い表情である霧子の、ほんのわずかな揺らぎ。
星の光を受けて柔らかく見えたその横顔は、誰にも見せたことのない無防備な表情に見えた。
「この辺りはよく星が見えるんだ。昔、よく姉ちゃんと眺めててさ……」
懐かしむように目を細める柊夜。
夜風の匂いに誘われるように、幼い頃の記憶が静かによみがえる。
ふと、隣に立つ霧子が、姉の代わりではない、一人の女性としてそこにいることに気づく。
——そして、不意に霧子へ視線が移った。
後ろで束ねられた白髪が、月明かりを受けて淡い銀色に輝いている。
静かで、凛としていて、どこか儚い。
星空の下に立つその姿は、普段よりもずっと美しく見えた。
(……綺麗だ)
胸の奥が、不意に熱を帯びる。
何かが、ゆっくりと形になりかける感覚。
(あれ?)
(俺……もしかして霧子さんのこと——)
「何か考え事か?」
霧子が横目でこちらを見る。
「いや、なんでも……! そ、それより家はこっち! 行こう!」
動揺をごまかすように、柊夜は急ぎ足で歩き出した。
その背を追いながら、霧子は小さく首を傾げる。
*****
ガラ、ガラガラ……。
古びた引き戸が、少し擦れるような音を立てて開いた。長旅の疲れを抱えたまま柊夜が敷居をまたぐ。
外の蒸し暑い夏の空気とは違い、玄関にはどこか懐かしい木造家屋の匂いと、廊下の奥から漏れる穏やかな電灯の光が満ちていた。
「ただいまー!」
懐かしい声が家の奥へ転がっていくように響く。すぐに足音がして、短い茶髪にラフな格好の細身の女性——柊夜の母が、ぱっと花が咲くような笑顔で現れた。
「おかえり。あら……そちらの方が除霊師の?」
「除霊師の神城霧子です。真昼さんの供養を担当させていただいています」
霧子が軽く会釈すると、母は「ああ」と一呼吸置いて——。
「一度、除霊費のお話の時に声は聞いたけど……。いやぁ、凄くべっぴんさんね。女優さんみたい……。はぁ、それにしても柊夜のお嫁さ——」
「母さん、そういうのいいから! 霧子さん困ってるでしょ!」
慌てたように遮る柊夜。そのまま母の背を押すように奥へ連れて行ってしまった。
霧子はぽつんと玄関に残され、ふっと小さく笑う。
(家族のいる家——暖かいな……)
胸の奥がじんわりと満たされるような感覚。
自分にもかつてはいた、母と弟。その面影が一瞬よぎり、懐かしさと少しの切なさが入り混じる。
ほどなくして、柊夜が戻ってきた。眉を情けなさそうに下げて、申し訳なさそうな顔で。
「もう大丈夫。母さん奥に追いやったからさ」
「いや、賑やかで素敵なお母様でいいと思うぞ。
——さて、お邪魔します」
霧子は靴を脱ぎ、一瞬、足元で気を引き締める。除霊という役目を抱えながら、家族の気配が残る場所に入ることに、わずかな緊張感を覚えていた。そして、静かに家の中へ足を踏み入れる。
ちょうどその時、台所の方から母の朗らかな声が響いた。
「ご飯できてるよー。霧子さんもぜひ食べていってください!」
その声に押されるように、醤油と出汁が混ざり合った、どこか甘い温かい団らんの匂いに誘われるように、二人は視線を交わし、家の奥へと歩みを進めた。
*****
台所は、揚げ物と味噌汁の香りがふわりと混ざった、柊夜にとってはどこか懐かしい匂いに満ちていた。
食卓には湯気を立てる味噌汁、脂がほどよく乗った鮭の塩焼き、彩り豊かなサラダに目玉焼き。
そして極めつけは、大皿に崩落寸前で積み上げられた唐揚げとコロッケ——皿の縁をはみ出すほどの豪勢さだ。
「柊夜に言われた通り、大盛り作ったわよ!」
母が胸を張って宣言すると、台所に軽快な鼻歌が弾む。
柊夜は「ありがとう……」と返したものの、目の前の“揚げ物の山”を見て固まっていた。
子どもの頃から慣れ親しんだ食卓に、こんな光景は一度もなかった。だからその山盛りの揚げ物の異様な存在感につい息を呑んでしまう。
そんな柊夜の袖を、霧子がそっと指先でつつく。
「……柊夜くん」
「霧子さん?」
「用意してもらって言いづらいのだが……無理に私に合わせなくてもよかったのに……」
申し訳なさそうに視線を落とす霧子。
柊夜が母に「ご飯大量で」と頼んだのは、まぎれもなく霧子のフードファイター級の食欲のためだった。
だが、当の本人は気まずそうにしている。
「でも、ご飯いっぱい食べないと妖刀に……」
「除霊を行わなければ、ある程度はセーブできる。——それに、君だから正直に言うがな」
霧子は声を潜め、ほんの少し言い淀んだ。
「……他人の家だと大量の料理は食べづらいな。あと……少し、」
霧子は言いづらそうに、前髪の先をそっと指先でいじった。
「あと?」
「……恥ずかしい……」
柊夜はその場で固まった。
いつも冷静沈着な彼女の耳までほんのり赤く染め、凛とした雰囲気のまま恥じらう霧子。
そんな表情を見るのは初めてで、胸の奥が一瞬だけ奇妙な熱と共に跳ねた。
気まずさを察したのか、母がくすりと笑いながら口を挟む。
「霧子さん、私は先に食べてしまったので、二人でゆっくり召し上がってくださいね」
そう言い残し、軽やかに台所を後にした。
母の姿が完全に見えなくなった途端——。
「…………」
「母さんいなくなったし……食べられそう?」
問いかけた瞬間、霧子の目つきが鋭く、深く変わった。
さっきまでの遠慮と恥じらいが嘘のように消え、獲物である食卓の全てを狙う“捕食者”の光を宿す。彼女は両手を軽く打ち合わせるように一度組むと、
「もちろんだ。——いただきます!」
と凛然と告げた。
その声は、戦場へ向かう騎士のように力強く、頼もしく。——そして、箸を取る霧子の神速の動作と気迫に、揚げ物の山がわずかに震えた気さえした。
*****
「柊夜くん、今日はお疲れ様。おやすみ」
「霧子さんこそ、長時間運転お疲れ様! ゆっくり休んでね」
夕食も風呂も終え、家中には湯の香りと揚げ物の残り香がふんわりと漂っていた。
外の喧騒が届かない二階の廊下は、静寂に包まれている。
二人は二階の廊下で軽く言葉を交わし、それぞれの部屋へと入っていく。
霧子はかつて真昼が使っていた部屋へ。
真昼の痕跡がそのまま残された、その扉が静かに閉まる。
柊夜は久しぶりに、自分の元の部屋へ戻った。
電気を落とし、薄暗い天井を眺めながらベッドに身を沈める。
「今日は霧子さんの珍しい一面、見られたなぁ……」
ぽつりと漏らした声には、嬉しさと照れが溶けていた。
ぼんやりとまぶたを閉じれば、次々と浮かぶ。
月明かりの下で星を見上げていた横顔。
家の食卓で、揚げ物の山を前に頬を赤くした霧子の姿。
思い出すだけで口元がゆるみ、胸の奥がじんわり熱くなる。
(俺って……霧子さんのこと、どう思ってるんだろう)
ここ数日、彼女を見るたび胸に起きる変化。
その違和感に、自分でも気づいている。
答えはもう、ほとんど形になっている。
けれど、あと一歩のところで言葉にならない。
(最初は……姉ちゃんと重ねていたところがあった。それは間違いない。でも……これは違う。こんな気持ち、今まで一度もなかった)
胸に手を当てる。
家の静けさのせいなのか、それとも——。
どく、どく、といつもより強く響く鼓動。
(……俺、もしかして。霧子さんのこと——)
熱くなった頬を片手で覆った、その瞬間だった。
——ドクン。
ひときわ大きな鼓動が跳ねた。
そして同時に、脳裏の奥へ別の光景が割り込む。
真田。
松野。
姉を傷つけ、嘲り、笑っていた主犯格たちの顔。
(……そんなはず、ない。あってはならない。俺は……俺は奴らとは違うんだから)
柊夜は感じた。奴らが、自分の感情と欲望を最優先して姉を食い物にしたように。自身のこの鼓動も、結局は奴らと同じ、汚い何かから来ているのではないかと……。
するとさっきまで紅潮していた顔が、一気に血の気を失っていく。
温かかった胸の鼓動が、冷水をかけられたように萎んでいく。
自分が、霧子の姿を思い浮かべて鼓動を早めていた——
その事実が、急に気味悪く思えた。
(……気持ち悪い)
喉の奥がひゅっと狭くなる。
さっきまで“嬉しさ”だった何かが、黒い手に握り潰されるように消えていく。
柊夜は、熱を失った胸に両手を強く押し当てた。まるで、その感情を閉じ込めるかのように。
こうしてこの夜——
柊夜の胸に芽生え始めた、淡く温かい感情は。
内に潜む黒い鎖によって、静かに、確かに封じられたのだった。




