62話 お礼参り
都内・繁華街の外れに佇む雑居ビル。その三階にある小さな事務所は、もはやその機能と形をほとんど失っていた。
本来なら、真田 誠が率いていたグループの“仕事場”──ただの安っぽいレンタルオフィスで、雑多な書類やパソコン、割れたモニター、乱雑に放られた工具類が散乱しているだけの場所だった。
だが今の室内に満ちているのは、鉄を舐めたような生臭い匂いと、靴裏に貼りついて離れないほど濃く乾きつつある黒ずんだ血の層だけ。
シンと冷えた空間。つい数分前まで、怒号と悲鳴、肉を叩き割るような鈍い音が満ちていたのだが、その事実が信じられないほどの静けさだった。
破れたソファ、倒れた机、壁に叩きつけられて砕けたテレビの残骸──そのすべてが“何かが暴れ抜いた”ことを雄弁に物語っている。
その中心で、ひとりの男が上機嫌そうに鼻歌を歌っていた。
「──西山ァ、最後はお前だ。覚悟はいいか?」
軽い調子の声。だが、その手に握られたバールの先端には微かに肉片が張りつき、腕には乾いた血がまだこびりついている。
真田 誠は、まるで散歩の続きでもするかのような気楽さで、へたり込んだ男を見下ろしていた。
西山は、壁際に座り込んだまま、震える脚を抱え込むようにして後ずさる。バールから滴る血よりも、真田の淀みのない、まるで楽しんでいるかのような目に、言いようのない絶望を覚えた。
「ちょ、ちょっと待て、お前……いや、真田さん! こんなに派手にやらかして……あんたもタダじゃすまねぇぞ? この惨状、警察来たら……!」
声は怒鳴っているつもりなのに、喉がすっかり乾ききって震えていた。
助けを乞う言葉ですら、もはや自分でも信じていないのが分かる。
真田は首を傾げ、口元に笑みを浮かべる。
「いいよ? 俺もう──人間辞めてっからな〜。
……それはさっき、いやってほど分かったろ?」
その瞬間、西山の顔がひきつり、呼吸が一拍止まった。
「ゔっ……!」
真田の言葉に、つい先刻の“光景”が脳裏に勝手に再生されてしまったからだ。
目をつぶっても、耳を塞いでも消えてくれない。
人間ではありえない動き。
人間では出せない力。
そして──
人間ではない何かと混じり合った、真田の“変貌”。
西山の思考は、意志とは無関係に遡っていく。
震えた瞳に、悪夢の幕が再び開いた。
*****
その日、事務所には珍しくゆるい空気が漂っていた。
血走った仕事も途絶え、暇を持て余した若者たちが、安っぽいソファや椅子にだらしなく身体を預け、缶コーヒーのプルタブをいじりながら雑談に興じていた。
事務所には、吸い殻の山から立ち上る焦げ臭さと、若者たちの汗の酸っぱい匂いがぬるい熱気とともに滞留していた。安っぽいソファは座りすぎてクッションが潰れ、床には誰も片付けないコンビニのゴミが散乱している。
「はぁ……朝比奈真昼のDVDの件、惜しかったな」
西山が天井を見上げながらぼやく。
かつてのリーダー格らしい威圧感も、今は気怠さに溶け、影が薄い。
「そうっすね……もうちょっと稼げたはずなんすけどねぇ」
安っぽいパーカー姿の手下が、サンダル履きのつま先で床をカリカリ掻きながら相槌を打つ。
「売ることしか考えてなくてよ……没収されるなら、一回ぐらい見ておけば良かったぜ」
「それ、俺も思うっす! 自分、エグいプレイ大好物っすから!」
「お前キモいな」
「いやいや〜、褒め言葉として受け取っときますよ」
くだらないやり取りの最中、事務所の窓の外からセミの鳴き声が、じりじりと耳にまとわりつくように響いていた。
冷房は故障中で、室内はぬるい熱気が滞留し、肌にじっとりと汗が張りつく。
どこまでも弛緩した空気。
だが、そのだるさがかえって、この部屋に迫る暴風の気配を隠していた。
「チッ……最近、案件も来ねぇしな。
そろそろ潮時か?」
西山はソファから起き上がり、首をぐるりと鳴らした。
真田が消えてからというもの、真田経由の仕事は完全に途切れ、グループは緩やかに崩壊に向かっていた。
もはや、誰も未来を語らなくなっている。
──その時だった。
ガチャッ!!
乱暴にドアが開き、若いメンバーのひとりが転がり込むようにして入ってきた。
「……お、おまっ、それどうしたんだ!?」
西山がソファから飛び上がる。
部屋の空気が、一瞬で凍りつく。
入ってきた男は、顔半分が紫色に腫れ上がり、腕は不自然に曲がっていた。
肩からは生ぬるい血がぽたぽたと滴り、声を出す暇もなく、その場に崩れ落ちる。
床に倒れた拍子に、鉄の匂いがふわりと広がった。
そして──倒れた男の背後。
扉の向こうに、もうひとつ影が立っていた。
ゆっくりと、まるで帰省でもしてきたかのような軽い足取り──靴底が床を擦る音さえ立てず入ってくる。
「よぉ」
その声は、昔と変わらない“真田 誠”の声だった。
だが、その内から醸し出される気配はまったく別物だ。
西山は、喉が張り付いたまま、言葉を失った。かつて、真田は人の痛みには疎くても、己に危険が及ばぬよう常に状況を読んで立ち回る"人間的な計算"をしていた。だが今、その計算高い理性という名の"タガ"は完全に外れ、獲物を狩りに来た獣の、純粋な殺意だけが形を成している。
「前は散々やってくれたよな?
……つーわけで、お礼参りに来たぜ」
失神したかつて仲間の背中を、ためらいなく踏みつけた。
骨の軋む音が、事務所全体に嫌でも響く。
爽やかな笑みを浮かべながら──
まるで善意の挨拶でもするかのような柔らかな声で──
だが、血の臭いをまとった“人から外れた何か”が、そこに立っていた。
一同、言葉を呑み込み、ただ真田を見つめた。
その男は、入室した瞬間から場の空気を支配していた。
まるで真夏の空気の中に、ひとりだけ別の季節を連れてきたような——じわじわと肌の温度を奪う“異質さ”。冷気に触れたように、この場にいる全員の汗が引いた。
手下が西山の袖を引き、囁いた。
「西山さん……やっちまいましょう。数はこっちが上っす。武器もあるし……」
「……だな」
西山は乾いた喉を鳴らしながら応じた。
それでも視線は真田に釘付けのまま、手は自然と震えていた。
ゴソ、と音が混ざり、その場の全員がカバンやポケットから凶器を取り出す。
スタンガン。
刃渡りの短いナイフ。
威力だけ盛った改造エアガン。
どれも裏稼業に身を置いてきた彼らが“最低限の身を守るために”携えてきた武器だ。
それらすべての照準が、ひとりの人間——いや、かつてそうだったもの——に向けられる。
しかし、真田の余裕の笑みは微動だにしなかった。
むしろ、退屈そうにさえ見える。
「十秒やるよ」
軽い調子で真田は言う。
「好きにやってみろ?」
「……はぁ? 正気かよ。
…………まぁいいや」
西山が口角を歪めた。
「裏稼業から足洗う前に……お前の首、土産に貰ってくぜ!」
号令より早く、手下のひとりがナイフを構えて飛びかかった。
——ガキンッ!
金床のような硬質音が室内に響いた瞬間、
ナイフの刃は根元から折れ、銀の破片が宙を散った。
「……は?」
刺さったはずだ。確かに命中した。
だが、刃は肌に触れた瞬間——砕けた。
真田は薄着だ。
服の下に何か硬いものを仕込んでいるわけでもない。
むしろ露出した皮膚には汗が光り、どう見てもただの人間の体表にしか見えなかった。
なのに。
そこには、どんな刃も届かない“何か”があった。飛びかかった男の腕は、鋼鉄の壁に叩きつけられたように痺れていた。
一同は反射的に後退りし、壁際まで追い詰められるように距離を取る。
だが、西山が震える声で叫んだ。
「ビビんなッ! 全部ぶち込めェッ!」
その号令にしがみつくように、手下たちは一斉に武器を構えた。
スタンガンの火花が散り、改造エアガンのBB弾が雨のように飛び、
ナイフが何度も、何度も、何度も突き立てられる。
——だが。
その数秒間、真田は宣言通り"無抵抗のまま"立ち続けた。
服はボロ布のように裂け、素肌が露わになる。
だが、その肌には傷ひとつつかない。
たとえスタンガンが皮膚に触れようとも、
電流はまるで別の方向に流れていくかのように無力化され、
銃弾は、紙に当たったように止まり、音もなく地面にコロリと落ちた。
真田の表情はただひとつ。
——退屈そうな笑み。
何も感じていない者の、虚ろで、しかし底の見えない笑み。
一歩たりとも動かず。
まるでそこにあるのは“標的”ではなく、
人がつくりあげた武器の限界を静かに見下ろす、
別の生き物だった。
「ふぅ……」
長く伸びた欠伸のような吐息が、血の匂いを帯びた空気に溶けた。
まるで、面倒な作業をようやく始めるかのように——真田が足を一歩、前へと踏み出す。
その瞬間、室内の照明がわずかに瞬き、温度計の目盛りが壊れたかのようにひやりと下がった。
ただ歩いただけ。
しかし、そこにいた全員が悟った。
“いま動いたのは、人間ではない何かだ”と。
真田は笑った。
「……んじゃ、始めっか」
軽い。
あまりにも軽い声音で、まるで近くのコンビニへ買い出しにでも行くかのように。
そして宣告する。
「お礼参り、開始っと!」
——次の瞬間。
事務所は、音の洪水に沈んだ。
物が落ち、砕け散る乾いた音。
骨が折れ、関節が軋む嫌な高音を伴って捻じ曲がる湿った音。
肉が叩きつけられ、裂け、千切れる鈍い衝撃音。
そして床を伝い、滴り続ける血の音が、静かに、しかし確実に積み重なっていく。
ひとつひとつの音は、耳を塞いだところで逃れられない。
なぜならこの地獄は、振動として床から、壁から、空気そのものから伝わってくるからだ。
真田は笑いながら、一人、また一人と命を指で摘むように奪っていく。
恐怖に逃げ惑う者を、悲鳴を上げる者を、罵倒する者を——みな等しく。
抵抗は意味をなさない。
武器も無力。
悲鳴も届かない。
ただ、死だけが公平に降り注いだ。
そして最後に残ったのは——西山ただ一人。
壊れた家具と倒れた仲間たちの間で、膝を震わせながら立ち尽くす。
生き残ったというより、たまたま順番が最後だっただけの雑な“延命”。
「……っ」
喉は粘つき、声どころか呼吸すらも震えでうまく吸えない。西山の焦点の合わない目は、真田の足元に転がる、かつての仲間の顔を捉えていた。
*****
西山は、ただ立ち尽くしていた。
足は震え、呼吸は浅く、脳はまともに働かない。
床には仲間たちの血が幾何学的に広がり、鉄と汚泥の匂いが鼻腔に刺さる。
その中心で、真田だけがまるで舞台の幕開けを待つ役者のような顔をしていた。
「……西山」
返事はない。
自分が呼ばれた事実を、恐怖のあまり理解すらできていない。
「おい、西山ァッ!」
凄まじい声音に、反射的に身体が跳ねた。
西山は目を見開き、喉の奥で引き攣れた声を搾り出す。
「はっ……は、はひっ!」
うまく言葉にならない。
しかし“ついに自分の番が来た”という理解だけは、残酷なほど鮮明だった。
真田は、西山の絶望を楽しむように、軽く笑う。
「俺さぁ、殴る蹴るにちょっと飽きたんだわ。だから……止めるよ」
「へっ!? ま、マジ……?」
一瞬、西山の顔に希望が灯った。
助かるかもしれない——そんな淡い想像が脳裏をかすめる。
だが、真田はすぐに鼻で笑った。
「なーに喜んでんだ? お前に恨みがある奴を“連れてきた”だけだよ。
そいつらに代わりを任せるだけで、見逃す気はねぇから」
周囲には誰もいない。
しかし、空気の温度が変わった。
圧迫感のある“何か”が、確かにそこにいる。
次の瞬間——背後のどこか、しかし耳元と錯覚するほど近くで小さな声が響いた。
『金を返せ』
『うちの子をどこにやった』
『よくも俺の彼女を売ったな。殺す』
西山の背筋を冷たい汗が流れ落ちた。これらはすべて、金のために奪い、売り払い、壊してきた人生の断片。
その一つひとつが、いま声になり、目の前の空気に姿を結んでいく。
「ひぃっ!」
恐怖の叫びに呼応するように、室内の影が歪み、人影となってせり上がってきた。
それらは——過去に西山が踏み躙った者たちの怨念。
恨みと悲しみを抱えたまま形を取った、生き霊の群れ。
無数の瞳が、西山だけを見ていた。
そして、襲いかかった。
それから数十分——狭い事務所には、西山の叫び以外、何も響かなかった。
それは悲鳴の形をとった懺悔であり、
許しを乞う声であり、
しかし決して届かない叫びだった。
やがて声が途切れ——静寂が、血の匂いと共に戻ってきた頃、西山はもう動かなくなっていた。
だが罰は終わらない。
死んだ西山たちの魂は、生き霊たちに囚われたまま、誰にも見つからない暗い場所で、永劫に続く復讐の儀へと引きずり込まれていく。
*****
やがて、お礼参りが終わり、事務所に沈黙が落ち着いた頃。
真田は、あくび混じりに身体を伸ばした。
「ふあ〜……スッキリした」
足元には血の海。
壁には無数の痕跡。
床には、もう“物”としてしか扱えない遺体が散乱している。
だが真田の顔にあるのは、満足げで、どこか爽やかな笑み。
「次行く前に、飯でも食うか〜」
のんびりとした独り言と共に、彼は軽い足取りで雑居ビルを後にした。
先程までの凄惨な殺戮など——
人間であることをやめた彼にとっては、ほんの“腹ごなし”程度の行為でしかないのだから。




