61話 旅立つ時
柊夜と霧子は、神城調査室の一室で旅支度を整えていた。
机の上には薄い金属製のブリーフケースや、数本の御札、そして特殊な計測機器が並べられ、窓から射し込む午前の光が、それらを淡く照らしている。しかし、その光もやがて傾き、彼らの旅立ちは刻一刻と迫っている。来たるべき最終局面に向けて、空気は静かに、しかし確実に動き始めていた。
目指すは──真昼の魂が囚われ続けている事件現場。
そして、柊夜の故郷である 鳥取県・風切市。
霧子は書類を片付けながら、落ち着いた声で告げる。
「事件現場に立ち入るための申請も終えた。柊夜くんが大丈夫なら、すぐにでも出られる」
「ありがとう。実家に、霧子さんが来るって伝えておいたよ」
霧子は小さく頷き、柔らかな微笑を浮かべた。
「では、改めてお邪魔させていただくとしよう」
柊夜の視線は、棚の上に置かれた小さなガラスケースに吸い寄せられていた。
中にあるのは、姉・真昼の指。彼女をこの世に縛りつけ続けた“未練”が、形を保ったまま残った欠片だ。
それは、一見するとただの皮膚のように乾いていたが、そこから発せられる霊的な重みは、未だに柊夜を打ちのめしそうだった。
旅立ちの気配に揺らぐように、ケース越しのガラスがかすかに光を反射する。
「この指って……警察に届けなくていいのかな?」
霧子は、柊夜の不安を察したようにそばへ歩み寄る。
「通常なら、遺体の一部を所持しているだけでも“証拠隠滅”として処罰の対象になる。だから、手を打っておいた」
「手……?」
「今は朝比奈 真昼、及び観衆の呪詛に関する事件の指揮権は組織が握っている。
故に、現状その指は君が持っていても問題はない」
霧子はそう言って、安心させるように微笑んだ。
「指も──一緒に弔おう」
その穏やかな言葉が胸の奥に染み込み、柊夜の胸の奥に、温かい光が灯った。
張り詰めた心が、静かにほぐれていく。
「……うん」
柊夜はガラスケースをそっと手に取り、強くも優しい決意を宿した瞳で頷いた。
──ピロロロロン!
ふいに、霧子のスマホが震えた。静かな調査室に響く無機質な電子音が、妙に冷たく感じられる。
表示された名前を見た瞬間、霧子の表情がわずかに動く。
不動——。
(なぜ、このタイミングで。何かあったのか)
一瞬の逡巡の後、スライドして受話の態勢に入る。 受け取った直後、耳に飛び込んできた声は、いつもの豪胆さの欠片もなかった。
『……嬢ちゃん……いま、事務所か……?』
途切れ途切れの息。声の芯が砕けている。
霧子は思わず姿勢を正した。
「不動さん、その声……どうした? 何があった!」
焦りが滲むより早く、胸の奥が冷たくなる。
霧子の知るこの男は、こんな声音を出すはずがない。まるで、血の気ごと奪われたような弱々しさだった。
『やられた……。完膚なきまでに……』
「……相楽か? まさか、まだ力を隠して……」
否定の言葉が、鈍い重さで返ってくる。
『違う……俺をやったのは……真田だ……』
「——真田!?」
霧子の声が震えたのは、自分でも気づくほど唐突だった。
理解が追いつかない。
あの男は、霊的な素養すらない、ただの人間。
霧子は無意識のうちに、耳に当てたスマホを強く握りしめた。
だが、不動が嘘をつく理由もない。何より、その声がすべてを物語っている。
しばし沈黙ののち、不動は喉を押し潰すような声で続けた。
『……真田 誠。あの悪ガキは……もう、人間じゃねぇ。身も、心も、魂すら……怪異になっちまってる……』
霧子の背筋に、じわりと冷たいものが這い上がった。
何かが、決定的に越えてはいけない線を踏み越えた——
そんな予感だけが、確かにそこにあった。
『……あいつはな。相楽のジジイが持ってた呪物——“鬼ノ背ノ雫”を手にしていやがった。
しかも中にいた怨霊、鬼ノ背神と……混じり合ったんだよ。
人間でも、怨霊でもねぇ。見た目は変わらねぇがその中身は、まったく別の存在に“生まれ変わり”やがった。近づいただけで、魂を凍らせるような悍ましい霊気を纏ってやがる」
霧子は息を詰まらせた。
「……生きながらに別の生物に変異した……普通の人間が? 常識破りだ」
『嬢ちゃんは、あんなクズでも殺したくねぇと思うかもしれねぇ。
だがな、あいつはもう完全に“討伐対象”だ。見かけても——情をかけるんじゃねぇぞ』
霧子は短く黙した。
たしかに真田はどうしようもない。
それでも、あの日……彼の中の悪意が爆発する前に、もっと向き合えていたなら—— そんな一筋の悔いが、ふと胸の奥をよぎった。
しかし、不動の声はその迷いすら遮るように重く続く。
『真田は“お礼参り”だとよ……笑いながら俺に襲いかかってきやがった。
これからは、恨みのある奴らを片っ端から潰して回る筈だ。
嬢ちゃんも、一度奴をぶちのめしただろう? 狙われてもおかしくねぇ』
ごくり、と喉を鳴らす音がスマホ越しでも伝わる。 普段、恐怖を微塵も見せない不動が——声だけではない、かすかな震えをまとっていた。
『神城調査室から離れろ。今の奴に会ったら、確実に死ぬ。
俺だって命からがら逃げ切ったんだ……嬢ちゃん一人ならともかく、
あんちゃんを守りながらじゃ絶対に無理だ』
その声だけで、真田がどれほどの怪異へ堕ちたかがわかる。
霧子の背筋を冷たい汗が伝った。
しかし——霧子の返答は揺らがなかった。
「丁度いい。不動さん。私たちはこれから鳥取県・風切市へ向かう」
『風切市……? 朝比奈 真昼が死んだ——』
「あぁ。おそらく真昼さんは、まだあの地に囚われている筈なんだ。
真昼さんの残したわずかな手がかりが、あの土地へと私たちを導いている。
故にこれより柊夜くんと出発する」
不動は短い沈黙のあと、低く、しかし確かな響きで告げた。
『……これからが正念場だな。
真田 誠の件は、組織のほうで何とか対処するよう動かしておいた。
嬢ちゃんは嬢ちゃんの仕事に専念しろ』
霧子はほんの少しだけ目を伏せ、静かに礼を述べた。
「……ありがとう」
『気にすんな。
不甲斐ねぇ師匠だが……これくらいはやらせろや』
その言葉は、疲れた声の奥に、確かな支えとなる温もりを宿していた。
通話が切れると同時に、調査室の空気がまた静寂に戻る。
ただ、一度踏み出した足はもう止まらない。
霧子は振り返り、柊夜の方へ歩み出した。
「すまない、電話が長引いてしまった」
霧子は小さく息を整えると、張りつめた気配をすっと引き、普段の凛とした表情に戻った。
「さて——こちらの準備は万端だ。すぐにでも向かおうか」
柊夜は肩から掛けたバッグを握り直し、霧子に真正面から向き合う。
「俺の方も、全部準備できてるよ。
覚悟は……もう決まってる。姉ちゃんを想う気持ちも変わらない。
いや——前よりずっと、強くなった」
言葉に合わせるかのように、柊夜の拳がぎゅっと固く結ばれる。
迷いのない瞳が事務所の扉へ向けられ、その手は震えず、力強く未来へ押し開いた。
霧子はその背に静かに歩み寄ると、どこか誇らしげな眼差しを向けた。
「十分すぎる。……初めて会ったときにも言ったが、その気持ちさえあれば、君は絶対に大丈夫だ。
あとは——私に任せてくれ」
その声には、不動から託された覚悟と、柊夜を支える者としての決意が宿っていた。
霧子は事務所の鍵を最後に確認し、カチリ、と施錠される音が室内に響く。
ブリーフケースをしっかりと手に取り、柊夜の隣へと歩み出た。
二人は裏手の駐車場へ向かい、黒いセダン——調査室の業務に使っている車に乗り込んだ。
運転席に座った霧子が、ハンドルを静かに握る。助手席の柊夜は、後部座席に置いた荷物へ一度視線を送り、前を向いた。
東京の雑踏が背後へ遠ざかっていくような錯覚を覚える。エンジン音は静かだが、車内には確かな緊張が満ちていた。
二人がこれから向かうのは、すべてが始まり、そして終わりを迎える場所——
鳥取県・風切市。
悲劇の地であり、真昼の魂が救いを待つ場所。
西の空へと伸びる高速道路へ向け、二人はためらいなく車を走らせた。




