59話 躊躇なき犠牲
この廃墟の一角には、かつて宿泊施設だった部分が簡易的に改装され、最低限の生活機能だけを取り戻していた。その一室で、瀬戸はベッドに寝転がり、深夜番組を眺めながら気の抜けた夜更かしを過ごしていた。
「はぁ……暇だな。タバコ吸いてぇな……」
ズボンのポケットを探り、箱を引きずり出す。軽い。嫌な予感のまま揺らすと、箱はからん、と空虚な音を立てただけだった。
「……なんも入ってねぇじゃねぇか」
苛立ちをぶつけるように床へ叩きつけ、室内を見渡す。もちろんタバコなんて置いていない。焦燥がじわりと胸を満たしていく。
(はぁ……こっそり抜けて買いに行くか。この辺ってコンビニあんのかな……)
ぶつぶつと心の中で文句を言いながら、ベッドの脇に置いたカバンへ手を伸ばす。その瞬間──指先に“生き物の体温”のような、妙に湿った何かが手に触れた。
「……ん?」
ぞわり、と背中を何かが走り、瀬戸は反射的に手を引っ込めた。喉を鳴らしながら恐る恐るカバンの蓋をゆっくりと閉じた。
「き、気のせい……気のせいだろ……。夏の……暑さで……熱、こもってただけ……」
言い聞かせるほど声は震え、足元はわずかに震えていた。
なのに、室温は妙に冷たい。
「寒っ……エアコン何度だよ、畜生……」
悪態をつきながら立ち上がったその時だった。
──ガサ……ゴソ……。
静まり返った部屋に、布がこすれるような小さな音が落ちた。
「……え?」
耳が勝手に音の方向を探る。
ガサ……ガサゴソ……。
「カバン……の方……?」
瀬戸は人形のようにぎこちない動きでしゃがみ込み、カバンへおずおずと耳を寄せた。
ガサ……ガサゴソ……ガサガサガサガサ──!!
「っ痛ッ!?」
カバンの内側から、何かが突き上げるようにぶつかってきた。布越しでも分かる。これは、虫などという生易しいものではない。
「……は、はは。いや虫……虫だ……。だよな……?」
青ざめた顔に無理やり貼り付けた笑みは、壊れた仮面のようにひきつっていた。それでも震える拳を振り上げ、勢いのままカバンへ叩きつける。
──ビチャッ!!
濡れたものを殴り潰したような、ありえない音が静寂に弾けた。
「なんだよ……なんなんだよ……」
瀬戸は震える声で呟いた。
カバンの中の音はぴたりと止まり、部屋には再び深夜の静寂が落ちる。
だが──殴ったときの“ぐしゃり”とした手応えだけは、指先に生々しくこびり付いていた。
その直後。
「う、うわぁぁぁぁ!」
瀬戸は悲鳴を上げ、尻もちをつく。
カバンの底から、赤黒い液体がじわりと滲み出していたのだ。床板を伝って細く広がるその色は、どう見ても血だった。
ガサ……ゴソ……ビチャ……。
再び、袋の中で何かが動く音が始まる。
さっきより湿っている。
──潰れかけの肉片が擦れるような、あまりにも不快な音が混じっていた。
ガサ……ビチッ……ガサガサ……ビチャ……。
瀬戸の喉がひくつく。
「ダメだ……相楽さん……相楽さん呼んで来ねぇと……!」
逃げ出すように背を向け、部屋から出ようとしたその瞬間──
──ビチャッ。
床に何か“柔らかいもの”が落ちる音がした。
瀬戸は泣き出しそうな顔で怒鳴り散らす。
「なんだよッ……なんなんだよ!!」
叫びながら振り返った──途端。
ドサッ。
瀬戸は地面に崩れ落ちた。腰が抜け、まともに立てない。
そこにいたのは──常識の形から逸脱した“獣”。
赤黒い皮膚の下から繊維のような肉が露出し、ところどころ骨がのぞく。形はかろうじてネズミに似ているが、顔だけは人面と呼べるほど不気味に歪み、血に濡れた口元を吊り上げて瀬戸を見ていた。
──笑っている。
「ギャァァァァァアア!!」
喉が裂けるほどの絶叫。
瀬戸は逃げ出すようにドアへ駆け、廊下に飛び出した。
「真田ァッ!! 真田起きてんだろ、ヤベェんだよ! ちょっと来てくれ!!」
隣の部屋の扉を拳で叩き続ける。
中から怒鳴り声が返ってきた。
「うっせぇぞ!! 何時だと思ってんだコラァ!!」
「化け物だ! 化け物が出たんだよ! 逃げるぞ! 相楽さんンとこ行くぞ!!」
必死の瀬戸は相手の反応など気にも留めず、ただ叫ぶ。
ガチャ。
扉が開いた──次の瞬間。
ガンッ!!
廊下に乾いた殴打音が響き、瀬戸の身体が横に跳ねた。
「いってぇ!? なにすんだよ!」
真田は不機嫌そうに片眉を吊り上げ、頭をポリポリ掻いている。
「テメェがうるせぇから悪ぃんだろうが」
彼の態度は極端なほど落ち着きすぎていて、瀬戸の恐怖と並べるとまるで別の世界にいるかのような異様な温度差があった。
瀬戸は怒り半分、恐怖半分で胸ぐらを掴む。
「チッ、人がせっかくヤバいことになってんの教えてやってんのに、なんだよその態度は! あんまり偉そうにしてっとウチから仕事やんねぇぞ!!」
真田は瀬戸を見下ろし、小さく鼻で笑った。
「それより──いいのかよ。後ろ、見てみろ」
「……あぁん?」
瀬戸は振り向く。
そこで固まった。
廊下の奥から、先ほどの赤黒い“ネズミの化け物”が──
しかも複数が。
ぞろり、ぞろりと群れを成し、床を這い、壁を這い、まるで瀬戸を追うように集まってきていた。
「ひっ──!?」
瀬戸は弾かれたように後ろへ跳ねた。
廊下の向こう、いつの間にか赤黒いネズミの群れがじわりと広がり、蠢いている。
真田は、まるで散歩中に面倒ごとを見つけた程度の調子で肩を竦めた。
「さて、どうすっかなぁ……」
「何、余裕ぶってんだよ……! 早く相楽さん呼びに行くぞ! 逃げるんだよ!」
瀬戸は声を裏返らせながら怒鳴り、踵を返して駆け出そうと──した瞬間、息を詰まらせた。
「……マジかよ。詰んでんじゃねぇかよ……!」
振り返った先にも赤黒いネズミがうごめき、壁の影から溢れ出るように滲み寄っていた。
前後を塞がれ、助けを呼ぶ術は完全に絶たれている。
膝から力が抜け、瀬戸はその場に崩れ落ちた。
喉の奥から漏れるのは、もはや言葉にならない呼吸だけ。
そのとき──。
グチュ……グチグチ……ビシ、ビシ……
複数の肉片が擦れ合うような、胃の底を撫で回す音が響いた。
赤黒いネズミたちが互いに身を寄せ合い、粘土のように結合しながら盛り上がっていく。
ぐにゃり、と人型へ。
だがその姿は皮膚が一枚もなく、筋繊維と血の膜が露出したまま。
その“人間の形だけを模した何か”が、瀬戸のほうへ首を傾けた。
「……もう、お……終わりだぁ……」
涙で濁った声を漏らす瀬戸。
しかし、そのすぐ横にいる真田は──
相変わらず、いや先ほどよりもさらに深く、口角を釣り上げていた。
「瀬戸ォ。俺はこいつに襲われたことがあるし……桐谷や松野を使って、行動パターンも観察してんだよ」
「お前……桐谷たちを“使った”って……何を? いや、それより助かる術があるって言ったよな!? 本当に何かあるんだろ、なぁ!」
瀬戸は這うように真田へ縋り付く。
恐怖で爪が震え、掴んだ布が湿るほど汗が滲み出ている。
「あぁ、助かる算段だってあるさ」
「ま、マジかよ……! じゃあ、なんとか……! なんとかしてくれよ!」
「…………」
真田はただ、にたりと笑ったまま沈黙を続けた。
瀬戸の恐怖を味わうように、言葉を出さない。
「頼むよ……助けてくれって……! おい、返事しろよ!」
「…………」
真田の無言に、瀬戸の中で何かがぷつりと切れた。
「なんとか言えよッ!」
怒りと絶望が混ざった叫びとともに、瀬戸は掴みかかった。
その瞬間、真田は軽く笑い、面倒事を片づけるみたいに言った。
「悪ぃ、ちょっと考え事してたんだ。……いいぜ? 化け物、なんとかしてやるよ」
「ったく……早くしろって……え──」
瀬戸の声が途切れた直後、轟音が廊下に跳ね返った。
ドンッ!
「こういうことだ」
耳鳴りの中、瀬戸が目を見開いた。
景色が揺れ、視界の端で床が迫る。
いや──違う。
そこにあったのは、赤黒い“人型の顔”だった。
瀬戸は真田に化け物の正面へ突き飛ばされたのだ。
赤黒い怪異が、血膜に覆われた口元をゆっくりと開く。
「瀬戸 大地……次ノ断罪ハ……オ前ニ決メタ……」
「いぎゃぁぁぁぁッ!!」
瀬戸の腹の底から絞り出された悲鳴が廊下を震わせる。
正面の化け物が、氷のような冷たさで瀬戸の腕を掴んだ。華奢に見えるのに、まるでその手は万力のようだ。暴れても、微動だにしない。
周囲のネズミたちもぞろりと身を寄せ合い、肉の塊のように融合を始める。
ぐちゅ、ぐちゅ……と、内臓を掻き混ぜるような音を響かせながら、次々に人型へと変形していく。
怪異の一体が、虚空へ手を翳した。
ピシ……ピシピシ……ッ。
空間そのものが割れていく。
壁紙が破けるのではなく、“世界”が裂けていた。
「イヤだ……イヤだイヤだ嫌だァァァァァァ!!」
瀬戸は喉を壊しながら暴れ続ける。
どれだけ暴れても超常的な存在の前には無力。
だが、奴らに捕まった者の凄惨な末路の姿を知ったら足掻かずにはいられない。
「真田ァッ! テメェ俺を売ったな! 『助かる算段はある』って言ったのは嘘だったのかッ!!」
瀬戸の怒声が廊下に弾ける。
だが真田は、片手で耳の穴をほじりながら気だるそうに瀬戸を眺めていた。
異界の入口にずりずりと引きずられながら、瀬戸は悟る。
──ああ、そういうことか。
「わかったぞ……テメェ、俺を売ったんだ! 自分だけ助かるつもりだったんだな!!」
涙と唾を撒き散らしながら叫ぶ。
今日一番の怒声だった。
真田は──薄く口角を上げ、肩の力が抜けたように言った。
「御名答♡」
その表情は、妙にすっきりしていた。
「チクショォォ!! テメェは絶対に碌な死に方しねぇ!! 泣いて苦しんで今までの全部を後悔して死ねッ!!
お前はクソだッ! あの日、朝比奈 真昼が衰弱しきって……もう隠し切れねぇってなった時、俺らは自首するって決めてたんだよ! 殺しなんて無理だ、どうせ捕まるならまだ間に合ううちに出頭するしかねぇって!
なのにテメェが“解放だけはしない”ってゴネたせいで、全部こうなったんだよッ!
あの時お前が首を縦に振ってりゃ──少なくとも、俺らの手で死なせずに済んだ!
化け物に追われることなんて、こんな地獄みたいな目に遭うことなんて、なかったんだよッ!
全部……お前のせいだ!!
お前こそ諸悪の根源だッ!! 人の皮を被った悪魔──ッ」
そこで、叫びはぷつりと途切れた。
瀬戸の身体は、赤黒い化け物たちとともに、裂けた世界の向こう側へ沈むように“消えた”。
──跡形もなく。
「必死にしゃべってんのは分かるけどよ……話、長ぇんだよ」
真田はそれをただ、ぼんやり見送っていた。
少しの感傷すらない瞳で。
静まり返った廊下に、真田の靴音だけが帰っていく。
自室のドアノブに手をかけ──
「さてと、寝るか──ん?」
ポケットの中で、かすかな声が囁いた。
『……機は熟した。我が器となるために動くのだ……』
真田の背筋が僅かに揺れ、彼はゆっくりと踵を返した。
その口元には、さっきとは違う……底の見えない笑みが浮かぶ。
「……あぁ。クソダリィけどよ、寝る前にもう一仕事とっととやってやりますか」
背伸びをひとつ。関節がぼきりと鳴る。
次の瞬間、真田はフロアの奥の闇へと歩みを消した。




