5話 暴走する憎しみ
夜のビル街。人通りもなく静まり返った裏路地に、乾いた風が吹き抜ける。
どこかで空調の低いうなりが響いていた。
その瞬間——。
ゴンッ……!
鈍く重い衝撃音がコンクリート壁に反響する。
近くのゴミ袋を漁っていた野良猫が、毛を逆立てて飛び退き、音もなく逃げていった。
ビルの上では、カラスが一羽、落ちた何かをじっと見つめている。
コツ……コツ……
足音が近づく。
この裏路地を抜け道に使う、地元の男だった。
普段は静かで、せいぜいコンビニ袋が転がっている程度の道。
だが今夜は、妙な空気が漂っていた。
「……うっ、くっさ……なんだこの臭い。
気分わりぃな、しかもカラスがうるせぇし……」
悪臭に顔をしかめながらも、男は気にせず前へ進む。
ふと、道の真ん中に何かが落ちているのに気づいた。
暗がりで輪郭は曖昧だが、やけに大きい……そして、不自然に動かない。
「なんだよ、誰だよ……
こんなとこにデカいゴミ捨てやがって……!」
苛立ち紛れに、男は足でそれを蹴る——
ガッ。
重い。
蹴ったはずのそれは、びくともしなかった。
「……は?」
男は眉をひそめ、上から覗き込む。
次の瞬間、顔が青ざめる。
「……ひっ!? ギャアァァァッ!!」
裏路地に、野太い悲鳴がこだました。
そこにあったのは、ただのゴミなどではなかった。
それは一体の遺体。
全身に走る痣と切り傷。
焼け爛れた皮膚。
無惨なまでに損壊した身体は、もはや人の形すら危うい。
奇しくも──橘の遺体と、まったく同じ状態。
偶然か? いや、必然だ。
なぜならこれは、数日前に失踪した“加害者”——桐谷 翼だったから。
*****
「現し世と幽り世の狭間より、名を失せし魂の在り処を示し給え──」
霧子は"定位の経文"を唱え、姉・真昼の霊気を探る。
数日間、微かな反応さえなかったその気配が、ついに──
ボボッ!
地図が突如として青白い火を噴き、瞬く間に焼け焦げた。
炎はすぐに収まったものの、示された一点には黒い焦げ跡と小さな穴が穿たれている。
これまでになく、強い反応──。
場所は「岩神ノ公園」。
「……これは……ただならぬ呪気。
霊気の質も、密度も、規格外……異常事態だな」
呆然としつつも、霧子はすぐにスマホを手に取り、柊夜へ連絡を取る。
「……柊夜くん、神城だ。お姉さんに、新たな動きがあった。
反応は岩神ノ公園……事務所からは少し距離があるが──」
《それなら俺の家の近くだ。LINEで住所を教えるから、アパートの前で合流しよう》
「承知した。では、君の家を目指すとしよう」
数分後、送られてきた住所とアパート名を確認し、霧子は隣室へと向かう。
「真田さん、緊急事態だ。
私はこれより、事務所を離れる。貴方はここを動かず、待機していてほしい」
「ま、まさか……柊夜くんのお姉さんが……?」
「ああ。先日の比ではない……このまま放置しようものなら確実に霊災となるだろう。
貴方には結界の中で身を潜めていてもらいたい。
こちらが対処に失敗すれば、第二、第三の犠牲が出るやもしれん」
「……わかったよ。気をつけてな」
霧子は小さなバッグに、最低限の貴重品と柄のみの武器を詰め、
夜の街へと飛び出した。
その頃──。
通話が切れると同時に、柊夜の舌打ちが静かな部屋に響いた。
「チッ……」
霧子からの連絡──何よりも待ち望んでいたはずだった。
また姉の居場所が判明した。それでも、心は重い。
むしろ、苛立ちがこみ上げていた。
「今、姉ちゃんが祓われでもしたら……あとの奴らは……誰が──断罪する?」
部屋の隅。剥き出しの電球がぶら下がる中、柊夜はベッドの縁に腰を下ろす。
頭に浮かぶのは、"加害者"の残り三人。
昨日、直接対峙した松野の記憶が蘇る。
謝罪など微塵もない。責任転嫁に自己憐憫、自分を守ることしか考えていなかった。
その醜悪さに、怒りは増すばかりだった。
「……殺したい、じゃない。もう、“殺さなきゃ”いけないんだ……」
その感情は、憎悪から義務へと変わり始めていた。
──そして今、SNSで拡散されるタグ、
#加害者を許すな
それは、柊夜の胸の奥に沈む黒い炎と完全に重なっていた。
「……あいつらは、絶対に生かしておいちゃいけない」
視線はスマホの画面を捉えたまま、拳に力がこもる。
「もし、霧子さんが……姉ちゃんを“祓う”ようなことがあれば──」
「俺が止める!」
かつて「姉を救いたい」と願った頃の心は、
もう、どこにも残っていなかった。
*****
アパートの前──。
「柊夜くん、待たせたな。すぐに向かうぞ、岩神ノ公園へ」
二人はアパート前で合流する。
霧子は肩で息をしながら、額に流れる汗をぬぐう。
「近くまで来てわかった……この距離でも霊気が肌を刺す。周囲の浮遊霊も一掃されているようだ……」
「……そう。それより早く行かないと」
柊夜の声は、冷たい。いつもの素直な声音ではない。
霧子は小さく眉をひそめるが、それ以上は問わず駆け出す。
岩神ノ公園──。
「あれだ!」
広場の中央、姉・真昼は静かに立ち尽くしていた。
以前のような怪異たちの姿はない。
だがその身体から放たれる霊気は、比べものにならないほど凄まじく──
「…………!」
真昼がこちらを向く。その瞳に宿るのは、明確な意志と敵意。
強い霊圧が空気を歪ませ、まるで公園全体が濁った水の底に沈んでいるようだ。
「南無浄斎神光王──眼前の魂に聲を届け給え……!」
霧子は対話を試み、名乗る。
「私は神城 霧子。貴方の弟、朝比奈 柊夜の依頼を受けて貴方の供養を任された。
望むものがあれば言ってほしい。可能な限り力になろう」
しかし──返答はなかった。
次の瞬間、真昼が右手を前にかざす。
「くっ……対話、失敗か!」
霧子は即座に札を取り出し、足元に叩きつける。
ドォン──!
真昼の手から放たれた衝撃波が辺りを薙ぎ払う。爆風のごとき破壊力。
霧子の結界が咄嗟に展開される。
「南無──封陣・結界符!」
半径2メートルの霊的ドームが二人を包み込むが──
パァン!
間に合わず、バリアは砕け散る。
ガンッ!!
二人は後方のフェンスに激突し、地面に叩きつけられた。
「ニクイ……憎い……忌々しい……!」
真昼は口を開く。言葉は明瞭だ。
その顔には、生者の理性ではなく、復讐に取り憑かれた悪霊の凶気が宿っていた。
「あの五人……私を弄び、踏みにじった奴ら……!
必ず断罪する。その手で、私の手で!」
瞳孔が見開かれ、叫ぶように口を開く。
「邪魔するなら──容赦は、しない!!」
「くっ……柊夜くん、立てるか!」
霧子は体を引きずりながら、隣に倒れている柊夜に手を差し伸べる。
「……姉ちゃん……」
柊夜はその手を無視し、自力で立ち上がった。
「……いいよ、姉ちゃん……最高だよ……!」
笑みを浮かべたまま、真昼の方へ歩み寄っていく。
「柊夜くん……?」
霧子が困惑の声を漏らす。
「俺、怖かったんだ。もし姉ちゃんが祓われたら……あの外道どもは誰が裁く?
姉ちゃんの無念は? 俺の憎しみは?」
柊夜の声には、感情が渦を巻いていた。
「でも違った──姉ちゃんは……強くなった。
今の姉ちゃんなら、邪魔者なんか蹴散らして、あいつらに地獄を見せてやれる!」
その姿、その言葉。
柊夜の声は、もはや呪詛と同義だった。
「柊夜……ギッ……ギギギ……キャアアァァ!」
突然、真昼が頭を抱え、悲鳴をあげる。
「シ……柊……夜……チガ……」
苦悶するような声が途切れ──
ガクン……
力なく、首が垂れる。
「姉ちゃん!? しっかりしてくれ!
今倒れたら、何も終わらない! それでいいのかよ!?」
「…………ッ」
真昼の頭がピクリと動き──ゆっくりと顔を上げる。
「復讐──完遂する……
大丈夫、柊夜……私が……いや、"俺"が……!
あいつらを──地獄へ堕とす!」
狂気に満ちた笑顔で高笑いを上げる。
「アハハハハハハッ!」
その姿に霧子は確信した。
「……そうか。わかったぞ……!」
彼女の変貌、その根源。
「柊夜くん……あれは恐らく君が……」
「──我が刀剣に宿し妖力、今こそ解放せよ!」
霧子はバッグから柄のみの武器を抜き、霊力を込める。
瞬間、黒き妖気が霧のように刃を象り、妖刀が形を現す。
「南無──災業禍祓咒!!」
真昼の手が再び振るわれ、先程よりも強い衝撃波が襲いかかる!
「──はぁッ!!」
霧子の妖刀が放つ一閃が、霊気の奔流を断ち切り、そのまま真昼の懐に飛び込んだ。
「南無──災業禍祓咒! そこか──!」
一刀──
斬ったのは、真昼の背後に蠢いていた、“何か”。
その瞬間、空間に走った断末魔のような音──。
全ては、静寂に包まれた。