58話 取り戻した魂、揺るがぬ誓い
地下は荒れ果てていた。だが、その荒れ方は"廃墟"のそれとは根本的に違う。
壁面のひび割れは乾ききらず、触れれば今にも崩れ出しそうなほど新しい。鉄骨の露出した断面は錆びておらず、生々しい銀色を宿している。床に散った破片も角が丸まっておらず、つい最近までこの場所が“現役”で使われていたことを雄弁に物語っていた。
建物が老いて崩れたのではない。
力ずくで、短時間のうちに引き裂かれた──そんな暴力の痕跡だった。
壁に空いた穴の縁には、まるで指で抉ったような不自然な凹みがある。増築されたばかりのコンクリートの層も、呪詛が通り抜けた跡だけが黒く変色している。ここまで“食い破る”には人間はおろか、普通の怪異でも不可能だ。
つい先刻、この地下施設は観衆の呪詛に蹂躙されたばかりなのだ。
「多少なりとも呪詛の分裂体が襲ってくるかもしれないと思ったが……もぬけの殻だな」
霧子は残存する霊気に注意深く意識を向けながら呟く。
地下施設に満ちるのは、濃密すぎて粘りつくほどの霊気だけで、怪異そのものの気配はどこにもない。
空気だけがまだ“怨念”を覚えているかのように重かった。
エレベーターを降りた先で道は二手に分かれており、二人は立ち止まった。
照明の多くは吹き飛び、天井から垂れ下がったコードが揺れている。しかし完全な闇ではない。非常電源だけがまだ生きているらしく、壁際に並ぶ非常灯がぽつり、ぽつりと赤い光を灯していた。
その光は“明かり”というより“警告”に近い。
血管のように脈打つわけでもないのに、空気全体がじわじわと赤黒く染まる。
影は深く、光は弱く、先の見えない分岐はまるでどちらも同じ地獄に続いているようだった。
ここまで柊夜は、欠けた魂に手を引かれるような不思議な勘に頼って進んできた。
だが地下に満ちる霊気はあまりにも濃い。呪いと怨念が幾重にも重なり合い、その“勘”は指先からすり抜けるように途切れていく。
分岐の先を見ても、どちらが正しい道なのかまるで感覚が掴めなかった。
「うわ……血の跡が……」
柊夜が指差す先で、床の白いタイルの隙間に、赤黒い筋が奥へと伸びていた。乾ききっておらず、歩けば靴底がぺたりと張りつきそうなほど生々しい。
「相楽の血だろう。分裂体に襲われながら逃げたのだろうな……」
霧子は淡々と告げるが、足跡の乱れ方が緊迫を物語っていた。
「ということは……これを辿れば、あの部屋に?」
「勘が冴えているな。君の生き霊がいる部屋に辿り着けるだろう」
その言葉に促されるように、二人は血の筋を踏まぬよう気を配りながら、施設の奥へと進み始めた。
*****
血の筋を辿った先、地下施設の最奥には、体育館ほどもある広大な空間が口を開けていた。
しかしその広さとは裏腹に“空気”は淀み切っていた。ここだけ一回り激しい別の災厄が落ちたように、壁も床も廊下以上に激しく裂け、ひび割れたコンクリートの断面からは黒ずんだ霊気が漏れ出している。
砕けた呪具、折れた術式具、焼け焦げた御札──どれも本来なら厳重に管理されていたはずの道具だ。それらが無残に散乱している様子は、観衆の呪詛と相楽の争いが“儀式”ではなく“戦場”だったと物語っていた。
この部屋だけ、まるで呪いそのものが巣を食ったような濃度だった。
「……ちょっと頭痛くなってきた」
柊夜が顔をしかめ、額を押さえる。呼吸が乱れ、ふらりと身体が傾いた。
(……残存する呪力と怨念が強すぎる。霊力の無い柊夜くんが霊気の濃さだけでここまで影響を受けるとは)
霧子は眉を寄せ、そっと彼の手を握った。
「…………!?」
柊夜は小さく息を呑み、表情から苦悶がすっと引いていく。
「手を離すな。私の霊力を君に送っている」
「……はいっ!」
柊夜は次の瞬間、ぱっと奥を向く。
広間の反対側──祭壇らしき暗がりだ。
「どうした?」
「奥から……感じる。“俺”を」
欠けていた魂の輪郭が、奥にある何かと呼応するように震え始める。その疼きが、道標のように柊夜を奥へと押し出していく。
地下に差し掛かってから途切れていた“勘”が、再び濃く、確かな形で戻ってくる。
霧子も手を繋いだまま、その引力に引かれるように歩を進めた。
「……いるな」
「やっぱり……」
祭壇の前まで辿り着くと、霧子は目を閉じ、静かに息を整えた。
そして硬質な声で読経を紡ぎ始める。
「南無浄斎神光王──眼前にいる者よ、姿を現せ!」
言霊が空気を振動させ、祭壇前の闇がじわりと揺らぐ。濃霊の靄に溶けかけていた“何か”が形を取り戻し、輪郭を描き、色を帯びて──。
そこに伏していたのは、生き霊。
“夜の執行者・エグゼ”。
漆黒のマントに覆われた身体は地に沈み、声は掠れながらもはっきりと二人を捉えた。
「……お前は白髪女……それに、柊夜くん?」
柊夜はゆっくり一歩、前へ出る。
その目は怯えでも怒りでもない。まっすぐな、強い光だった。
「迎えに来たよ。君は俺の一部だ。だから……俺の中に戻ってもらう」
言い切ったあと、柊夜は一度だけ視線を落とし、まぶたを閉じる。
胸の奥に沈んでいたドロドロの感情──憎しみ。
逃げず、否定せず、押し込めず。
あの時、自分を呑み込んだもの。そのままの形で、今度は自分が抱きしめる。
目を開けた時、表情は穏やかだった。
「……それに、まだ君と話したいことが沢山ある。
君とも──憎しみとも、ちゃんと向き合うために」
柊夜はそっと手を差し伸べた。
*****
午前一時半ごろ──。
巨大な地下施設の奥で、霧子の経文が波紋のように広がっていた。
その声に導かれるように、柊夜の胸奥で欠けていた魂の片割れ──生き霊エグゼを含む“抜け落ちた部分”が、じわりと温かい光となって戻ってくる。
ちぎれ、歪み、空白になっていた場所に、ようやく形が満ちていく。
深い穴に水が注ぎ込むような安堵が、胸の奥にひたひたと染み渡った。
霧子は経を終えると、そっと柊夜の手を握る。
その手は戦いの最中とは違い、どこか優しくて、落ち着いた温もりがあった。
「さぁ、ここを出よう。長居は禁物だ」
「うん──ん?」
歩き出そうとした柊夜の視界の端で、場の色調にそぐわない“肌色”がぽつりと浮いて見えた。
そこだけ妙に“合わない”気配が漂い、無意識に視線が吸い込まれた。
「……指? ゆ、指っ──殺人事件!?」
反射的に飛び退いた柊夜の喉が震える。
床には、切り離された指──整った爪、細く長い指先。
形や肌色からして、おそらく女性のものだ。
霧子は一瞬の迷いもなく屈み込み、その指を拾い上げる。
冷気が指から立ちのぼり、薬品のような匂いが鼻をかすめた。
(薬品の匂い……それに、この冷たさ……間違いなく“本物”だ)
柊夜は霧子の背後から、恐る恐る覗き込む。
「……姉ちゃん?」
ぽつりと漏れた声。
頬を伝って、涙がひとすじ流れ落ちた。
この瞬間、柊夜の脳裏に、相楽の不穏な言葉が焼きつくようによみがえる。
──『目的は──朝比奈 真昼の降霊だ』
霧子は柊夜の涙に気づき、静かに彼を見る。
「……どうした?」
「これ……姉ちゃんだ。姉ちゃんの指だよ……」
「何……?」
霧子は目を閉じ、指に染みついた“気”を読み取る。
その瞬間、霧子の肩がわずかに震えた。
「っ……!?」
そこにあったのは、以前会った真昼の霊と“まったく同じ”気。
間違いなく、朝比奈 真昼その人の身体の一部──。
さらに霧子の脳裏へ、相楽の語った降霊術の話が頭をよぎる。
(……何ということだ、真昼さんは死して尚──悪意に晒され続けているのか)
柊夜は強く拳を握りしめた。
震える拳に、怒りと悲しみがないまぜに宿る。
「死んでも……まだ姉ちゃんを弄ぼうとする奴がいるなんて……!」
その激しい感情に、奥歯がギリリと音を立てた。
だが次の瞬間、柊夜の瞳は悲しみを越えて、強烈な光を帯びる。
「二度と悪意に晒されないよう……絶対に供養しなきゃ!」
その声には“覚悟”があった。
もう迷わない、逃げない。
姉を守れるのは、自分しかいない──。
霧子は柊夜の決意を見つめ、静かに頷いた。




