55話 断絶の一閃
妖刀を一瞬だけ解放した反動で、霧子と不動の呼吸は荒い。だが、それを悟らせまいとするように、霧子の双眸は燃える刃そのものだった。焦げつくほど鋭い視線が、煙をまとって燻る奇滅羅を射抜く。
圧倒的に優位なはずの怪物が、その気迫に押されるように身を震わせ、焼けただれた喉で『ググゥ……』とうなりながら後ずさった。
不動が小声で囁く。
「……あれは理性がほとんどねぇ。本能だけで動いてる化け物だ。今は俺らの圧に押されてる──この調子で時間を稼ぐぞ……」
霧子は目を細め、動けずに躊躇う怪物を見据える。
「警戒しているな……。こちらの出方を探っている」
二人は息を整えながら、一歩も動かない。ただ、この廃墟には濃密すぎるほどの霊気が満ちていた。ほんの僅かな時間でも、最低限の霊力は戻ってくるはずだった。
だが、それは奇滅羅も同じ。
剥がれ飛んだ瘴気がゆらゆらと舞い戻り、再びその全身を覆い始める。
そして──霧子と不動は息を呑む。
つい先程まで炎に灼かれ、皮膚は炭化してひび割れ、もはや“顔”と呼べる輪郭すら残っていなかった上半身の人型が、瘴気のまとわりとともに音もなく再構成されていく。
黒く崩れた肉片の下からじわりと生々しい赤い肌が盛り上がり、ただの焦げた塊だった頭部に、ゆっくりと目鼻の形が戻っていく。
そして──再生を終えた瞳が、ぬるりと霧子たちを見返した。
「……嬢ちゃん。ある程度戻ったら、もう一度いくぞ」
不動が柄に触れながら告げる。
「禍祓の瞬間解放……」
霧子は喉をひとつ鳴らし、覚悟を固めるように息を吸った。
「あぁ。了解した」
彼女は禍祓をぎゅっと握り直し、刀身に宿る脈動を確かめる。
張りつめた沈黙が続く。
だが、先に動いたのは奇滅羅だった。再び瘴気に纏われた巨体がぎしりと揺れ、ついに尾が跳ね上がる。
その瞬間、霧子が経を唱えはじめた。禍祓の黒い妖気が一気に膨れ、不動も隣で柄を握り、己の霊力を流し込む。
奇滅羅の尾が振り下ろされる。
それに呼応するように、禍祓に宿った妖気が──爆ぜた。
瘴気をまとった奇滅羅の一撃と、禍祓が解き放つ妖気が真正面から激突した。
次の瞬間、衝撃が空気を裂き、ぶつかり合った霊気は煙のように霧散して四方へ吹き荒れる。
「っ……!」
二人の頬を霊風が切り裂き、床を這う粉塵が巻き上がる。
視界は白い霧に覆われ、何も見えない。
霧子は荒い息を抑え込みながら、煙の向こうに視線を凝らす。
「……やったか?」
返答はない。
不動もただ肩を上下させながら、緊張に喉を鳴らした。
やがて風が収まり、ゆっくりと煙が晴れていく──。
そして現れた光景に、二人は息を呑んだ。
奇滅羅の巨躯は、確かに深い損傷を負っていた。
上半身の人型は血で濡れ、皮膚は裂け、赤黒い血潮が滴っている。
蛇のような下半身──影でできた巨体は、ところどころ大穴が空き、形そのものが欠けていた。
だが。
倒れない。
むしろ、その歪んだ“顔”には──嘲笑すら浮かんでいた。
霧子の胸に、深い絶望が押し寄せる。
「……くっ……」
ついに膝が床に落ちる。
禍祓を支える指が震え、腕が上がらない。
不動も歯を食いしばりながら呻く。
「嘘だろ……? 今ので削りきれねぇ……のか……? ヤベェ……マジで……」
彼の額には冷や汗がにじみ、足はわずかにふらついている。
虫の息となった二人を見下ろしながら──
奇滅羅は、嬉しそうに、楽しそうに、喉の奥で笑った。
『ギシャ……ハハハハ……』
その笑声は、傷だらけの身体から出ているとは思えぬほど、底冷えする響きだった。
次の瞬間。
奇滅羅の蛇躯が、ぐにゃりと蠢き、影の肉を裂いて“長い腕”を生やした。
その腕はまるで触手のように伸び、上半身の人型をがっちりと鷲掴みにする。
そして──
乱暴に力任せで、上半身を、引き抜き始めた。
ブチッ、ブチチッ、メキョ……ッ
肉が裂け、繋がっていた影が引き千切れる。
人型の付け根からは赤黒い液体が滴り落ち、蛇躯の影がぬるりと揺れる。
奇滅羅は何のためらいもなく、痛みすら感じていないかのように引きちぎり──
ついに、上半身の人型を引き抜いた。
床に滴り落ちる血の音が、やけに大きく響いた。
霧子はその光景に戸惑いを隠せず、背筋が粟立つ。
「……今度は……何をするつもりだ……?」
奇滅羅の行動の意味も、次に放たれる呪いの方向性も読めない。
しかし──確実に“嫌な何か”が来る。
霧子の手が、震えながら禍祓を握り直した。
奇滅羅の蛇躯が引き抜いた上半身の断面から──
ドロドロと瘴気が噴き出した。
それは煙ではなく、液体でもなく──悪意そのものが形を求めて蠢く念の集合体。
渦を巻き、歪み、引き千切れた肉の縁をまさぐるように広がっていく。
やがて、瘴気は輪郭を得た。
長く、細く、しなる曲線。
そして──蛇の頭部へと収束していく。
人の顔を失った奇滅羅の首に、瘴気の蛇頭が“新たな顔”として定着した。
眼孔には空虚な闇が揺れ、舌がチロチロと湿った音を立てる。
一方、奇滅羅に掴まれたままの“人型部位”も変容を始めていた。
手の中で瘴気が渦を巻き、腰が、生々しい脚が、ねじれながら生えてくる。
断面から“下半身”が生まれ──人型は独立した新たな肉塊へと成っていった。
次の瞬間──。
「ギャァァァァァァァッ!! も"ゔい"やだッ、やだぁぁァァァ!!」
ホール全体が震え上がるほどの絶叫。
先ほどまで嘲笑していた面影は一切ない。
目は裏返り、顔は恐怖で硬直し、指先まで震えている。
そのすぐ隣で──
新たに生えた蛇の頭は、ねっとりと舌を伸ばし、人型部位の頬を舐める。
楽しそうに。
弱者を嬲り尽くす捕食者のように。
両者の反応はあまりにも真逆だった。
同じ肉から生まれたはずなのに、片方は恐怖の極致に、片方は残酷な愉悦に染まっている。
霧子は息を詰まらせた。
「……どういうことだ……?」
不動も言葉を失い、ただ蛇頭の蠢きを睨む。
その時、蛇躯は人型部位を鷲掴みのまま振りかぶると──
容赦もためらいもなく、放り投げた。
「ギャアアアアアアアアアッッ!!」
叫びが空気を裂き、宙を舞った身体は──
着地するより先に、空中で爆ぜた。
肉片が四方へ飛び散り、腕や脚が壁へ叩きつけられ、骨が砕けて転がる。
まるでホールを“呪いの供物”として飾り付けるように、四隅へ散っていく。
蛇頭はそれを見届け──にたり、と笑った。
その瞬間、散らばった肉片から、じわりと紫の靄が立ち昇った。
先ほどの青や赤の瘴気とは比べものにならない、濁った怨念の色。
それは四隅からじわじわと広がり──
逃げ道を塞ぐように霧子たちへ迫ってくる。
速度こそ遅いが、その侵食は確実で、逃げ場を削るようにホール全体を覆っていく。
もはや霧子も不動も、霊力は底を尽きかけていた。
靄を散らす術などもう残ってはいない。
不動は喉を鳴らしながら呟いた。
「バラバラになった身体から出たっつーことは……今度のやつ、触れたら……」
「瞬間に全身引き裂かれて死ぬ……か?」
霧子の短い言葉が決定打となった。
「くそっ!」
不動は地面を拳で打ちつけた。
「仇すら取れねぇ……相楽の面を一発ぶん殴ることすら、できねぇのかよ……クソがっ!」
悔しさに震える拳を握りしめ、不動は歯を食いしばる。
霧子の視界の端で、靄がホールの外──柊夜の隠れた廊下へ滲むように流れていくのが見えた。
その瞬間、霧子の脳裏に“焼け落ちる家”の映像が閃光のように蘇った。
赤い炎。割れる窓。崩れる梁。
中で倒れたままの弟──霞真。
『姉ちゃん』
笑って呼んだ、あの顔。
そしてもう一つ重なる。
『霧子さん』
優しく微笑む柊夜の顔が。
過去と現在が、脳内でぐしゃりと混線した。
「……もう失いたくない。嫌だ……死ぬな、柊夜くん……死なないで、霞真……!」
霧子の声は震え、涙に濡れたようなかすれ方をした。
その異変に、不動は息を呑んだ。
「嬢……ちゃん?」
視線の揺れに気づいた不動の声は、不安と困惑が入り混じっていた。
「絶対に……今度は絶対に守る!」
霧子は禍祓を握りしめ、刃を胸元に引き寄せた。
「南無災業禍祓咒──封ぜられし禍の力……その封印の全てを──」
禍祓の奥底で蠢く怨霊が応えるように震え、刃が黒ずんだ瘴気を滲ませる。
「やめろ! 取り返しがつかなくなる!」
不動が叫び、霧子に飛びつき腕を押さえ込む。
「邪魔するな! もうこれしかないんだ……! もう……失いたくないんだよ、霞真ぁぁぁッ!」
霧子はヒステリックな叫びをあげ、不動の腕を振り払おうともがく。
その姿を、奇滅羅は蛇の頭をくねらせながら、楽しげに眺めていた。
パンッ──!
頬を打つ乾いた音がホールに響いた。
叩いたのは、不動だった。
「しっかりしろ!」
不動は霧子の肩を強く摑み、真正面から怒鳴った。
「お前はあの時とは違う。今まで積んだ経験と得た力があれば、打破できる! まだ時間はあるんだ!」
「だが……霞真……ちが、柊夜くんは……」
霧子は震えた声で呟く。視線は靄に向いたまま、焦点が合っていない。
「それなら大丈夫だ」
不動は霧子をそっと離し、廊下──柊夜の潜む暗がりへと顔を向けた。
深く、腹の底から息を吸い込み──
「──あんちゃん! 靄は呪いだ! 絶対に触れるなぁっ!!
逃げろ、奥に逃げろッ! あんちゃんに届く前に、化け物は俺らが絶対ぶっ潰す!」
空気を震わせるほどの大声。
その響きに、霧子の瞳が小さく揺れた。
「──わかりました!」
廊下の奥から返ってきた声は、はっきりとした柊夜のものだった。
霧子は息を呑む。
“届いている”。
「どうだ? あんちゃんは大丈夫だろ?」
不動は振り返り、親指を立てて笑う。
「もうちょい一緒に足掻いてみねぇか?」
「……ははっ。取り乱してすまない」
霧子は苦笑し、額の汗をぬぐう。
「最後まで一緒に足掻こう」
霧子は深呼吸を一つする。そして光の戻った目で再び戦場を見渡した。
四方から迫る紫の靄。
バラバラになった人型──腕、脚、胴、そして頭。
そのどれもがピクピクと痙攣し、頭部は白目を剥き、押し殺した呻きを漏らしている。
対照的に、奇滅羅の蛇頭は──
舌をくねらせ、ねっとりと笑っていた。
(さて……そうは言ったものの、どうすれば──)
霧子の視線が、ふと“人型の頭”に吸い寄せられた。
蛇頭とは真逆の反応。
あの絶叫。
あの恐怖。
──違和感。
「…………そうかっ!」
霧子の瞳が一気に鋭くなる。
人型部位と奇滅羅本体。その間にある“なにもない空間”へ、鋭く視線を走らせ──
「そこだッ!」
禍祓を一閃。
空を斬ったはずの刀身には、確かな“手ごたえ”が返った。
本来なら何も存在しない場所。
だが、断ち切ることに特化した妖刀を扱う霧子には見えていた。
奇滅羅の蛇躯と人型部位──
その両者を繋ぎ、呪いとして循環させている“因果の糸”。
両者はひとつの存在ではない。
ただ、呪いの因果で束ねられているだけなのだ。
『ググゥ!?』
霧子の一閃が空気を裂いた瞬間──奇滅羅の全身がビクリと痙攣した。
呪いの“糸”が断たれたことを、本能で理解したのだろう。
蛇の頭は狂ったように左右へ振られ、何が起きたのか分からぬまま、焦燥に満ちた眼で周囲を探る。
一方、ホールに散らばっていた人型部位──
腕も、脚も、頭も、肉片も、紫の靄をふくみ震えていた“呪いの器”は、ふっと霊気に溶けるように霧散していく。
束縛が解かれ、どこかへ逃げるかのように……。
「さすが嬢ちゃんだ」
不動が鼻で笑い、靄が晴れた空間を見回す。
「相楽との因果の糸は切れなくても、分裂した怪異同士の因果は別……ってわけだ」
人型部位が全て姿を消したことで、紫の靄はまるで潮が引くように一斉に消滅していく。
霧子は肩を落とし、大きく息を吐いた。
「……何とかなった」
安堵にわずかに口角を上げ、不動へ視線を向ける。
「ありがとう。不動さん。あなたのおかげだ」
「いや、俺はきっかけを与えただけだぜ?」
不動は肩をすくめて笑う。
「こんな解決方法を思いつくのも、そもそも実行できるのも嬢ちゃんだけだ。嬢ちゃんは、自分の力で打破したんだよ。……何も出来なかったあの時とは、違うだろ?」
「そのための力も……あなたの元で身につけたんだ」
「へっ、その言葉をそこまで真正面から言われたら……素直に受け取るしかねぇな」
二人の視線が、残された本体──奇滅羅へ向く。
「後は……こいつだけだ」
霧子は禍祓を握り直した。
『グオォォォォォォッ!!』
奇滅羅が吠えた。
呪いの手札を失った怪異に残されたのは──突撃。ただそれだけ。
巨体が床を割り、一直線に二人へ迫る。
「纏っていた霊力も……随分と落ちているな」
霧子の声には、先ほどまでの焦燥はない。
「これなら、力を振り絞れば……」
「おうよ。さっきから話してた間に、一発入れるくれぇの霊力、戻ったぜ」
不動は指をペキペキと鳴らした。
不利を悟った奇滅羅は急に方向を変えホールの窓へ突撃 ──逃亡を図る。
だが、その巨躯が通れるほどの穴など、ガラス如きに開くはずもなく。
──砕け散るのは、奇滅羅の方だ。
「南無災業禍祓咒──滅ッ!」
霧子の斬撃が闇の弧を描き、奇滅羅の腹を深々と割る。
瞬間、妖刀から噴き上がる黒い刃の妖気が、内部へと食い込む。
「──砕ッ!!」
続けざまに、不動の拳が突き刺さった。
狗神の全妖力を宿した渾身の打撃。
白い霊光が奇滅羅の体内に走り、黒と白が混ざり合って連鎖的に爆ぜる。
内側から裂け──
膨張し──
霊気の衝撃がホールを満たす。
『アガァァァァァァッ!!』
断末魔が木霊した。
奇滅羅の身体は形を保てず、黒い霧となって吹き飛び、消滅する。
ドサッ──
霧子はへたり込むように膝をついた。
「……やった」
「あぁ……」
不動も隣に崩れ落ちる。
ホールは、さっきまでの死地が嘘のように静まり返っていた。
埃の落ちる音すら、はっきり聞こえるほどに。




