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赦すも処すも、生者次第 #加害者を許すな  作者: ヨウカン
第二章 尚も咎を刻む者
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54話 侵食する呪念

 不動は喉を押さえながら、必死に後退していた。

 吸い込んだ空気が一切入ってこない。喋ることもできない──無論、経文すらも唱えられない。

 青い靄は皮膚に食い込み、呼吸穴という呼吸穴を塞いでいた。


 「……ッ、ぐ……!」


 壁に背をつけて逃れようとするが、靄は不動の体の動きに合わせて伸び、吸い付くようについてくる。

 まるで腐った粘液のように離れず、呼吸を塞ぎ、喉元へじわりと圧迫を加え続ける。


 霧子はその様子を見て、低く息を呑んだ。


 「……これはまるで、奇滅羅の身体を覆っていた瘴気……」


 言葉を口にした瞬間、霧子の瞳が細く鋭くなる。

 閃くように視線を不動へ向け──駆け出した。


 「瘴気と同じなら──斬れる。

 不動さん、待っていてくれ!」


 奇滅羅が巨大な尻尾を振り上げ、霧子の進路へ叩きつけようとする。

 空気を裂き、床が砕ける。


 だが霧子は右手をひと振りし、禍祓から噴き出す黒霧が尾の打撃を迎え撃つ。

 衝突した瞬間、尾は横薙ぎに逸らされ、巨体がわずかだが重たくのけぞった。


 「──どけ」


 霧子はその隙を逃さず、不動へ飛び込んだ。

 黒刃が閃き、青い靄を一閃。


 霧子の刃が靄に触れた瞬間、靄はまるで突風に吹かれたように激しく波打つ。

 そして輪郭が一瞬で歪み、内側から弾け飛ぶように──霧散した。


 不動はその場に崩れ落ち、肺に空気を流し込むように激しく息を吸った。


 「はぁ……っ、はぁ……っ……死ぬかと思った……」


 「不動さん、大丈夫か」


 「嬢ちゃん……あんがとな……助かったぜ……」


 霧子は短く頷くだけで、すでに前方へ視線を戻していた。


 奇滅羅は、不動の回復を目にし、顔面の“人型”部分を歪めた。

 怒りとも焦りともつかない、不快そうな表情が浮かんでいる。


 「行くぞ、不動さん」


 「おうよ!」


 二人は床を蹴り、再び奇滅羅へと迫る。


 その瞬間だった。


 奇滅羅が全身を震わせ、上半身から尾の先までを包んでいた瘴気が──。

 すべて、衝撃波に変わって四方へ爆ぜた。


 「っ──!」


 爆風が床を砕き、壁を抉り、不動と霧子の身体を容赦なく吹き飛ばす。

 天井近くまで舞い上がった霧子は、壁に叩きつけられ、床に転がった。


 「……く……っ……」


 痛む身体を押さえながら、霧子はゆっくりと身を起こす。

 視界が揺れ、耳鳴りが残る。

 それでも目だけは、奇滅羅の姿を捉えた。


 ──そして、息を呑む。


 奇滅羅の上半身。

 “人”の顔と胸と腕が──炎に包まれ、青い焔をあげて燃えていた。


 立ち上る炎の中、奇滅羅の上半身──そこに浮かぶ"人の顔"は、今まさに炎に全身を焼かれた者の苦悶の表情だった。


 肌は炎に割れ、瞳孔は恐怖に開ききり、口は裂けるほどに開いていた。

 そしてそこから絞り出される叫びは、ホールの天井を震わせるほどの絶叫だった。


 『ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛アアアアアァァァッッ!!』


 火にあぶられた腕が痙攣し、胸元が焦げ落ちるたびに、新たな絶叫が漏れる。

 あれほどの怪物が、ただ焼かれるままに絶望の叫びをあげていた。


 「自ら火を……?」


 火の粉が舞い、焦げた肉の匂いがホールに満ちる。

 奇滅羅の上半身は青い焔に包まれ、なおも絶叫を上げていた。


 不動はその悲鳴に顔を歪めつつ、低く呟いた。


 「……さっき、青い靄にまとわりつかれて分かったんだ。

  ありゃ“苦痛を共有させる”呪いだ」


 霧子が一瞬だけ目を細める。


 「そんな呪いが……だから、自傷に及ぶのか?」


 不動は荒い息を整えながら、苦々しく笑った。


 「嬢ちゃんもこんな台詞を一度は聞いたことあるだろ。

  “あなたなんかに私の苦しみは分からない”ってやつ」


 「……ある。まさか──」


 「あぁ。あれはそういう感情から生まれた呪いだ。

  自分が苦しめば苦しむほど、相手に与える呪力が跳ね上がる」


 霧子の喉がかすかに鳴る。


 「焼死……最も苦しい死に方のひとつだな」


 「そういうこった……。

  こいつは、かなりやべぇことになってきた……」


 不動は額から噴き出す冷や汗を袖で乱暴に拭いながら、

 炎に包まれ狂笑する奇滅羅を見上げた。


 その時──。


 奇滅羅の上半身から、ドロリと赤黒い靄が噴き出した。


 「来るぞッ! 霧子、絶対に触るな!

  今度のは当たれば——確実に致命傷だ!」


 不動は迷わず後退しつつ、靄の広がりを見極めようと身構える。

 だが霧子は一歩も引かなかった。


 「分かっている」


 禍祓を握りしめ、煙を切り裂くように前へ躍り込む。

 黒刃が赤い靄へ振り下ろされる──が、完全には断ち切れない。


 靄は刃に触れた瞬間、獣のような悲鳴をあげ、

 逆に刀身を飲み込もうと纏わりつく。


 「──不味い!」


 瞬間的に霊力を刀身に集中させ纏わりつく靄を吹き飛ばし、後ろに飛び退く。


 「……ッ、この濃度……先ほどとは違う」


 赤い靄はさらに膨れあがり、まるで炎にあぶられた魂の悲鳴そのもののように、空間を震わせて広がっていく。


 やがて──。


 その靄は意思を持つかのように渦を巻き、

 霧子と不動の両方を包み込もうとしてきた。


 真っ赤な靄の海に、影のように浮かぶ奇滅羅が、焼けただれた人面をひきつらせて笑っている。


 皮膚が溶け、歯がむき出しになりながらも、その笑みは“人”の嘲笑そのものだった。

 ──まるで、誰かの苦しみをそのまま誇示し、押しつけているかのように。


 赤い靄が押し寄せ、霧子と不動の逃げ場を完全に塞ぐ。

 霧子は息を鋭く吸い、禍祓を下げて代わりに掌を真正面に構えた。


 「南無浄斎神光王──霊撃・烈衝波ッ!」


 掌から放たれた衝撃波が白い閃光となって靄へ叩きつけられる──。


 だが、靄は揺れただけで、まるで質量そのものが存在しないかのように受け流した。


 斬れない。

 衝撃も通じない。


 靄はなおも迫り、いよいよ霧子たちの身体に触れる寸前──。


 「しゃらくせぇッ!」


 不動が拳を床に叩きつけ、コンクリートを丸ごと引っぺがす。

 砕けた床板を縦に立て、自身と霧子の前に盾のように突き立てた。

 赤い靄が表面に触れた瞬間、石がジュウッと焦げる音が響く。


 「嬢ちゃん、禍祓であれを少しは斬れたか?」


 「……あぁ。だが本当に少しだけだ。効果は薄かった」


 「なら──出力さえありゃ、なんとかなるってわけだ」


 不動の声が獣じみた低さで響く。

 次の瞬間、彼の大きくがっしりした手が霧子の禍祓へそっと伸びた。


 「不動さん……? 何を──」


 「この刀、もう一段階封印を解くぞ。

それしか手がねぇ」


 霧子の瞳が揺れ、汗が一筋、頬を伝う。


 「だが……これ以上は……。いや、やるしか……ないか……」


 決意がつききれず、柄を握る手が震える。

 不動はそんな霧子の手を、一回り大きな手で乱暴だが温かく包み込むように握った。


 「嬢ちゃんにだけ負担はさせねぇ。

 俺の霊力と、ホッチの妖力もくれてやる。そのために、俺も柄を握ってんだ」


 霧子は一瞬だけ驚き、すぐに静かに目を伏せた。


 「……不動さん。ありがとう」


 そして、決然と顔を上げる。


 「だが、一瞬だけだ。

 一瞬だけ解放して、爆発的な妖力で吹き飛ばす!」


 二人は同時に禍祓を構える。

 黒刃が、かすかな脈動を始めた。


 霧子の声が、呪を帯びた鋭い響きでホールに放たれる。


 「南無災業禍祓咒──

 封ぜられし禍の更なる力を……解放せよッ!」


 黒い霊気が一気に膨張し、

 霧子と不動を包む渦となって巻き上がった。

 それと同時に床の隙間から、赤い靄が蛇のように伸びてなだれ込む──。


 瞬間。


 禍祓が咆哮を上げるように黒霧を噴き出し、

 その爆発的な奔流が、侵入してきた靄を盾にした床ごとまとめて吹き飛ばした。


 赤い靄は霧散し、ホールに轟音と風だけが残る。


 ──ゴォォォォッ!!


 風が収まった時、

 奇滅羅は目を見開き、信じられないと言わんばかりに固まっていた。


 その前に──。

 霧子と不動が立っていた。

 肩は上下し、息は荒く、膝は震えている。

 顔色は青ざめ、二人とも限界に近い。

 だが──まだ折れていない。


 禍祓の黒刃は、なお微かに脈動し、奇滅羅を睨み返していた。

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