52話 人工の禁界
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2章:28話〜
二十三時──。
柊夜たちは、ついに相楽の根城・鬼怒河雲上邸の前に立っていた。
「……何これ、思ってたよりデカいんだけど」
息を呑む柊夜。その横で霧子も僅かに目を見開く。
月明かりに照らされた廃邸は、まるで山そのものが建築物になったかのような威圧感を放っていた。
だが、不動だけは口元を吊り上げていた。
「いいじゃねぇか。こういうバカでけぇ建物見ると、血が騒ぐぜ」
子供のように目を輝かせる不動に、霧子が冷ややかに視線を送る。
「今は柊夜くんの命が懸かっている。……少しは空気を読め」
深いため息の後、不動は頭を掻きながら笑った。
「悪りぃ。ちょっと待ってろよ!」
頬を両手で叩き、気合いを入れ直す。その表情には、さっきまでの軽さはもうない。
霊気の濃度が肌を刺し、空気が揺れる。
「さて──カチコミだ。……と言いたいとこだが」
気合いを入れ直した不動の横から霧子が一歩前へ出た。
「この建物、ただの廃墟ではない。中からおびただしい数の悲鳴が……囚われた霊たちの嘆きだな」
不動も頷く。
「その霊を逃がさねぇための結界が、建物全体を覆ってる。……いけるか?」
「無論だ」
霧子は妖刀・禍祓の柄に手を掛けた。
空気が一瞬で張り詰める。彼女が息を吸い込むたび、周囲の温度が下がっていくようだった。
「南無災業禍祓咒──囚われし者たちを解放するべく、封ぜられし禍の力よ! 今ここに顕現せよ──」
刀身の代わりに、柄から黒い霧が滲み出す。
霧は音を吸い込みながら形を変え、刃と化した瞬間──轟音とともに地面が震えた。
「禍祓──断ッ!!」
空を裂くような閃光。
斬撃が結界に叩きつけられた瞬間、まるで硝子が粉砕されるような高音が鳴り響く。
黒紫の光が奔流となって広がり、建物を包んでいた膜が砕け散った。
──ゴォォォォォ……!!
爆風のような霊気が吹き荒れ、夜空が一瞬だけ明るくなる。
重く淀んでいた気配が一斉に弾け、怨霊たちが悲鳴とともに窓という窓から飛び出していった。
柊夜にも、その影が肉眼で見えるほどだった。
「うわ……! 何かが飛び出してる……!」
「それだけ濃い霊気だったということだ。それにしてもすごい数の霊だ、百鬼夜行にも劣らない勢いだな」
霧子の声に、不動が頷く。
「結界がぶっ壊れりゃ、相楽の野郎も焦るだろ。今が好機だ」
不動は柊夜の持つバッグを指差した。
「"呪詛返しの衣"──布の裏側には、びっしりと呪いを跳ね返す符が貼ってある。
これを纏ったまま呪いを使えば、全部自分に跳ね返る仕組みだ」
柊夜がバッグを握りしめる。
「……つまり、これを相楽って人に被せればいいんだね?」
霧子が視線をバッグに落とし、低く言葉を継ぐ。
「ああ。あの男は長年、呪殺師として生きてきた。
自分の身体に染みついた呪詛が濃すぎて、触れるだけで蝕まれるほどだ。
その相楽を、この布で包めば……呪いがすべて自分に戻る。やつを弱らせられるはずだ」
霧子が短く頷く。
「この布こそが、打倒相楽の鍵だ。大切に持っていてくれ」
「任せて!」
緊張と決意が入り混じった柊夜の声が、夜の静寂に響いた。
そして再び建物の入り口へ──閉ざされた自動ドアの前に立つ。
「よし、準備もできた。突入するぞ!」
不動が札を取り出し、低く詠唱を始める。
「南無獣霊招魂──顕現し、我と共に力を振いたまえ──狗神!!」
バリィィィィィンッ!!!
詠唱が終わるや否や、分厚いガラスが音を立てて爆ぜた。
飛散した破片が月光を反射し、夜空に火花のように舞う。
扉の向こうには、白い霊炎を纏った狗神が立っていた。
その瞳は夜闇より深く、牙を剥きながら嬉しげに尻尾を振る。
「ワフッ!」
霊気の衝撃で入口の鉄枠が歪む。
それでも狗神は一歩も引かず、まるで主の命を待つように構えていた。
柊夜は拳を握りしめ、心の中で叫ぶ。
(いよいよ突入だ。緊張する……でも呑まれない。
せっかくエグゼと分かり合えそうなんだ。魂はもちろんエグゼも取り戻す。
そしてもう一度、エグゼと──自分の中に眠る憎しみと向き合うんだ)
そして、仲間たちと共に廃墟の闇へと足を踏み入れた。
*****
ホテルの内部は荒れ果てていた。
床には大きな穴が空き、割れた備品の残骸が散乱している。埃と枯れ葉が積もり、風が吹くたびに舞い上がっては視界を曇らせた。
もちろん灯りなどなく、頼れるのは懐中電灯の細い光だけ。
弍洞穴や奇滅羅のような使い魔の気配こそないが、崩れた床や歪んだ梁が行く手を阻み、夜間の探索はまさに命懸けだった。
入ってすぐの広いロビーの奥には、左右に伸びる廊下が見える。だが霧子にも不動にも、相楽がどちらにいるのかは分からない。妨害念波が張り巡らされ、“定位の経文”も使えないのだ。
「俺、なんとなくだけど……左に行けばいい気がする」
柊夜の提案に、霧子と不動は顔を見合わせた。
ただの勘のようでいて、彼の魂の一部が相楽のもとにあることを思えば、理屈としても通る。
柊夜自身、理由の分からない引力のようなものを感じていた。
「うわっ──!」
足元に転がっていた備品に躓き、懐中電灯が床を跳ねて転がる。柊夜が倒れかけた瞬間、霧子の手がすっと腕を掴んだ。
「……気をつけてな。危ないようなら、私が手を引こうか?」
彼女の手は冷たくも穏やかで、わずかに力がこもっていた。
柊夜は一瞬、掴まれた腕を見下ろし──視線を逸らした。
「いや、大丈夫……」
短く答え、彼女の手を離れて懐中電灯を拾い上げる。
その横顔は暗がりに沈んでよく見えなかったが、不動の灯りが一瞬だけ彼の耳を照らした。
「……なるほどな。若いっていいねぇ」
不動がニヤリと呟く。照らされた耳は、夕焼けのように赤かった。
長い廊下を進むと、正面には扉が一つ、左手にはさらに長い通路、右は行き止まりの壁。
霧子と不動が進路を相談しているあいだ、柊夜はじっとその壁を見つめていた。
「この壁……向こうに何かありそうな気がするんだけど」
顎に手を当てて呟く柊夜を見て、不動が耳を澄ませる。
「お? 二人とも、ちょっと黙ってろ」
霊感に優れた狗神使いの耳には、微かな低音が届いていた。
冷蔵庫のような、規則的な機械音。
この廃墟には電気が通っていないはず──それだけに、不動は確信を深めた。
「……何か鳴ってやがるな。機械の音だ」
霧子が懐中電灯を向けると、壁の色が他の部分よりもわずかに明るい。
「よく見ると……塗装が新しいな」
「決まりだな。ホッチ!」
不動が狗神を呼び出す。
「ちょっと先を見てきてくれ」
狗神は低く吠え、壁へと溶け込むように姿を消した。
数秒の沈黙。やがて、壁の向こうから短く吠える声が響く。
「ビンゴだな。ホッチ、内側に鍵みたいなのあるか?」
「ワンッ!」
ズズズズズ──。
低い振動音と共に壁が上方へと開いた。
そこには、先ほどまでの廃墟とは別世界のような廊下が現れた。
磨かれた床にほこり一つなく、壁面は均一な白で塗られ、等間隔に設置された照明が淡く点灯している。
だがその光はどこか人工的で、冷たく神経に障る。
まるで人の手で作られた“異界”だった。
「部分的に改築されているというのか?」
霧子が眉をひそめる。
「だろうな。いくら広くても、ボロのままじゃ使いもんにならねぇし」
二人が慎重に周囲を観察する中、柊夜は小さく息を呑んだ。
(……なんか、悪い奴のアジトって感じだ。映画みたいだ……)
幼い憧れにも似た高揚を胸に、彼は思わず足を止めて見入ってしまう。
「あんちゃん、何突っ立ってんだ? 行くぞ」
「あっ、すみません! ボーっとしてました……」
慌てて二人に追いつきながら、柊夜はふと胸の奥に残る熱を誤魔化すようにうつむいた。
その頬はまだ、うっすらと赤かった。
*****
進んだ先は、まるで研究施設だった。
分厚いファイルがぎっしり詰まった棚。無機質に並ぶモニターや計器。
机の上には、用途の分からぬ金属器具が散らばっている。
部屋の隅の水槽では、何かが泡立ちながらゆっくりと浮遊していた。
「電気が通ってるってことは──押せば点くってことだな。ポチッとな!」
不動が壁のスイッチを押した瞬間、部屋中が一斉に白光に包まれた。
「うわっ!?」
「くっ、眩し……っ!」
暗闇に慣れた目には、あまりに鋭い光だった。三人は思わず目を伏せる。
「ふぅ……眩しかったぜ──なっ!?」
一番早く目が慣れた不動が、凍りついた。
次の瞬間、彼は息を呑んで叫んだ。
「嬢ちゃん、あんちゃんの目を隠せッ!」
その声の焦りが尋常でないことを悟り、霧子は即座に動いた。
柊夜が何か言いかけるより早く、霧子の手が彼の頭を包み込む。
「……えっ、霧子さん!? 何? 何が──」
「いいから。今は見るな、頼む!」
強い声音。だが、その声の奥には震えが混じっていた。
柊夜は何も分からぬまま、霧子の掌から伝わる微かな体温を感じ取る。
彼女の指先はかすかに冷たく、けれど必死に震えていた。
その異様な気配に、柊夜は言葉を呑み込み、静かに身を止める。
「……なんてことだ……」
霧子の呟きは、悲鳴よりも重かった。
水槽の中──そこにあったのは、人だった。
ホルマリンの中で泡立ちながら、無数の傷と欠損をさらした死体。
歪んだ苦悶の表情は、なおも「助けて」と叫んでいるかのようだった。
「相楽は……苦痛の果てに死した魂に価値を見出していたが、まさかこれほどとは……」
相楽の悪事についてある程度把握していた不動には、目の前の遺体がどんな最期を遂げたのか、すぐに察しがついた。
だが──その損傷の激しさは、"例の事件”を思い出させるにはあまりに生々しい。
姉を嬲り殺された柊夜に、これを見せるわけにはいかない。
不動は迷うことなく壁のスイッチに手を伸ばし、照明を落とした。
再び薄闇が戻る。
霧子はようやく手を離し、柊夜の目に光が戻る。
しかし、柊夜の胸には彼女の手の温度と、沈黙の余韻が深く残った。
部屋に薄暗さが戻る。
三人はこれ以上、中を見渡すことなく足を進めた。
その先には、上へと続く階段。そして扉と、その横に小さなボタンが設けられていた。
不動がボタンを押すと、金属が軋むような音を立てて扉が上方に開く。
開いた先は、コンクリートの壁が崩れ、骨組みだけが残った廃墟の一角だった。
「……どうなってんだ、ここは」
不動が低く唸る。
再び朽ち果てた廊下を歩いた先にはまた隠し扉──開けば、再びあの人工めいた施設の内部に繋がっている。
まるで夢と現の境界を何度も跨ぐように、三人は行き来を繰り返した。
足元は割れたタイルと鉄骨が入り混じり、ひとたび足を滑らせれば奈落に落ちかねない。
それでも進まなければならなかった。
"人工の異界"では、実験室のような部屋に器具や資料が散乱し、壁に貼られた紙片や液体の跡が、不気味なまでに生々しい。
それが何を意味するのか──霧子も不動も、照明を点けずとも察していた。
(……柊夜くんには、見せられん)
二人は互いに視線を交わし、彼の前を歩く。
柊夜の目に、この惨状の欠片も映らないように。
探索を始めて一時間ほどが過ぎたころ──。
最後に見つけた一本の梯子を登ると、視界が一気に開けた。
そこは、ホテルのパーティ会場が丸ごと入ってしまいそうなほどの、だだっ広いホールだった。
巨大なガラス窓が月を映し、海を一望できる。
「なんだ、ここは……」
柊夜は息を呑む。
霧子が天井を仰ぎながら呟いた。
「……ここも改築されているが、他とは違うな」
「だな。やけに広い」
その時、静寂を破って声が響いた。
「どうだね? ここは三階から五階の壁と天井を取り払って作った“瞑想ホール”なのだよ。
外から見える景色が集中力を高めてくれる。瞑想にはもってこいなんだ」
声の主は、上方の足場に立つ老人。
烏帽子を被り、黒い和装を纏ったその姿は、年老いてなお背筋が異様に真っ直ぐだった。
灯りもないのに、その輪郭だけがぼんやりと光を帯びて見える。
──相楽 常道。
彼の瞳は静かすぎて、底が見えない。
「相楽の野郎、ここで会ったが百年目。今日こそは仲間の無念を晴らしてやる」
不動が睨みつける。
「焦るんじゃない、若いの。儂はこれから忙しいんだ。
君たちのような事前にアポを取らない失礼な来客に、余計な力を使うわけにはいかんのだよ」
「じゃあどうすんだ? 大人しく捕まるってんなら力を使わなくていいぜ?」
相楽の唇が、笑いの形に歪む。
「馬鹿を言うんじゃない。それに“代理”をちゃんと用意してある」
彼が一枚の札を投げ、低く読経を始めた。
声は穏やかなのに、床が震える。空気がねじれる。
「怨呪狂宴大災禍、蝕濁狂命陰神薩婆訶──」
最後の一節を響かせると同時に、札が黒煙を上げ、
煙は球体へと膨張し、やがて弾けた。
現れたのは、奇滅羅。
かつてよりも巨大で、上半身は人のものに変じていた。
発せられる妖気は街で暴れた個体の比ではない。
「やっぱり奇滅羅か……。嬢ちゃん、やれるか?」
不動が問う。しかし霧子の表情は険しい。
「あれは斬れない。あれの因果の糸は、鎖のように相楽と結びついている」
上からその言葉を聞いた相楽が、愉悦の笑みを浮かべた。
「ふっ……はっはっはっは!
当然だ。長年かけて“選別した魂”の集合体、儂の人生をかけて生み出した最高傑作だ。
想いの強さに反応する妖刀であろうと、到底斬れまい」
そして、愉快そうに一礼してみせた。
「ごゆるりと楽しみなさい。儂もこれからやらなきゃならないことがあるんでね……」
軽やかに身を翻し、相楽はホールの奥へと消えた。
『グオォォォォッ!!』
奇滅羅が、月光を背に大口を開けた。
低く、地の底から響くような咆哮がホールを震わせ、砕け散った窓ガラスの破片が風に舞う。
そのたびに空気が揺らぎ、肌がひりつく。まるで怨嗟そのものが音になったようだった。
「嬢ちゃんの因果切断が通じなくても──」
不動は肩を回し、狗神の気を呼び覚ます。
「やるしかねぇってわけだな」
「……あぁ、どの道あれを祓わなければ先には進めん」
霧子の瞳は淡く光を帯び、禍祓の黒い霧は月光すら飲み込む。
風が二人の髪を揺らし、奇滅羅の殺気とぶつかり合うように空気が張り詰めた。
柊夜は二人の背中を見つめながら、無意識に息を呑む。
怖かった。けれど──その背中が、頼もしくて仕方なかった。
やがて、奇滅羅の尾が地を叩きつける音を合図に、三人の運命は交錯する。




