4話 無音の慟哭
「……ありえない」
静まり返った事務所に、霧子の低く絞り出すような声が落ちた。
数分前、“定位の経文”を使い、柊夜の姉──真昼の霊を探していた。
前回強く反応があった廃工場。まずはそこを確認したが、反応はゼロ。
念のため、都内全域、さらには日本地図、世界地図にまで術を拡張した。
だが、どこにも霊気の痕跡は現れない。
この世の、どこにも。
霧子は唇を噛みながら思考を巡らせる。
「まさか……成仏した? ──いや、それはありえない」
机の引き出しから、姉・真昼の写真を取り出す。柊夜から預かっていたものだ。
その写真に映る真昼の顔はいまだに変形し腫れ上がったまま。即ち霊障は残っている。
「やはり……。写真に影響が残っている以上、成仏はしていない。少なくとも“自然消滅”などという穏やかな結末じゃない」
あの霊の怨念は常軌を逸していた。
赤黒い怪異が彼女の念に同調して生まれたのだとすれば、真昼は──
百年分の怒りと悲しみを、短い期間に詰め込み凝縮したような存在。
仮に怪異が別由来だとしても、あの場に残っていた霊圧は常人の比ではなかった。
あれだけの怨念が、突然姿を消すなどありえるだろうか?
「…………くっ、わからない……!」
思わず額に手を当てる。前例のない事態に、理性と直感がぶつかり合っていた。
──昨日の報道。橘隼人の遺体発見。
あの時、柊夜は激しく取り乱していた。
あの時点で真昼、柊夜、そして橘の間に何かあったのは間違いないと確信していた。
更に画面越しの異様な空気が、その確信を後押しする。
さらに、SNSで見かけた不可解な投稿。
「制裁案募集」「加害者を許すな」「一人目」──それらの言葉が並ぶ意味深なハッシュタグ。
偶然の一致だとは、もう思えない。
霧子は少しの沈黙のあと、真昼の写真を伏せ、そっと目を閉じた。
「……すまない、柊夜くん。少しだけ、探らせてもらうよ」
それが君のためになると信じたい。
だが心の奥底で、“一線を越える”ことへの微かな戸惑いが燻っていた。
*****
──翌日。
柊夜はアパートの自室で、ただぼんやりと時間を潰していた。
姉の霊障が現れてから三日目。大学を休み続けている。
何かをしようと思っても集中できず、ずっとベッドの上で横になっていた。
霧子からの連絡も途絶えている。
それが不安である一方で、ふと──こんな思いが胸をよぎった。
「……このまま姉ちゃんが見つからないほうが、いいんじゃないか……?」
自分で供養を頼んでおいて、勝手な考えだとは思う。
だが霧子の性格を思えば、復讐など断固として否定するはずだ。
ならば──まだ“終わらない”今のままのほうが、都合がいい。
姉の魂が消えたら、奴らへの“怒りの理由”も消えてしまう気がした。
柊夜はようやくベッドから起き上がり、伸びをした。
「……体、鈍ってるな。ちょっと歩いてこよう……」
──午後の街。
久々に外の空気を吸ったせいか、日差しがまぶしい。
身体をほぐしながら、柊夜は当てもなく歩き出した。
やがて足は、公園へとたどり着く。
「……暑いな……」
ベンチに座って一息ついていると、ふと目に入ったのは──
仲良く並んで歩く姉弟らしき二人の姿だった。
「姉ちゃん、今日の試合、俺が三振とりまくったんだぜ!」
「すごいじゃん! 観に行けばよかったな〜」
「いーよ、見られてたら緊張してたし……」
「じゃあ、帰ったらアイス買ってあげよっか」
「やった!」
どこか懐かしく、微笑ましい光景。
柊夜は思わず立ち上がり、その背中を追うように歩き出していた。
(姉ちゃん……いつも俺の話、全部笑って聞いてくれた。
最近バイトもしてたし……今度は俺がアイスでも奢ってやりたかったな。
甘いもの、好きだったよね。
なのに……)
思い出が、やがて胸を締めつける。
気づけば、空はすでに夕暮れに染まっていた。
「……あれ? ここ、どこ……?」
見慣れない裏通り。人の気配もない。
どうやら夢中で歩くうちに、随分遠くまで来てしまったようだ。
「ま、いいか……別に急ぐ理由もないし。
それより……あいつらが奪ったんだ、あの時間を──」
柊夜はスマホを取り出し、SNSを開く。
「#加害者を許すな」で検索をかけると、無数の投稿が並んだ。
「……二人目、捕まってる……?」
タイムラインの一角に、異様な投稿が紛れていた。
第二の加害者・桐谷 翼
制裁内容募集中
#加害者を許すな
#断罪執行中
「やっぱり……姉ちゃんがやってるんだよね……」
投稿に貼られたリンクをタップすると、
画面には殴打で変形し、血で汚れた桐谷の顔が映し出された。
「……ひどい顔。でも、それでいい。
そうやって痛めつけられてるほうが、よっぽど似合ってるよ──あのときの姉ちゃんに比べれば、全然足りないけどな」
柊夜は再びスマホを操作する。興奮気味に口元をゆるめながら"例の投稿"の返信欄を眺めている。
「今度こそ、俺も“参加”する……」
“どうやって殺されるのがふさわしいか”──その言葉を打ち込もうとした、その時だった。
背中に冷たい感触が走る。
なにか硬くて鋭いものが、背中に──突きつけられている。
振り返ると、そこにいたのは──
見覚えのある顔。
直接話したことはないが、ネットで何度も見た顔。
写真越しに何度も呪い、憎んできた相手。
橘 隼人、桐谷 翼と並ぶ“あの日の”加害者のひとり──
松野 和馬だった。
「くっ、いっ……」
背中に冷たい刃が、さらに深く押し当てられる。皮膚を貫かぬギリギリの圧力が、じわじわと伝わる。
「いい子にしてろよ。声を出したら、そのまま突き刺す」
松野の低い声が耳元に落ちてくる。
柊夜は抵抗もできず、そのまま男に導かれるように歩き出した。
*****
「さて、ここいらでいいな」
松野が柊夜を連れ込んだのは、人通りのない裏路地。
すでに空は薄暗く、人目につくことはまずない。
背中に突きつけていたナイフを、松野は無言でポケットに仕舞った。
「おい、こっち向け」
そう言われ、柊夜が振り向いた瞬間──
ガッ!
「ぐふっ……!」
拳が頬にめり込み、柊夜は地面に倒れ込んだ。
すぐさま松野は彼の髪を乱暴に掴み、顔を引き上げてスマホの画面を突きつける。
「これ……お前だろ。お前がやったんだろ?」
画面には、暴行の“瞬間”を捉えた画像の数々が映し出されていた。
歯が飛び、顔が歪み、血が噴き出す。
昨日見た“制裁後”の画像とは異なる、“制裁中”──暴力の生々しい記録。
しかも、それらはリンク形式ではなく、直接DMに添付されていた。
“見せつけてやる”という意志が感じ取れるほどに。
さらに異様だったのは、背景。
廃工場で霧子と遭遇した“赤黒い何か”が暴行を加えており、背後には血に染まったような絶望の空間が広がっていた。
まるで──地獄の一幕。
松野はスマホの画面を睨みながら、呟くように吐き捨てる。
「……ビビらせるつもりかもしんねーけど、騙されねぇよ。
どうせCGか加工だろ……。
だがな──このアカウントのアイコン、見覚えねぇか?」
「……!」
画面の隅にあるアイコンに目をやった瞬間、柊夜は目を見開いた。
──白黒で雑に描かれた絵。
パッと見では何のキャラか判別できなかったし、特に気にもとめなかった。
でも今、間近で見せつけられて気づいた。これは──
自分が幼い頃、ノートに描いていた漫画のヒーロー。
《夜の執行者 エグゼ》。
姉が唯一の読者で、最後の話を渡したのは──失踪の前夜。
「十年前、あの女が持ってたノートに描かれてたぜ……お前の漫画。
髪がトゲトゲしてて、“闇の力で悪を裁く”とかほざいてた、あのヒーローもどきだよ」
ニヤつきながら松野は続ける。
「画像送りつけてきた奴、全部コイツのアイコン使ってた。
──つまり、お前が“復讐ごっこ”やってんだろって話よ」
「“夜の執行者・エグゼ”? ハッ、クソダセぇ……!」
ガッ!
「ぐふっ……!」
腹を蹴られ、柊夜が呻く。
「俺たちはちゃんと年少で罪を償ってんだよ……!」
ドスッ!
頭を踏みつける。
「年少じゃ地獄みたいな日々だった。鬼畜って呼ばれて、ボコボコにされて──
出所後は親に勘当されて、今じゃ盗みや詐欺で食いつなぐ毎日だ。
全部、あの女が逆らったせいだ……俺らが逮捕されたのも、あの女が死んだのも、
──全部、テメェらが悪いんだよッ!!」
吐き気を催すような責任転嫁と自己憐憫。
反省など微塵もない。
「黙れよ……!」
バッ!
柊夜は松野の足を振り払い、ふらつきながら立ち上がった。
「いい加減にしろ……!」
拳を握り、殴りかかる──
ドスッ!
だがその拳は届かない。松野の蹴りが腹に食い込む。
「ぐぅ……!」
それでも食い下がる。
「悪いのは……お前らだ!」
ガッ!
「俺はお前を──」
ボスッ!
「許さないっ……!」
ドサッ!
無様に倒れる。
柊夜の攻撃は一撃も通らず、ただ一方的に殴られ蹴られ、傷ついていく。
──怒りだけでは、どうにもならない。
喧嘩などしたこともない。
対する松野は、生きるために暴力を覚えたチンピラだった。
「ァァァァァァァっ……なんでっ……なんでっ!
クソっ、全部お前ら鬼畜共のせいだろ……自業自得だろうがっ!!
汚れ仕事しかできねぇのはお前の努力不足だっ、他人のせいにすんな!
お前は絶対に……死ぬ! 苦しんで死ね!!
俺が……呪ってやるからな!!」
怒りも、悔しさも、拳にならないまま吐き出される。
「ははっ、今のお前の顔……姉貴によく似てんなぁ……
死ぬ前にちょっと“遊んで”やるか」
松野が口笛を吹くと、裏路地の奥に停めてあった車からヤンキー風の男たちが二人現れる。
「やめろっ……やめろっ……!」
「さぁて……橘と桐谷の分、たっぷり“償い”してもらうぜ」
男の一人が柊夜を抱えようとした──
ガッ!!
その瞬間、男は吹き飛ばされていた。
「柊夜くん、大丈夫か?」
現れたのは、真田だった──。
*****
「なんだ、お前は!?」
不意に現れた真田に、松野たちは驚きの声をあげた。
「俺は──真田 誠。柊夜のダチだ」
「……手荒なことはしたくねぇ。だがそいつにこれ以上手を出すなら……容赦はしねぇ」
真田は3人の男たちを前に、まったく怯む様子を見せない。
その眼光には、確かな覚悟と殺気が宿っていた。
「はっ、イキってんじゃねぇぞ」
松野は鼻で笑い、ポケットからナイフを引き抜く。
その隣で、チンピラたちもメリケンサックやカッターナイフを構え、じりじりと間合いを詰めてくる。
「おいおい、こっちは3人だぞ? 素手で何ができるってんだ」
真田は一歩、前へ踏み出した。
その動きに、3人の男が一瞬、ぴたりと動きを止める。
「やるしかねぇな──」
その瞬間、真田が弾けた!
「いけぇっ!!」
松野の号令とともに、3人が一斉に襲いかかる!
「死ねっ!」
まずはメリケンサックを装備した男が突っ込む──!
ガッ!
真田はその拳を身体を捻ってかわし、伸びた腕をつかむと、重心を崩してカウンターのストレートを叩き込む!
ドガッ!!
男の首が横に跳ね、全身が浮くようにして地面に落ちた。完全に意識を失っている。
「くっそ、オラァッ!」
二人目の男がカッターナイフを振りかざし突っ込んでくる──
だが真田はステップで死角に入り、肘打ちを男の脇腹にぶち込んだ。
ボスッ!
「ぐはぁっ!」
肋骨を折られたのか、男は呻きながら膝をつき、嘔吐するように倒れた。
「な……なんだこいつ、バケモンかよ……」
松野の表情が歪む。恐怖と怒りが入り混じった顔で、彼は叫びながらナイフを構えて突進してくる。
「ふざけんな! 調子に乗るなよゴリラァッ!!」
真田はその突進を冷静に見据えると、振り下ろされるナイフを手首ごと弾き、反対の拳で松野の顔面に拳骨を叩きつけた。
ガンッ!
ナイフは落ち、松野はよろけながらもなおも殴りかかろうとする。
「てめぇなんかに、負けて──たまるかッ!」
だが次の瞬間、真田の拳が下から松野の顎を撃ち抜いた。
ズドンッ!!
強烈なアッパー。
松野の体が数十センチ浮き、そのまま後ろに倒れ込む。
──沈黙。
裏路地には、真田の荒い息遣いと、チンピラたちの呻き声だけが残った。
「……ふぅ」
真田は深く息を吐き、倒れている柊夜のもとに歩み寄った。
「……大丈夫か、柊夜くん」
差し伸べられた大きな手には、確かな安心感があった。
*****
裏路地を離れた柊夜は、真田に付き添われて家まで送ってもらった。
「……俺も、あれくらい強かったら。真田さんみたいに、強ければ──姉ちゃんを……守れたのに……」
「ん? どうかしたか?」
柊夜の呟きに、真田がちらりと振り返る。
真田はまるで漫画のヒーローのようだった。大きな体で、恐怖にも屈せず、理不尽な暴力に真正面から立ち向かっていける。
その頼もしさが羨ましくて、そして悔しかった。
──それに比べて俺は。
あの松野一人にすら手も足も出ず、助けがなければ何もできずに、ただ終わっていた。
「じゃ、俺はこの辺で。傷はしっかり消毒しろよな〜」
「……今日は本当にありがとうございました。今度、何かお礼させてください」
「おいおい、ダチを助けるのに見返りとかいらねぇって。
ほら、もう夜だ。早く帰れ。霧子さんに怒られるぞ?」
真田は笑って背を向け、軽く右手を上げて去っていった。
柊夜は静かな部屋へと帰ってきた。
真田に言われた通り、傷の手当てをすべきだった。だが、何もする気になれなかった。
「……疲れた」
靴も脱ぎっぱなしのまま、ベッドに倒れ込む。
肉体の痛みよりも、胸の奥に残る悔しさや惨めさの方が、ずっと重かった。
「っく……う、うあああああぁぁぁ!!」
怒り。恐怖。無力感。そして、自己嫌悪。
それらすべてがない交ぜになって胸をかき乱し、涙となって堰を切ったように溢れた。
──だが、ひとつだけ。柊夜の中で確かに残っているものがあった。
それは憎しみだった。
無力な自分を嘲笑うように、静かに、しかし確実に、柊夜の中でその呪いは強く大きく育っていく。
それは無力な柊夜とは対照的に誰の手も借りることなく──確実に。