48話 手を取る理由
──霧子さんが、助けに来てくれた。
その瞬間、俺の胸の奥で囁いていたエグゼの声が、嘘のように消えた。
一度倒された経験から警戒でもしているのだろうか?
「チッ、これからがいいところだってのに……」
真田の吐き捨てる声。
けれど霧子さんは微動だにしない。
その眼差しは、氷のように静かで、炎のように熱い。
その視線を受けた真田の肩が、わずかに強張った。
「あなたこそ──これはどういうつもりだ?
近くで暴行されて倒れていた青年も、あなたの仕業だな?」
「ハッ。証拠でもあんのかよ?」
……友清。
その言葉に、胸が跳ねた。
「霧子さんっ、その倒れてた青年って──!」
「君の友人だろう。満身創痍の中、私にすべてを話してくれた。
“朝比奈を助けてくれ”と、私の腕を掴んでな。
安心しろ、意識はあった。自力で病院に向かったよ」
「……よかった……」
胸の奥に溜まっていた重石がようやく落ちる。
けれど、その安堵を切り裂くように、真田の怒声が響いた。
「テメェら、俺を無視して立ち話とはいい度胸じゃねぇか!!
その余裕、すぐに後悔させてやるよ!」
瀬戸が後ろでニヤつく。嫌な空気が流れる。
……おかしい。そういえば、さっきまでいたもう一人の男の姿が──見えない。
鉄の唸り。
霧子さんの背後で、鉄パイプが空を裂く。
鈍く濁った音が廃墟に響き──一瞬、俺は目を閉じた。
……静かだ。あまりにも静かだ。
恐る恐る目を開けると、そこには──。
苦悶の声を漏らして地に倒れる男。そしてその上に、無傷で立つ霧子さん。
肘を突き出した姿勢のまま、表情一つ変えていない。
「真田、この女やべぇ! 不意打ちを読んで、肘一発で沈めやがった!」
「ハッ! そいつが弱ぇだけだろうが。女に一撃とか笑えねぇな。
すぐに俺がケリをつけてやる!」
「待て真田、そいつ……普通じゃねぇ。倒されたのはウチでも特に腕の立つ──」
「黙ってろ!!」
真田は怒声とともに踏み込んだ。
鉄骨を踏み砕くような足音が響く。
霧子さんは一歩も退かない。
「真田。お前の罪──今回は見逃せない」
低く、冷たい声。
真田が鼻で笑った。
「女が説教垂れんなや……ワンパンで黙らせてやる!」
拳が風を裂く。
が、刹那──真田の拳が空を切った。
「っ──!?」
霧子さんの姿が霞のように消え、右へ滑る。
続けて真田はナイフを抜き、フェイントの逆手突きを放つ。
だが、その刃も虚空を切り裂いただけだった。
「お前の考えなど、もう読める」
静かな声が耳元で響いたかと思うと、
霧子さんの足が低く滑り込み、真田の足元を払う。
「ぐっ──!」
真田は膝をつきかけながらも、咄嗟に片腕で体を支え、
全身のバネを使って起き上がる──だが、その前に霧子さんはいない。
「どこに──ッ!?」
「ここだ」
声が真田の腹のすぐ下から響く。
次の瞬間、霧子さんの拳が真田の鳩尾に突き刺さった。
「ぐはっ──!!」
空気が逆流する。
真田の体がくの字に折れた。
霧子さんはその動きを読み切っていた。
顎が下がる、その瞬間。
「──終わりだ」
拳が閃いた。
硬質な衝撃音。
真田の顎を撃ち抜いた霧子さんの拳が、確実に意識を奪う。
真田の体が崩れ落ち、鉄の床を鳴らす。
「さて、お前はどうする?」
瀬戸は一歩、二歩と後退し、両手を上げた。
「……いや、降りる。降りますよ」
霧子さんは構えを解き、こちらに歩み寄る。
「柊夜くん、迎えにきた。さぁ、ここを出よう──」
その瞬間、霧子さんの体が硬直した。
背筋を何かが這い上がるような悪寒。
視線を上げると、廃墟の入り口に和装の老人が立っていた。
「やれやれ、だらしない……。
私が来るまでの時間稼ぎすら、まともにこなせないとはねぇ……」
その声は、空気そのものを支配するような圧を孕んでいた。
老人の細い指がゆっくりと持ち上がり──。
その影が、まるで生き物のように伸びる。
それは俺の胸をすり抜け、何か“温かくて大切なもの”を、抉り取っていった。
視界が白く滲む。
霧子さんの叫びが遠ざかっていく──。
*****
「…………?」
目を覚ますと、そこは一面が黒に染まった空間だった。
上下も、前も後ろも分からない。ただ無限に続く闇。
音も、風も、何もない。自分の鼓動だけが、遠くでこだまする。
──俺、確か……あの老人に胸を貫かれて……。
ということは、まさか死んだのか?
「いや、死んではいない」
その思考に、誰かが静かに返した。
この声は──知っている。忘れるはずがない。
漆黒のマント。鋭く逆立つ髪。
禍々しくも整然とした装飾を纏う男が、闇の奥から歩み出てきた。
夜の執行者──エグゼ。
ただ、以前と違う。
あの時のような、暴力的な殺気はない。
それでも、俺は警戒を解けなかった。ついさっきまで、こいつは俺を復讐へと引き摺り戻そうとしたのだから。
「柊夜くん……なぜ、私の手を取らない?」
エグゼは立ち止まり、穏やかに問いかけた。
その声音には怒りも嘲りもない。むしろ、わずかな迷いが滲んでいた。
「俺は、誓ったんだ」
自然と声が出ていた。
胸の奥に宿った“痛み”の源を、言葉に変えて吐き出す。
「もう、前を向いて生きる。
あいつらの顔を思い出す暇がないほど、夢中で生きる。
そして──それが、姉ちゃんが望んだ生き方だ」
エグゼが何も言わない。
俺はその沈黙に向かって、心の中に浮かんだ光景を思い描いた。
あの日、姉ちゃんと話をした時の光景を頭に浮かべる。温かい手で、俺の頭を撫でながら言ってくれた。
『私の分まで、たくさん経験して。楽しいことも、苦しいことも。
そして、たまにでいいから……お墓の前で、その話を聞かせてくれたら、すごく嬉しいな』
あれが、姉ちゃんの願いだった。
復讐なんかじゃない。誰かを恨むための言葉でもない。
“生きる”ことを願ってくれた、たった一つの祈り。
「エグゼ……お前は俺から生まれた。なら、俺の本当の気持ち、もう分かるだろ」
そう願って、俺はただ見つめる。
エグゼは虚空に目を向けたまま、長い沈黙の後、わずかに息を吐いた。
「私は……復讐が間違いだとは、まだ思えない。
奴らを断罪することが、姉ちゃんの無念を晴らす唯一の方法だと信じている。
──だが、君の誓い、姉ちゃんの願い……君がこれからどう動くのかもう少し見極める必要がありそうだ」
「……少しは、分かってくれたのか」
その声には、ほんのわずかに光が差していた。
エグゼの瞳の奥で、いつも燻っていた狂気の炎が、静かな灯に変わっている。
エグゼは小さく笑って、ゆっくりと背を向けた。
「柊夜くん。私はこれから、君という人間を見届ける。
赦すか処すか……どちらが正しいのか、自分の目で確かめたい。
──だが、ここでお別れだ」
「なっ……待ってくれ!」
エグゼの姿が、闇の中で少しずつ遠ざかっていく。
まるで風に溶ける煙のように、輪郭が淡く滲んでいく。
「待って! どこへ行くんだよ、エグゼ!」
俺は全力で駆けた。
けれど、どれだけ走っても距離は縮まらない。
息を切らし、必死に叫ぶ。
「エグゼっ──戻ってこい!!」
その声に、わずかに振り返ったエグゼが、唇だけで何かを言った。
──“任せた”……そんな風に見えた。
そして次の瞬間、彼の姿は完全に消えた。
再び視界が白く滲み、音が遠ざかっていく。
体がふっと浮き上がり、現実の重みが戻ってくる。
「エ……グゼ……」
俺の呼ぶ声だけが、闇に溶けた。
*****
「──柊夜くん!」
「……っ!」
名前を呼ぶ声に、意識が一気に現実へ引き戻された。
まぶたを開けると、最初に映ったのは霧子さんの顔だった。
深く息を吐き、安堵に微笑んだその姿が、ほんの少し滲んで見える。
「よかった……本当に、よかった……」
霧子さんは糸が切れたように、その場へ膝をついた。
全身から力が抜けていくようで、肩で息をしている。
──ずっと、俺のことを心配してくれてたんだ。
そう思った瞬間、胸の奥にじんわりと温かいものが広がった。
「……あれ?」
よく見ると、霧子さんの白い髪が解け、肩にばらりと落ちていた。
普段はきっちり結われているのに、今は汗で頬に張り付き、乱れている。
裾のあたりも埃を被っていて、細い腕には薄く擦り傷が見えた。
──部屋の中もひどい。
割れたガラスの破片が床に散り、壁には焦げたような跡が残っている。
何が起きたのか分からない。でも、この場所が“ただの救出現場”ではなかったのは確かだった。
「柊夜くん。体に、異常はないか?」
霧子さんの声が、かすかに震えていた。
俺は上体を起こし、腕や足を確かめる。
「だいじょ……うっ! 痛っ!」
無理に笑おうとした途端、殴られた脇腹がずきりと痛んだ。
でも、それだけだ。
胸を貫かれた感触が夢だったように、そこには何の傷も残っていなかった。
「ふふっ……そうか。いつも通りの調子で安心したよ」
霧子さんは小さく笑った。
乱れた髪の間から覗く瞳は、いつもより柔らかく見えた。
その笑みを見ていると、胸の奥が熱くなる。
まるで心臓の音が、彼女に聞こえてしまいそうで怖かった。
「心配ばかりかけて……すみません。
それと──助けてくれて、ありがとうございました」
「気にするな。これは、仕事……いや、違うな。
除霊でも依頼でもない。だが知り合いが困っていたら、助けるのは当然だ」
言葉の最後、霧子さんの表情がわずかに和らいだ。
その優しさが痛い。
“仕事じゃない”なんて言われると、胸の奥で何かが鳴った。
これは……なんなんだろう。
感謝だけじゃない。嬉しいような、苦しいような、形のない何かが膨らんでいく。
「さあ、立てるか? 私の肩を……」
霧子さんが膝をついたまま、そっと手を差し出した。
その手を取った瞬間、指先から伝わる体温に思わず息をのむ。
近い。距離が近すぎて、鼓動がうるさい。
これじゃあ、怪我よりも動揺のほうがひどい。
「……ありがとう、ございます」
ようやく絞り出した声が、妙に掠れていた。
霧子さんは何も言わず、微笑んで俺の肩を支える。
その仕草が、どこか“懐かしむよう”で──胸の奥がまた、ちくりと痛んだ。
その瞬間だった。
──ガシャンッ!!
扉が吹き飛ぶような音を立てて開いた。
「おい、あんちゃん! 嬢ちゃんも!
無事かっ!!」
不動さんが血相を変えて飛び込んできた。
その迫力に思わず俺と霧子さんは顔を見合わせる。
彼女は、ほんの少し笑って、ゆっくりと息を吐いた。




