45話 灰煙に消ゆ
遠くでサイレンが鳴っていた。
赤と青の光が駐車場の壁を交互に照らし、ゆっくりと夜を塗り替えていく。
霧子と不動は、負傷者を搬送する救急隊や警察、組織の後方部隊と協力して一通りの手当を終え、ようやく一息ついたところだった。
広場を振り返った霧子の横顔には、わずかな疲労と、得体の知れない痛みが浮かんでいた。
「たった一人の霊能力者が、災害を引き起こすとは……」
その声は風に溶けていくようにかすれていた。
不動はタバコを指で弄びながら、深く息を吐いた。
「しかも結局、本人は不在だ。もし相楽が現場にいたら──もっと洒落にならなかったろうな」
「……結局、この男は何がしたかったのだろうか」
「さぁな。"例の事件"に纏わるもんも見つからなかったし」
霧子が小さく眉を寄せる。
「となると、自分の力を見せつけたかった……とか?」
「それこそ意味がわからねぇよ、誰にだよって話だ」
「いや、あまりにも派手な霊災だったので一瞬そう考えただけだ。気にしないでくれ……」
二人の間に沈黙が落ちた。
風が駐車場を抜け、誰もいない夜の街を寂しく撫でていく。
現場には救急車のサイレンだけが残響のように響いていた。
不動はふと、ポケットを探りながら口を歪めた。
「しまった。ライター、落としてきちまったよ」
「…………」
霧子が呆れたように肩をすくめる。
「悪いが、ちょっと広場に戻る。嬢ちゃんは先に帰っててくれ」
両手を合わせてお願いポーズを取る不動。
「私が車を出したら、あなたはどうする? 電車で帰るのか?」
「まぁ、そうするさ。タバコも買い足して、つまみも買って帰りてぇしな」
「またタバコか。まったく、一体何本吸ってるんだ……」
「嬢ちゃんは手厳しいなぁ。吸ったタバコの数なんざ、もうわかんねぇよ。とにかく必要なんだ」
霧子は溜息をつき、目を細めた。
「……わかった。あまり遅くならないように」
「すまねぇな」
霧子の車が夜の街へと消えていく。
テールランプの赤が遠ざかり、闇に溶けた瞬間、不動の表情から笑みが消えた。
代わりに浮かんだのは、戦場で見せる時の険しい眼差し。
「……ホッチ。やっぱり、いるんだな」
狗神の姿は見えない。
だが、確かに身体の奥で、相棒が何かを察知していた。
低い唸り声が、不動の胸の内に響く。
「行くぞ」
不動は踵を返し、地獄の跡地──広場へと再び歩き出した。
*****
広場に戻ると、中央に一人の中年男性が立っていた。
風は止み、夜気が異様に澄んでいる。まるでつい先ほどまで地獄だったことが嘘のようだ。
男が立っているのは、奇滅羅が出現した地点──無数の命と怨嗟が交錯した、災厄の震源地だった。
不動は訝しげに目を細める。
「……おいおい、ここは立ち入り禁止だぞ。何してんだ。
俺は不動っつーモンで、さっきまでここの霊災を対応したんだ」
歩を進めると、男は片手をゆっくりと突き出し、不動の接近を制した。
「止まってくれ」
低く、しかし妙に通る声だった。
その手の動きには警戒というより“線引き”のような冷静さがある。
「私はこういう者だ」
男は胸ポケットから一枚の名刺を取り出し、不動に差し出した。
白地に灰色の印字、角ばったロゴが光に反射する。
火口 夏生
国際超常対策機構・日本支部
通信司令部 心霊対応課 課長
登録番号:J-4466
対応区分:心霊事案・D級(通信/後方支援/調査)
不動は受け取った名刺をしげしげと眺めた。
「……調査が担当ってことはアレか? 今回の霊災の現場確認ってところか?」
火口は小さく頷く。
「あぁ、そんなところだ。だから今は、私ではなくあなたが“部外者”だ。速やかにお引き取り願おう」
その声音には、威圧も怒気もない。
ただ、言葉の奥に“拒絶”だけが確かにあった。
不動は口の端を吊り上げる。
「悪いな。だが、ちょうど聞きてぇことがあったんでね。少しばかり付き合ってもらおうか」
風が吹き抜け、焦げた臭いがふたりの間をすり抜けた。
沈黙が、夜の広場に重く垂れ込める。
不動は、名刺を胸ポケットにしまうと同時に一歩前に出た。
「……引き下がる前に一つ、いいか?」
その声音には穏やかさの欠片もない。
火口が無言で頷くと、不動は低く問いかけた。
「今日の霊災の出動要請についてだ。あんたが課長ってことは──現場に出す除霊師を決めてるのは、あんたで間違いねぇな?」
「……最終的な決定は、私が下す」
火口の答えは妙に淡々としていた。抑揚がなく、まるで感情を削ぎ落としたような口調。
不動は鼻を鳴らし、足元に転がる数珠を見やった。
焼け焦げ、半分に砕けた珠の表面には、まだ僅かに霊力の残滓が漂っている。
それは──命を落とした除霊師たちの遺留品。
不動のこめかみがピクリと動く。
「……チッ」
短く舌打ちをする。その一音が、夜気の中に重く響いた。
火口の喉が小さく鳴る。
不動の眼光が暗闇の中で獣のように光り、ただ立っているだけで周囲の空気が震えた。
「なぜ、すぐ俺を呼ばなかった」
低く、地を這うような声。
「いや、それだけじゃねぇ。俺の前に出動した除霊師──あれ、ほとんどがC級以下だ。中には見習いレベルのD級も混じってやがる」
不動の靴先が、地面に転がる数珠を軽く蹴った。鈍い音が、乾いた夜の広場に響く。
「……あんたの目には、今回の霊災がその程度に映ったのか?」
火口は一瞬、言葉を失ったように口を閉ざした。
夜風が吹き抜け、彼のコートの裾が小さく揺れる。
ようやく搾り出すように口を開いた。
「い、いや……そういうわけでは……」
その額には、いつの間にか玉のような汗が浮かんでいる。
「ただ、あなたを含めたA級以上の除霊師は他の案件を山ほど抱えているから……」
声がかすれ、目が泳ぐ。
言い訳のようで、どこか“取り繕っている”気配。
不動はじっと火口を見据え、眉をひとつ上げた。
「……へぇ。随分とご丁寧な理由だな」
皮肉ともつかぬ声が落ちる。
その瞬間、火口の肩が小さく震えた。
「でもB級はどうだ? 結構暇してるぞ?」
不動は腕を組み、冷ややかに言った。
「現に俺の後輩も普段は依頼がなくて、副業の探偵をやってるくらいだ。──それでも、最後まで呼ばれることはなかった」
その言葉に、火口の顔がピクリと歪んだ。
何かが切れるような音が、空気の奥で鳴った気がした。
「……あーいえばこー言って……うるさい!」
突如、火口が声を荒げた。
「才能ある奴はいつもそうだ! 自分の力に物を言わせて、人を思い通りに動かそうとする!」
不動がわずかに眉を上げる。火口の声は次第に震え、怒りとも怨嗟ともつかぬ響きを帯びていった。
「私はお前らの──そういうところが……ッ! 嫌いなんだよォッ!」
怒号が広場に反響する。
その瞬間、火口の足元から'黒いもや"がぶわりと吹き上がった。
不動は反射的に半歩退き、目を細めた。
「テメェ……ッ!」
火口は右手を高く掲げ、指先を空へ突き立てる。
周囲の空気が一変した。まるで地の底から呻き声が響くように、低い共鳴音が地面を伝って広がっていく。
「──怨呪狂宴大災禍ッ!」
火口は一呼吸置き──
「我に力を貸したまえ── 奇滅羅ァァァッ!」
大地が脈打った。
黒い霧が渦を巻き、火口の背後から巨大な影がゆらりと立ち上がる。
その輪郭は不動のよく知るもの──。
「奇滅羅だとっ!」
不動の声が鋭く響く。
「テメェ……思った通り、相楽の息がかかってやがったか!」
怒声を上げながらも、口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
(ようやく……繋がったか)
長く追っていた“線”が、ようやく一本に結びつく。
不動の目が、闇の中で獣のように光った。
『グオォォォォォォッ!』
地鳴りのような咆哮が広場を震わせた。
立ち上がった巨影── 奇滅羅は静寂を取り戻したこの広場を再び地獄に塗り替えようとするかの如く、激しく身をくねらせ、周囲の瓦礫を押し潰す。
その瞳がゆっくりと開いた。
だが、そこに映っていたのは不動ではなかった。
その眼孔に映るのは──術者、火口 夏生。
しかし、火口はまだ気づいていない。
狂気と興奮に満ちた目で、大蛇の巨体を見上げ、声を張り上げた。
「霊能の才能がなくて、どれだけ努力しても何も掴めなかった……! そんな私に、相楽さんが力を授けてくださったのだッ!」
その声は、歓喜と絶望の狭間で震えていた。
「これが禁忌に触れる術であることは、百も承知だ! だが──私は力が欲しかった! 誰にも馬鹿にされない力を、胸を張って誇れる力をっ!」
黒い霧が火口の周囲を渦巻く。血走った瞳が不動を射抜く。
「才能あるあなたに、私の気持ちなど分かるまい! 話は終わりだ……さぁ行け、奇滅羅ァァァァァッ!!!」
だが── 奇滅羅は動かなかった。
広場を支配していた妖気が、一瞬にして凍り付く。
火口の指が震える。
「……どうした、早く目の前の男を喰い殺せっ!」
不動は眉をひそめた。
奇滅羅は動かないどころか、脈を止めたように沈黙している。
(動かねぇ? いや動かせねぇんだ、火口の力が足りてねぇ──)
不動は息を呑み、確信した。
「火口、ダメだッ! すぐに離れろ! その術、制御できてねぇ! 死ぬぞォッ!!」
「戯言を……今さら怖くなったのだろう?」
火口は嘲笑を浮かべている。
「素直にそう言えば──」
言葉は途中で途切れた。
火口の視界が突如、影に覆われたのだ。
火口は頭上を見上げると、そこには奇滅羅の巨体があった。
濁った瞳がぎょろりと動き、血塗られた顎が、ゆっくりと開いていく。
「なっ──」
『グオォォォォォォッ!』
次の瞬間、火口の悲鳴をかき消すように、咆哮が轟いた。
奇滅羅の喉奥に闇が渦巻く。
不動は反射的に駆け出していた。
「火口ィィィッ!!!」
しかし、その声が届くよりも早く、
巨大な顎が閉じた。
肉を噛み砕く鈍い音が、夜気を裂いた。
──咀嚼音が止んだ。
不動は動きを止め、拳を握り締めた。
その拳がわずかに震えていることに、自分でも気づいていた。
「……クソッ」
短く吐き捨てると、視界の端で奇滅羅の身体が崩れ始めた。
妖気が弾け、"黒いもや"が四散する。
術師を失った人造怪異は、命令を失い、自らを支える“術式”そのものが崩壊していく。
残されたのは、血の臭いだけだった。
不動はゆっくりと歩み寄り、赤黒い液体が広がる地面に目を落とす。
火口の姿はもう、どこにもない。
残っているのは、肉片と、濡れた名刺の切れ端だけ。
「……呪術ってのはな」
不動は、誰にともなく呟いた。
「力のねぇもんが使うと、呪いが逆流するモンなんだよ……」
足元に落ちた血が、夜風に揺れる。
「それだけ力に目が眩んだってのか……馬鹿野郎……」
見下ろしていた視線を天へと上げる。
濃い夜雲の隙間から、月が顔を出していた。
「相楽の野郎……力の弱ぇ火口に奇滅羅なんか持たせやがって……」
唇を噛む。
「そういうことか……いざという時の“口封じ”ってわけだ」
その声には、怒りよりも、深い悔しさが滲んでいた。
火口は確かに相楽と繋がる“線”だった。
ようやく掴んだ手がかりを、目の前で呪いに喰われて失う──。
その事実が、不動の胸を静かに抉った。
彼は肩を落とし、ため息をつくように俯いた。
その時、足元で小さな光が瞬いた。
「ん……?」
拾い上げてみると、それは探していたライターだった。
血と煤で汚れた外装を指で拭い、カチリと火を点ける。
煙草を咥え、深く吸い込む。
だが──煙は胸の奥で重く、苦かった。
「……美味しくねぇな」
わずかに震える吐息とともに、煙が夜空に溶けていく。
不動はそのままタバコを指先から落とした。
火花が地面に散り、血の上でじゅっと音を立てて消える。
振り返ることなく、広場を後にした。
静まり返った夜に、不動の足音だけが、かすかに響いていた。




