43話 百鬼夜行
広場は、まさに地獄だった。
男も女も、老いも若きも関係ない。互いが互いを親の仇のように憎み、殴り合い、髪を掴み、爪を立て、鮮血を撒き散らしている。
中には、意識を失ってなお立ち上がり、虚ろな目で“敵”を殴り続ける者もいた。その動きは明らかに不自然で、まるで糸で操られる人形のようだった。
倒れ伏す者たちからは、もはや精気の欠片すら感じられない──すなわち、すでに息絶えている。
それは、死屍累々そのもの。
地獄絵図を現世に再現したような光景だった。
「……なんてこった。全員、霊に取り憑かれてやがる」
不動の低い声は、すぐに狂気の渦にかき消された。
霊気を纏った人々が互いを滅多打ちにしながら、呻きとも叫びともつかぬ声を上げている。
「気を失っている者は、どうやら霊に身体を完全に乗っ取られているようだな」
霧子が数珠を指に絡めながら静かに呟く。
「まるで──百鬼夜行だ。霊山や墓地ならまだしも、こんな街中で、それも前触れなく霊が大量発生するなど……あまりにも不自然だ」
不動が眉をひそめ、煙のように立ち込める“黒いもや”を睨みつける。
よく見れば、広場で暴れ狂う人々や霊の身体にも、同じものが絡みついていた。
それはまるで、負の感情そのものが形を取り、彼らを縛りつけているかのようだった。
“黒いもや”の出所は、広場の上空にあった。
夜空を覆い隠すほど大量の黒い影がうねり、蛇を思わせる姿で空を這っている。
それらはまるで意思を持つかのようにゆるやかに舞い、開いた口から"黒いもや"を地上へ撒き散らしていた。
ミストシャワーのように降り注ぐ"もや"は風にのって広場を包み、落ちるたびに下では人々がさらに激しくぶつかり合う。狂気の叫びがビル群にこだました。
「──ありゃ、弍洞穴だな」
不動が呟く。
「影で形作られた蛇の怪異だ。怨念や空気中の霊気を素材に造られる人工の怪異で、呪殺師が呪術で使う兵器だ。……やはり相楽の野郎が噛んでやがるな」
霧子は指先で黒い靄に触れようとしたが、すぐに顔をしかめて手を引いた。
「……僅かに触れるだけでも、心の中に穴が空いたような感覚になる。妙な不安が湧いて、まるで胸の奥から何かが突き破って出てきそうだ。どうやら、あの怪異が人々と霊の感情を不安定にしているようだ」
「なるほど。感情の振れ幅がぶっ壊れたやつらに、同じくぶっ壊れた霊を憑けりゃ──相乗効果で理性なんざ吹き飛んじまう」
不動は辺りを見渡し、言葉を続ける。
「しかも、気を失っても霊が無理やり身体を動かして殴り合いを続けてやがる。ここにいる奴らが全員死ぬのも時間の問題だ。なんでこんなになるまで俺のところに出動要請が来なかったんだ……」
不動は唇を噛み、血の滲むほどに悔しさに震えていた。
「まずは人と霊を引き離すことで、呪いの効果を弱め──」
霧子が数珠を指に巻きつけ、暴徒のひとりへ視線を向けたそのとき、男が鋭く声を上げて飛びかかってきた。
「テメェ、俺のことジロジロ見てやがるな! ブッ殺してやる!」
霧子は拳をひらりとかわし、眉をわずかに寄せて短く息を吐いた。
「──すまない」
彼女の一撃が男の鳩尾を捉え、男は呻く間もなく膝を折った。
「見るだけで襲いかかってくるようじゃ、チンタラ除霊してる場合じゃねぇな。今倒した奴も、間もなく霊に乗っ取られて動き出すだろうよ」
不動が肩をすくめる。
「だが、あの霊たちを滅するわけにもいかねぇ」
霧子は静かに頷いた。
「あぁ……霊もまた、被害者だ」
霧子は周囲を一瞥し、黒い空を見上げた。
上空の“弍洞穴”たちは、依然として蠢きながら黒い靄を吐き出している。
「……なら、上空のアレから先にやるしかないな」
霧子は数珠を握りしめ、低く呟いた。
「南無浄斎──ぐっ……!?」
次の瞬間、空の群れが一斉に動いた。
無数の蛇影が口を開き、霊気を帯びた息を吹きつけてくる。
黒い奔流が地上へと殺到し、霧子の詠唱をかき消すように叩きつけた。
「くっ……防御結界が間に合わん……っ!」
霧子は咄嗟に飛び退き、距離を取る。腕を交差して防御の印を結ぶ。
──が、息は四方八方から吹き付けられる。正面だけならまだしも、全身を包む結界を形成するにはあまりにも時間が足りない。
不完全な結界では十分に防御しきれず、シャツの袖は裂け、空気そのものが焼け焦げたような音が響く。
「──下を処理しようとすれば怒り狂った奴らに襲われ、
上を処理しようとすれば弍洞穴の群れが一斉攻撃……」
不動は煙る空を睨みながら、苦い顔をした。
「まったく、この配置は奴の性格の悪さが滲み出ているぜ……」
霧子は視線を落とし、地面に転がる除霊師たちを見やる。
「……彼らも、こうして手も足も出ないままやられたんだろうな」
血に染まった法衣と、砕けた数珠。
彼らがどれだけ抗ったのかを示すには、それで十分だった。
不動は顎に手を当てて考え込む。
肝心の相楽も姿を見せず、発生源を断つこともできない。
打開策を探すように周囲を見渡したそのとき──霧子の腰に吊るされた刀が、電灯の光に照らされて、かすかに光った。
「……そうか」
不動の表情に閃きが走る。
「読経できねぇなら、別の場所ですりゃいい」
「だが、目の前に相手がいなければ“烈衝波”も“破懐撃”も放っても仕方あるまい」
「腰にあるその刀はどうだ」
霧子がはっと目を見開く。
「──そうか。禍祓なら、一度読経すればあとは振るだけでいい」
「そういうこった」
不動はニヤリと笑い、指を鳴らした。
「一度の読経で永続的に力を解放できるタイプの術なら、この状況をひっくり返せる。……もちろん、俺もその手の術を持っている」
「なら、戦略的撤退だな」
二人は短く頷き合うと、暴徒と霊の入り乱れる広場を離れた。
"黒いもや"の雨が降り注ぐ中、夜はさらに深く沈み、街全体を呑み込んでいった。
*****
広場から少し離れた駐車場。
霊に取り憑かれた人々が暴走する範囲から、辛うじて外れている場所だ。
だが、それでも霊気の濃度は異常だった。空気が焼けるように重く、濁った瘴気が肌を刺す。
遠目に広場を見れば、霊気が空高く渦を巻き、木々の隙間から地鳴りのような呻きがこちらにまで漏れてくる。
霧子は禍祓を抜き放ち、両手で柄を握った。
無いはずの刀身が、まるでそこに在るかのように空気を震わせる。
「── 南無災業禍祓咒。封ぜられし禍の力、今ここに顕現せよ」
低く、澄んだ声が夜に溶ける。
瞬間、刀身から爆ぜるように黒い霧が噴き出した。
それは蠢く影となって形を成し、刃が現れると同時に爆ぜた妖気が駐車場へ侵食していた霊気を押し返す。
不動が口笛を吹いた。
「ひゅー、相変わらず恐ろしい妖力を放ってやがる。……やっぱり思った通りだな。この妖刀の力、相楽の呪術の天敵になり得るぜ」
「相楽の天敵?」
霧子が眉をひそめる。
「あぁ。あいつの呪術は“怪異を操る”ことで成立してる。つまり、相楽と怪異の間には“因果の糸”があるわけだ。
で、その関係を──嬢ちゃんの禍祓で断ち切ってやれば、呪いそのものが成立しなくなるだろ?」
霧子は小さく頷いた。
強い想いや運命で結ばれた因果すら断ち切る禍祓。
ならば、相楽と怪異のような一方的な主従関係など──断ち切るのは造作もない。
黒く妖しく光る刃が静かに鳴った。
その音はまるで、地獄そのものを断ち切ろうとする号砲のようだった。
「なら、私が弍洞穴と相楽の関係を断ち切れば──」
霧子が言いかけたところで、不動が手を突き出し、首を横に振った。
「いんや。嬢ちゃんは、人々に取り憑いてる霊と相楽の関係を断ち切ってくれ。弍洞穴は──俺に任せろ」
不動はそう言うと、ゆっくりと目を閉じた。
次の瞬間、空気がざわめく。
駐車場の照明が一瞬だけ揺らめき、霊気が波打った。
まるで何かが地の底から目覚めようとしているかのように。
「── 南無獣霊招魂、顕現し、我と共に力を振いたまえ──」
不動の声が響くと同時に、周囲の空気が一変した。
地を這うような低い唸りが耳を震わせ、ざわめきは一層大きくなる。
闇を裂くように風が吹き荒れ、霊気の濃霧が渦を巻いた。
「──狗神!」
その叫びとともに、不動の身体から淡い金色の光が迸った。
光は瞬く間に形を成し、茶褐色の毛並みを持つ巨大な影となって地に降り立つ。
犬というにはあまりにも鋭く、狼というにはどこか愛嬌がある。
金色の瞳は鋭く光りながらも、主を見つけた飼い犬のように輝いていた。
「ホッチ……力を貸してくれ」
風を巻き上げながら、ホッチと呼ばれる狗神は低く唸った。
その声には、怒りでも恐怖でもない──
久方ぶりの“散歩”を前にした犬のような、純粋な歓喜が宿っていた。
不動はその様子にわずかに笑みを漏らし、真っ直ぐに見据えて頷く。
「……さて、ホッチ。ひと暴れしようぜ」
狗神が応えるように一声吠えた。
その咆哮が夜空を貫いた瞬間、地上の霊たちの呻きが一斉に止まり、
一帯を包む闇が──まるで息を呑んだかのように静まり返った。




