40話 手を差し出したその先に
白いワゴンが夜の住宅街を抜ける。
街灯の光が等間隔に流れ、フロントガラスに淡く反射しては消えていった。
真田は助手席に全身を投げ出し、荒い息を吐く。
張り詰めていた緊張の糸が切れた反動で、全身の力が抜けていた。
「はぁ……助かった、って言うべきか……」
ぼそりと呟いた真田に、ハンドルを握る瀬戸が鼻で笑う。
「おいおい、何だその顔。あんなオッサン一人にいいようにやられたのか? 情けねぇな」
真田は目を閉じ、頭をシートに預けたまま答えない。
反論する気力もなく、唇をかすかに歪めただけで、視線は天井を向いたままだ。
「チッ……ぐうの音も出ねぇってか。
お前がそんな無様な面して黙ってると、こっちまで調子狂うんだよ」
瀬戸の声には苛立ちと、皮肉を空振りさせたような悔しさが混ざっていた。
それでも真田は何も返さない。
車内には、エンジン音だけが低く唸っていた。
「……瀬戸」
しばらく走ったあと、真田がようやく口を開いた。
「なんだよ」
「テメェ、良いところだったのに割って入って何の用だ」
誰が見ても完敗の喧嘩だった。
その一言は、疲れ切った頭で絞り出した精一杯の虚勢だ。
「前に電話しただろ? 会長に紹介してもらった除霊師の話だ。
お前も守ってやるから折半しろって言ったやつ。忘れたのか?」
「あぁ、除霊に一億もぼったくるインチキ野郎の話か。
興味ねぇから頭ン中からすっかり抜けてたわ。
テメェがぼったくられるのは勝手だが、俺を巻き込むんじゃねぇよ……。
つーわけで、この話は却下だ。俺の答えは変わんねぇ」
真田は冷たく突き放す。
だが、瀬戸もわざわざ車を出して迎えに来ただけに、すぐには諦めなかった。
「インチキじゃねぇよ。お前、話の最後まで聞かずに電話切りやがったろ。
あの人は“元・国際超常なんとか”って組織の除霊師なんだよ。国に認められたやつだ」
「ハッ!」
瀬戸が必死に説明するも、真田は鼻で笑う。
「自分でもよく分かってねぇ組織の名前に踊らされるなんて、相変わらずバカだな。
んなモン、口がありゃなんとでも言える──ん?」
真田は俯き、眉をひそめた。何かが引っかかったようだった。
(待てよ……前に除霊女の事務所を物色した時に見つけた名刺にも“国際超常なんとか”って書いてあった気が……)
真田は額を掻きながら、ぼんやりとフロントガラス越しの街灯を見つめた。
「まぁ、信じるかどうかは──本人に会ってから決めりゃいいだろ」
ようやくそう結論づけると、息を吐いて肩の力を抜く。
「なんだ? 信じる気になったか? なら折半の話も──」
瀬戸が横目で探るように笑ったが、真田は鼻で笑って遮った。
「馬鹿、それは高すぎだ。値切るに決まってんだろ?
──俺のやり方でな」
ぼそりと呟く声には、妙に重たい響きがあった。
瀬戸は苦い顔でシートにもたれかかる。
「……それ、正直あんまりオススメしない」
「何をビビってんだ? 黙って見てろ」
軽く睨み返す真田の横顔に、瀬戸は小さく舌打ちして視線をそらした。
どうせこいつは何を言っても聞く耳を持たない──そう悟り、もう何も言わなかった。
エンジン音だけが、車内の沈黙をかき混ぜる。
その静けさの中、後部座席に転がっていた青の水晶がふっと淡く光を放つ。
まるで呼吸するように、ゆっくりと明滅を繰り返す。
そして、その奥から──
何者かが、静かに二人を見ていた。
*****
エレベーターの電子音が鳴り、最上階の表示が灯る。
静かに扉が開くと、真夏にも関わらずひやりとした空気が二人を包んだ。
タワーマンションの最上階──だが、そこに広がるのは高級感ではなく、どこか現実から切り離された異様な静寂だった。
廊下の照明はやけに白く、壁や床の影が歪んで見える。
突き当たりの一室だけが、他とは明らかに違う気配を放っていた。
扉とその周囲には、所狭しと古びた札が貼られている。
紙は経年で黄ばみ、墨の文字がかすかに滲み、空調の風でわずかに揺れた。
札同士が擦れ合う音は──耳を澄ますと、人の囁きにも似ていた。
「着いたぞ。ここだよ……」
瀬戸が小声で言う。その声音には、冗談を交える余裕はなかった。
「俺が話してた除霊師の拠点のひとつだ。
この部屋には結界が張ってあって、化け物は近づくだけで消えちまうらしい。
実際、俺は“例の事件”の呪いやら怨念の影響を一切受けてねぇ。間違いねぇよ」
真田は壁一面の札を見渡し、鼻で笑った。
「結界ねぇ……。それにしても、ここまで貼りまくる必要あるか?
まるで“除霊やってます”って宣伝してるみてぇじゃねぇか。
どっちかっつーと除霊師より精神がブッ壊れた奴が出てきそうだな」
真田の言葉に瀬戸は苦笑し肩をすくめた。
「冗談はさておき──ここにいりゃ化け物に襲われる心配はねぇ。
……信じるしかねぇだろ」
真田は無言で顎に手を当て、扉をじっと見つめた。
思い出したのは──神城調査室の光景だった。
(あの除霊女の事務所も札は貼ってあったが、外まで飾るような真似はしてなかったな。
力がある奴ほど、外見は静かだ。力がない奴ほど、飾りで固める。
──つまり、この部屋の主は、そういう類か)
分析するように細めた目で、真田は小さく呟く。
「うん、大したことねぇな」
瀬戸はわずかに眉を顰めたが、何も言わず扉のノブに手をかけた。
金属がわずかに軋む音。
静寂の中で、それだけが異様に響く。
扉を開けた瞬間、室内の空気が一変した。
「……中もすげぇことになってんな」
中は外よりもさらに異様だった。
壁だけでなく、天井や床にまで札が貼られ、淡い光を反射している。
廊下の両端には、奇怪な形の置物が立ち並び、どれもこちらを見ているような気配を放っていた。
両脇の扉の前にも、まるで番人のように一際大きな像が鎮座している。
それは中の何かを封じ込めているようにも見えた。
──まるで異界だ。
この空間が、煌びやかなタワーマンションの一室だとは到底思えない。
「この先で除霊師が待っている」
瀬戸が呟く。
暗い廊下の突き当たりから、ガラス戸越しに柔らかな光が漏れていた。
瀬戸が静かにその扉を開け、真田は一歩、異様な部屋へと足を踏み入れた。
*****
扉を抜けた瞬間、空気が変わった。
湿り気を帯びた香の匂いが鼻をくすぐり、肌の表面に細かな圧がかかるような感覚が走る。
広い──奥のリビングは二十帖をゆうに超えていた。
だが家具は最小限で、余白というより“結界の間”そのもののような張り詰めた静けさが満ちている。
壁際には香炉がいくつも置かれ、淡い煙がゆらりと立ちのぼっていた。
煙の流れは妙に整っており、まるで目に見えぬ風の流路をなぞるようだ。
部屋の中央に、ひとりの男が座していた。
白髪交じりの髪を後ろで束ね、黒地の着物を纏う。
頭には烏帽子、両腕には何重にも数珠を巻き、膝前には鈍く光を反射する法具と数個の霊水晶。
年の頃は七十前後。骨ばった体だが、背筋はまるで一本の矢のように伸びている。
男は静かに目を閉じ、呼吸を整えていた。
唇がわずかに動くたび、低く湿った読経の声が喉奥で揺れ、空気そのものが微細に震えた。
その声に呼応するように、足元の霊水晶が青白い光を帯びて脈打っていた。
「……あの方が、例の除霊師だ」
瀬戸が小声で言う。
真田は無言で男を見つめ、眉をひとつ動かした。
まるで時代劇の中から抜け出したような出で立ち──だが、ただの年寄りではない。
視線を向けられただけで、胸の奥にずしりと重石が落ちるような圧を感じた。
その時、相楽がゆっくりとまぶたを開けた。
光のない瞳が、まるで心の奥を覗き込むように二人を見据えていた。
視線が重なった瞬間、真田は思わず呼吸を止めた。
「今戻りました。こちらは以前話していた真田という者です」
瀬戸の声はわずかに震えていた。
相楽は無言で立ち上がり、ゆっくりと真田の周囲を一周する。
足取りは静かだが、その存在感は異様なまでに濃い。
(なんだ、このジジイ……人をジロジロ見やがって、気持ち悪りぃな……)
真田の胸に苛立ちが芽生えた瞬間、相楽の口元がかすかに歪んだ。
「初めまして。儂は相楽 常道と言う者だ。
ここまで来てくれて嬉しいよ……」
意外にも、その声は柔らかかった。
張り詰めた空気がほんのわずかに緩む。
真田がわずかに肩を落とすのを見て、相楽は着物の袖から一枚の名刺を取り出し、静かに差し出した。
相楽 常道
国際超常対策機構・日本支部・心霊部副部長
登録番号:J-1901
対応区分:心霊事案・特A級(除霊/供養/呪殺)
「……国際超常、対策機構……」
その文字列を見た瞬間、真田の目がわずかに見開かれた。
(やはり、除霊女と同じ所属か……。
つーことは──とりあえず本物ってわけか)
目の前の老人が本物であることを確信しつつも、真田の胸にはまだ不安が残っていた。
霧子は、今回の呪いや怨念を未だに祓い切れていない。だから今も──いつ殺されるかわからない危険に晒されているのだ。霊能があっても、祓う力が伴わなければ意味がない。
「悪く思わないでくれ。あんたが本物っぽいのは分かった。だが肝心の腕はどうなんだ? 俺に付きまとってる霊は相当厄介らしい。あんたの前にこいつを別の除霊師に祓わせたんだが失敗してる……だから不安なんだよ」
相楽は軽く首を傾げ、しばらく考え込むように目を伏せた。やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「不安なのは当然だよ。君らに憑いているものは、儂が見てきた霊の中でも上位に入る。五本の指に入ると言って差し支えないだろう」
「やっぱり、難儀ってことかよ……」
真田が眉を寄せ、声を荒げる。苛立ちと焦燥が混ざった短い問いだ。しかし相楽は笑顔を崩さず、淡々と続ける。
「言っただろう、『五本の指』と。要するに、儂は少なくとも同じような相手と幾度も向き合ってきたということだ」
「つまり、やれるってことか?」
「そうだ。だが口先だけで安心を与えても意味はないだろう。実際のところ、見て確かめてもらうのが一番だ。明日、少しばかり出かけよう。そこで儂の力を見せよう。任せるかどうかは、その後で決めてくれればいい」
真田は一応、頷いたものの表情はまだ硬い。相楽はその心理も見透かしたかのように、軽く含みを持たせて言葉を重ねる。
「代金が気になるのだろう?」
その一言に、真田の身体がピクリと反応する。思わず視線を上げるが、問い返す声は抑えていた。
「何でそれを知ってるんだ?」
「おや、簡単な話だよ」
相楽は淡々と答える。声にはいやらしさはなく、むしろ落ち着きがある。
「瀬戸君に青い水晶を渡していてね──あれを通して、向こうの様子を遠隔で見守っていたんだ。彼は出かける時にいつもそれを車の後部に置いているね。ちょっとしたことなら、水晶越しに手も出せる。
──君と拳を交えた男を止めたのも、儂だ」
真田の目が一瞬、鋭くなる。あの瞬間──不動の動きが唐突に止まった理由。あれは、この老人の仕業だというのだ。
「……マジかよ」
思わず漏れた声に、相楽は柔らかく笑った。
「本題に戻ろう。代金のことだが……ある手伝いをしてくれたら負けてやってもいい。場合によっては、タダにしても構わない」
相楽の声は静かだったが、その言葉には奇妙な重みがあった。
真田は、薄く笑いながら老人を観察する。
(……何か企んでる顔だな。まぁいい、いざとなりゃこの痩せたジジイなんざボコれば済む話だ)
妙な凄みはあるが、所詮は骨ばった老人。殴れば骨の一本や二本、すぐ折れる──真田はそんな計算を胸の内で巡らせていた。
だが、同時に何かが引っかかる。言葉の端に滲む“確信”のようなもの。
それがどこから来るのか、自分でも分からなかった。
真田は息をのむ。──“ただ”で済む話ではない。
その予感だけが、じわじわと胸の奥に広がっていった。
その横で、瀬戸は小さく眉をひそめていた。
(おかしい……この除霊師は金にだけは妥協しないはずだ。
前に依頼した奴は、支払いを滞らせて夜逃げした。──数日後、干からびた死体で発見された。
その前の依頼者も、「安くしてくれ」とせがんだ翌日に……。
……この男に金を払えなかった者は、例外なく“死んでいる”。
なのに、なぜ今回は……?)
そのことを知らない真田は、警戒をにじませながらも口を開いた。
「で、相楽さんよ。──あんた、俺に何をさせてぇんだ?」
「なぁに、簡単なことさ。この“お守り”を肌身離さず持っていてくれればいい」
「……お守り、ねぇ?」
相楽が袖の奥からそっと取り出したのは、紫に光を帯びた小さな宝玉だった。
丸く滑らかな表面は鈍く脈動し、見ているだけで耳鳴りのような低い唸りが頭の奥を震わせる。
“お守り”というには、それはあまりに禍々しかった。
災いを祓うどころか、呼び寄せるために生まれた宝玉──そんな錯覚さえ覚える。
(……なんか、ヤベェ気配だな。だが──持つだけなら問題ねぇだろ)
真田に霊感はない。だが、肌の奥がざわつくような、原始的な嫌悪があった。
息を一つ整えると、真田はその宝玉を無言で受け取った。
冷たい。金属でも石でもない、まるで生きているような感触が手のひらに残る。
「……そんだけでいいなら、安いもんよ」
「ほっほっほっ……。そう言ってくれて嬉しいよ」
相楽は穏やかに笑った。
だがその口元は、笑っているというより“吊り上がっている”ようにも見えた。
誰も気づかないまま、その不自然な笑みだけが部屋に残った。
やがて相楽は再び法具を手に取り、静かな読経を始める。
瀬戸の案内で、真田は隣の部屋に通された。
リビングほどではないが、十分に広く、生活に必要なものは一通り揃っている。
真田は周囲を一瞥しただけで、ソファにどかっと腰を下ろす。
「……ゆっくり休める場所が確保できた。それだけでも、上等だ」
言葉とともに、まぶたが静かに閉じていく。
そして、かすかな香の匂いに包まれながら──真田はゆっくりと、夢の底へ沈んでいった。




