36話 灯火の下で
ソファにどかっと腰を下ろし、豪快に酒をあおる不動。
グラスを飲み干したタイミングで、柊夜が恐る恐る声をかけた。
「……そういえば、不動さんって、どうして神城調査室に?」
「おっ、まだ話してなかったな」
不動は顎をさすりながら、わざとらしく溜めを作る。
「まぁ理由はいくつかある。まずは──任務だ」
「任務……?」
「悪いが内容は秘密だ。組織の掟ってやつよ」
柊夜は「そっか」と頷き、不動の背後に漂う大人の事情を少しだけ感じ取った。
「あと一つは、昼間に見せただろ? あの呪いのDVD」
不動は指で円を作るように回しながら続ける。
「本当なら俺が担当する予定だったが、嬢ちゃんに任せたんだ。その経緯を伝えるため、ってわけよ」
柊夜は「なるほど……」と小さく相槌を打つ。
「で──ここからが本題だ」
不動は急に真顔になり、わざと声を低めた。
柊夜は思わず息を呑む。
「……この部屋の片付けだ!」
ドンッと胸を叩く不動。
柊夜は拍子抜けして椅子から転げ落ちそうになる。
「な、なんだそれ……!」
だが、今日で事務所がすっかり片付いたのは事実だった。重い家具はとてもじゃないが柊夜だけではどうにもならなかった。
柊夜は真っ直ぐ不動を見て、頭を下げる。
「ありがとうございます。不動さんがいなかったら終わってませんでした」
「おう、あんちゃんもよく働いたな」
不動は満足そうに笑い、再び酒をあおった。
*****
食事が片付き、柊夜は霧子と並んで台所に立ち、皿洗いをしていた。
背後ではソファに沈み込んだ不動が、豪快ないびきを響かせて眠りこけている。
「柊夜くん、これで皿洗いも終わりだな」
霧子が水気を払って布巾で手を拭いながら言う。
「うん、霧子さんの手際がいいから、あっという間に終わっちゃったよ」
「ふふっ。柊夜くんが手伝ってくれたおかげさ」
霧子は少し口元をほころばせてから、ふと部屋を見回す。
「それにしても、この部屋──」
柊夜も同じことを思っていたのか、渋い顔で頷いた。
次の瞬間──
『酒臭い!』
ふたりの声が重なり、見事にハモった。
思わず目を合わせ、互いに吹き出しそうになる。
その後、霧子は窓を勢いよく全開にし、柊夜は部屋の四隅に消臭剤を振りかけた。
夜風が流れ込み、わずかにアルコールのこもった空気を押し流す。
「柊夜くん、少し外で風に当たろうか」
「……うん」
二人は事務所を抜け出し、屋上へと足を運んだ。
高層ビルというわけではないが、眼下には街の灯りが点々と瞬いている。
強めの風が吹き抜け、蒸し暑さをいくらか和らげていた。
「今日は……せっかく片付けに来てもらったのに、私が留守にしてしまって申し訳なかった」
霧子は街を見下ろしたまま、少し声を落とす。
「いや、そんな……気にしなくていいよ」
柊夜は慌てて手を振ったが、霧子は続ける。
「先程、不動さんが口にしていただろう。呪いのDVDの件だ。
私がその依頼を受けたのは、この件にあの赤黒い怪異──観衆の呪詛が関わっているからだ」
「観衆の呪詛……」
柊夜の表情に影が落ちる。
「それって……つまり、姉ちゃんに関係があるってこと?」
真昼の行方がずっと頭を離れなかった彼の声には、抑えきれない焦りがにじんでいた。
「あぁ。真昼さんに繋がる手がかりがあればと思って──」
「ちょっと待って!」
柊夜は思わず割り込むように声を上げた。
「その前に……姉ちゃんがまだ成仏できていないのは、確かなことなんだよね?」
霧子は静かに頷き、ポケットから一枚の写真を取り出す。
それは──柊夜が最初に姉の異変を知った、あの写真だった。
写っているのは、生前の姿ではなく。
顔を腫らし、痛々しいほどの傷跡を残した真昼の姿。
そのままの形で、今もなお柊夜を見ているようだった……。
「この写真は、真昼さんの霊障によって変化したものだ。
原因となる霊が消えれば、変化した物は元に戻る。
だが──いまだ戻らないということは、真昼さんが現世に縛られたままという、動かぬ証拠だ」
「そんな……」
柊夜の胸に鉛のような重みがのしかかる。
彼は唇を強く噛み締め、夜風に紛れるほど低い声で呟いた。
「話を戻そう。今日の依頼でわかったことを共有しておきたい」
霧子の声音が少し硬くなり、柊夜は思わずごくりと喉を鳴らす。
「結論から言う。観衆の呪詛と真昼さんは……無関係だ」
「無、関係……?」
「観衆の呪詛が潜む異界で、真昼さんの痕跡を探した。しかし反応は一切なかった。
それは確かに無関係である証拠だが──同時に、今ある手がかりを失ったことも意味する」
霧子の眉間に深い皺が刻まれる。夜風が吹き抜ける音が、二人の間の沈黙をいやに大きく響かせた。
柊夜は必死で何か突破口を探り、絞り出すように声を上げる。
「じゃあ……“定位の経文”でも、見つからなかったの?」
「試した。だが、世界のどこにも真昼さんの反応はなかった」
「……どこにも?」
「あぁ。だが、それで一つだけ確かなことがある。
真昼さんは、この世界ではない異界に囚われている」
「囚われている……?」
「供養を受け入れ、一度は天に昇った。にもかかわらず、成仏していない。
つまり、真昼さんの意思に反して“何らかの力”が働き、彼女をこの世に縛りつけているのだ」
霧子はそこで一呼吸置き、柊夜を見やった。
「そう──因果の鎖だ。
以前、柊夜くんとその生き霊が強固な因果で結ばれていたように、真昼さんもまた何かに繋ぎ止められている。
あの時は、柊夜くんの復讐心が和らいだことで因果が弱まり、鎖を断てた。
真昼さんもまた、鎖を断つには……何らかの条件を満たさねばならないだろう」
柊夜は思わず肩を落とした。
自分の生き霊を払って尚、姉を縛るものがある。
その事実が胸を重く締めつける。
だが、霧子の瞳にはまだ揺るがぬ光があった。
「最悪ではないと私は思う」
そう告げる声には、不思議な確信が宿っている。
「真昼さんを縛っているのが観衆の呪詛ではなくてよかった。
もしそうなら、成仏のためにまず観衆の呪詛を祓わねばならなかっただろう。
──だが、それは不可能だ」
「ま、待って!? 祓えないって……どういうこと?」
「……わかった。柊夜くんにも伝えておこう」
霧子は観衆の呪詛の正体と、その成り立ちを語り始めた。
尽きることのない群衆の悪意、その圧倒的な力、祓いが通じぬ理由──。
柊夜はただ耳を傾け、言葉のひとつひとつを飲み込んでいった。
やがて説明が終わった頃には、夜の屋上に立つ二人の間に、重苦しい現実だけが残されていた。
「…………」
「柊夜くん?」
霧子が声をかけると、柊夜は俯いたまま唸っていた。
表情は見えないが、その肩からは重苦しい気配が滲み出ている。
やがて顔を上げる。
──その顔は、意外にも笑顔だった。
「……不幸中の幸いってやつかな。
たしかに手がかりはなくなった。けど、諦めなければチャンスはある。
それだけ分かればヨシ!」
霧子は思わず目を見開いた。
つい先日まで、些細なことで取り乱していた幼さを残していた青年は、この状況で笑っている。
もちろん、楽観視しているわけではない。
握りしめた拳は白く、唇は震えている。
不安を押し殺し、迷惑をかけまいとする柊夜の必死さが、痛いほど伝わってきた。
「柊夜くん……以前と変わったな」
「前を向くって決めたんだ。もう姉ちゃんを、不安になんてさせない……絶対に」
声は震えていたが、その眼差しはまっすぐだった。
霧子は胸に温かなものを覚えつつも、それを顔に出さぬよう努める。
「本当に成長した。真昼さんが見たら、きっと喜ぶだろう」
「はははっ……ありがとう」
柊夜は照れくさそうに鼻を指でぬぐった。
その時──。
ガラッ、と音を立てて扉が開く。
夜風と静けさをぶち壊すように、赤ら顔の男が千鳥足で現れた。
「おいおい、俺を仲間はずれにするなんて酷ぇじゃねぇか。寂しいぜ〜」
不動だ。まだ酒が抜けきらず、両手を広げてふらふらと二人に絡みつく。
二人は顔をしかめて、声をそろえた。
『酒臭っ!!』
不動の耳を直撃したその一言に、一瞬呆気に取られるも──すぐに表情はほころび、豪快な笑い声を上げる。
「ははははっ!」
その笑いを背に、柊夜がふと腕時計に目をやった。
「あっ……もうこんな時間!?
明日も朝から講義なので、この辺で失礼します!」
「付き合わせて悪かったな。真昼さんのこと、何かわかればすぐ連絡する」
「いえいえ! 賑やかで楽しかったです。また一緒に夕飯しましょう!
それじゃあ、お疲れ様でした!」
柊夜は軽やかな足取りで事務所を後にし、夜の街へと消えていった。
*****
「さて……今日はもう休もうか」
霧子が小さく伸びをして、と事務所へ戻ろうとした、その時。
不動が立ち上がり、肩を鳴らした。
「悪ぃ、俺はちょっと野暮用で出てくる」
霧子は振り返り、半ば呆れたように言う。
「……タバコの買い足しなら、少しは我慢したらどうだ?」
不動は口元を吊り上げたが、すぐに笑みを消し、低く答えた。
「それもあるが──まあ、ちょっとな」
霧子はその変化を敏感に察し、追及はせずに短く告げる。
「……気をつけて」
「任せろ」
軽く片手を挙げ、不動はビルを降りていく。
階段を下りる途中、ふと足を止める。
空気の粒子がざわめき、肌が粟立つ。
──これは勘なんてもんじゃない。
獣が血の匂いを嗅ぎ取るように、不動の中に眠る“何か”が反応していた。
「……殺気、か」
呟いた声は低く、煙草の箱を弄ぶ手がわずかに震える。
ただの通り魔のそれではない。むせ返るほど濃い、研ぎ澄まされた人の悪意。
目を閉じるだけで、その刃先がどこに潜んでいるか分かるほどだった。
不動は小さく鼻で笑い、夜の街へ歩みを進めた。
「さて……何事もなけりゃいいがな」




