34話 命は救えずとも
霧子は静かに経文を唱えた。
途端、周囲を漂っていた無数の光が脈打つように膨らみ、ひとつ、またひとつと人の形を取り戻していく。
砕け散る前の幽体に戻った十数人の亡者たちは、次第に表情に戸惑いを浮かべ──やがて歓喜に変わった。
「こ、ここは……?」
「あれ、俺……さっきまで化け物に……」
「この景色──元の世界だ! 地獄から解放されたんだ!」
涙を溢し、抱き合い、嗚咽混じりの笑い声を上げる亡者たち。
寂れた山間の神社は、まるで祭りのような賑やかさに包まれた。
だがその喧騒から少し離れ、ひとり夜景を見つめている影がある。木村だった。
「木村……」
霧子は歩み寄り、姿勢を正した。
「わたしだ。異界で共に行動していた霊能力者──あなたの妹の楓子さんから、あなたを異界から救うようにと依頼された者だ。
あぁ、名乗っていなかったな。名は神城 霧子という」
木村は視線を夜景から外し、霧子を見た。そして軽く頭を下げる。
「神城さん、ありがとな。こうしてまた元の世界に戻って来られたのは……あんたのお陰だ」
霧子は首を横に振り、深々と頭を垂れた。
「……いや、それが違う」
声が震え、喉の奥がひりつく。握りしめた手は血が滲むほどに強張っていた。
「あなたは確かに現世に戻って来られた。だが、その身体はもう……。あなたは既にこの世の者ではない。
私は──あなたの命を救えなかった。力が至らず……本当に、申し訳ない……」
その言葉を吐き出した瞬間、胸の奥を裂くような悔しさが込み上げる。
もっと気の利いた言葉で、もっと誠意を示したいのに。
頭を垂れる自分が、ただ無力さを突き付けられた子どものように思えて、霧子は己を嫌悪した。
「……いや、それは違う」
木村が、ゆっくりと歩み寄ってきた。霧子の肩に置かれた手は驚くほど穏やかで、その瞳には自責と悔恨が滲んでいた。
「俺が死んだのは……神城さんのせいじゃねぇ。
言いつけを破って結界を出た俺が悪いんだ。あんたの苦しむ姿を見て、どうしても助けたくなって……」
口にした瞬間、自分でもその言葉が空々しいとわかった。
見栄や言い訳のための虚しい嘘で取り繕うなんて、今更無意味だと木村は感じた。
「……いや、違う。つまらない言い訳はよそう。ただ、俺は己の欲に負けただけの話。自業自得だ」
木村は苦く笑い、だが視線は揺れて落ち着かない。言葉を重ねるごとに罪悪感が膨らんでいくのを、自分でも抑えきれないようだった。
「死ぬ瞬間、俺は絶望してた。もう二度と元の世界には戻れねぇ、この血まみれの地獄で永遠に化け物の玩具になるんだろうなって……。
でもあんたは──そんな俺を見捨てなかった。砕けた魂を拾い集めて、ここまで連れ帰ってくれた。
……感謝してもしきれねぇよ」
木村の声は震えていたが、その奥には確かな安堵があった。
霧子は胸の奥がじんと熱くなるのを覚えながらも──「死なせてしまった」という事実が喉を塞ぎ、言葉を返すことはできなかった。
彼女にできたのは、ただ黙って木村の言葉を受け止め、静かに頷くことだけだった。
「それにしても……正直驚いたよ。俺をクズだと罵っていた妹が、俺の死をあそこまで泣いて悲しむなんてな」
その言葉に霧子は少し首を傾げる。
「そこまで嫌われていたのか? いや、楓子さんもたしかに“クズな兄”とは言っていたが……。喧嘩でもしたのか?」
木村は苦い顔をして視線を逸らした。
「喧嘩なんてもんじゃねぇ……。きっかけは、くだらねぇ話なんだ」
彼は夜空を仰ぎ、吐き出すように語り始めた。
「中学ん時だ。俺の部屋に隠してた本を妹に見つけられてな……。
女を無理やりモノ扱いするような漫画だ。胸糞悪いって思う奴の方が普通だろうな。
……でも、俺は昔からそういうのが好きでさ。今だって変わっちゃいねぇ。むしろ、現実じゃなきゃ満足できねぇくらい悪化して……結局、それが原因で死んだんだから笑えねぇよな」
木村は歯を食いしばり、夜景に照らされた顔を苦しげに歪める。
「妹は、それを親に告げ口して……俺は逆上して、手が出ちまった。
殴った拍子に妹が転んで、額を切って血を流して……それっきりだ。
兄貴としてじゃなく、人間として──あの瞬間に見限られたんだ。親からも冷たい目を向けられて、俺は勝手に被害者ぶって家から距離を取って、グレて……」
声は震え、拳は膝の上で白くなるほど握りしめられていた。
「……全部、自業自得だ。だからこそ、あんなふうに泣いてくれるなんて思いもしなかった」
彼の表情がほんの少し緩む。今も妹に想われているという事実が、心の奥に小さな温もりをもたらしたのだろう。
「楓子さんを殴って怪我をさせたこと……後悔しているようだな」
霧子は思わず口を開く。木村はすぐには答えず、夜景を見つめたまましばし沈黙し──小さく呟いた。
「……後悔してる」
やがて彼は視線を戻す。その瞳は揺れ、光を宿しながらも翳りを帯びている。
「俺、馬鹿だなぁ……。あの時すぐに謝ってれば、こんなことにならなかった。
なのに今さら後悔して、頭ん中じゃ“こうすりゃよかった”“ああすりゃよかった”って、際限なく浮かんでくる」
そのぼやきに、霧子の口から飛び出したのは、思いもよらぬ言葉だった。
「あぁ、確かに馬鹿だ」
直球すぎる霧子の言葉に、一瞬その場が凍りつく。
ただ一人、後ろにいた不動だけが腹を抱えて笑いを堪えていた。
「はっ? えっ? 思っててもそんなハッキリ言うか普通!?
間違っちゃいねぇけど、そこはもうちょっとオブラートに包むとかさぁ!」
涙ぐんでいた木村は一転して目を丸くし、霧子の容赦ない一言に食ってかかる。
だが、霧子はふっと笑みを浮かべ、続けた。
「確かに馬鹿だ。……だが、後悔し、反省できる心を持っていた。それだけで十分だ。
あなたはクズなんかじゃない。それだけは、私が保証する」
その言葉に、木村の肩から力が抜けた。
彼は小さく、しかし確かな声で呟いた。
「……ありがとう」
木村は自分の死を心から悲しむ楓子の涙を思い出しその胸の奥が熱くなる。
「……本当に嫌われてたんなら、あんな泣き方はしないよな。
あいつ、言葉では突き放してたけど……心の底じゃ、俺を赦してくれてたんだ」
かすれる声で呟いた途端、堪えていたものが決壊した。
木村の瞳から溢れる涙は、悔恨の涙であり、同時に救いの涙でもあった。
それを静かに見届け、霧子は間を置いて言葉を紡ぐ。
「赦すことは、生きている者にしかできない。
だが……お前は最期に、その赦しを確かに受け取れた」
木村の口元が、僅かに歪む。
泣き笑いのような、どうしようもなく人間らしい顔。
「……なら、もう十分だ」
安堵と共に残したその一言。
次の瞬間、木村の魂は柔らかな光をまとい、揺れる炎のように空へと昇っていく。
見上げる霧子の瞳にも、淡い光が映っていた。
その表情には、戦いを終えた者だけが見せる静かな満足が宿っている。
「さて──これより、ここにいるすべての魂の供養を執り行う」
呼びかけに応じるように、亡者たちが列をなし、静かに歩み出す。
一人、また一人と光に包まれていく彼らに、霧子は確かな眼差しを注いだ。
形式は簡易であれど、その目は一人一人の最期を確かに見届けている。
「命は救えなかった。……だが、その魂はきっと救えた」
少し離れたところで、不動が小さく呟く。
その横顔は厳ついままなのに、口角だけがわずかに上がっていた。
*****
亡者全員の供養を終え、神社は再び静寂に包まれた。夜風が木々を揺らし、本殿の鈴がかすかに鳴る。さっきの喧騒が跡形もなく消え、境内には乾いた夜の冷気だけが残った。
「終わったみたいだな。じゃあ事務所に──んん、その顔。まだ何か言いたげだな?」
供養の直後でも霧子の表情は硬いままだった。目は何かを不動に訴え、言葉を待っているように見える。
「さすが不動さんだ。顔を見ただけで察するとはな」
「そりゃな。俺は嬢ちゃんに手取り足取り色々教えた“師匠”みてぇなもんだからな」
不動は軽く笑ったが、すぐに真面目な表情へと切り替える。夜の静けさが、二人の声をより際立たせた。
「今回の除霊で分かったことを報告する」
「頼む。ぜひ聞かせてくれ」
霧子は深く息を吸い、観察した事実を順を追って落ち着いて伝え始めた。
「まず一つ。観衆の呪詛の性質だ。端的に言えば、あれは“断罪対象”にしか興味がない。
私が異界を単独で歩いている間、分裂体と何度もすれ違ったが、こちらを見向きもしなかった。まるで存在しないかのように振る舞っていたんだ。だが、断罪の邪魔をすれば襲ってくる。例外はある、ということだ」
「なるほど。要するに、余計な干渉さえしなけりゃ基本的には危険はないわけか」
「次に、分裂体の形について。SNSで断罪中の映像に映る赤黒い人影が、いわゆる分裂体の典型形だ。だがそれだけじゃない。異界の内部に見える“山”や“丘”といった地形の多くも、実際は分裂体として機能している。
体が大きければ、そのぶん力も段違いに強い。要するに、異界の“もの”の多くが分裂体になり得る」
「それじゃあまるで異界そのものが──」
霧子は不動の言葉を遮るように眼を見開き、静かに言った。
「察しの通り。これらの特徴を総合すると、観衆の呪詛の“本体”は、この異界そのものだと結論づけられる」
不動は口元を緩め、乾いた笑いを漏らす。だがその目は険しく、笑いの裏に深い懸念が見え隠れした。
「ははは……想像を遥かに超えてヤバいってわけだ」
沈黙が一拍置かれる。異界が“本体”であるなら、従来の除霊術や人海戦術では根本的に対処できない。事態のスケールが違うのだ。
「でだ、組織が十数人の選抜チームで討滅に乗り出そうって話を進めてるんだが──嬢ちゃんはどう思う?」
「絶対にやめた方がいい」
不動は霧子の即答を受け止め、彼女の顔をじっと見つめた。霧子はそのまま、理由を続ける。
「観衆の呪詛は“例の事件”に触れた多数の人々の“断罪したい”という感情が積み重なって生まれた、いわば"生き霊の一種"だ。生き霊は、その発生源となった人々の想いが変わったり、記憶が消えない限り完全に消滅することはない。
しかし例の事件は、残虐性が広く知られ、数十万、いや数百万に及ぶ記憶や怨嗟が世に刻まれている。
完全に“消す”には、現実的には日本中からその事件の記憶と記録を消し去るくらいのことをしなければならない」
不動は言葉を噛みしめるように吐き出した。
「要するに、普通の討滅作戦で何とかなるレベルじゃねぇってことだな。いや、もはや除霊不可能か……。
難儀なもんだな」
霧子と不動は、暗い夜空を見上げた。境内の影が長く伸び、ふたりの影が重なり合う。どちらも、答えの出ない悩みを抱えていた。
「観衆の呪詛のことは一旦後回しだ。考えたって仕方がねぇからな。
それより嬢ちゃん、朝比奈 真昼の魂は連れてきてねぇのか?
それとも先に成仏させちまったか?」
「いや……真昼さんの魂は、あの異界には存在していなかった」
異界の探索中、霧子は簡易的な"定位の経文"を試みていた。
普通の定位とは違い、詳しい位置までは分からない。だが“そこに魂があるか否か”だけは確かに示す──異界全体を範囲としたにもかかわらず、真昼の気配は一度として反応しなかった。
霧子の言葉に、不動が腕を組んで唸る。
「ちょっと意外だな。てっきり観衆の呪詛と行動を共にしてると思ってたんだが……」
次の瞬間、不動はハッと何かに気づく。
「いや、考えてみれば不思議でもない」
少し間を置いて、不動は言葉を選ぶように続けた。
「観衆の呪詛は事件を知った人間たちの"加害者を罰したい"想いから生まれたもんだ。だったら、真昼と接点がない方が筋は通る。ネットを見りゃ加害者を糾弾する声は山ほどあるが……被害者の安らかな眠りを願う声は、驚くほど少ねぇ。世間の目は残虐さばかりに奪われて、肝心の被害者には向いてない」
霧子は小さく息を吐いた。
「……だから観衆の呪詛も、真昼には最初から興味を持たなかった、というわけか」
不動は頷き、「皮肉なもんだ」と吐き捨てるように呟いた。
「観衆の呪詛のことは俺や組織で対処に当たる。嬢ちゃんはあんちゃん──朝比奈 柊夜からの依頼に専念を──」
言いかけて、不動は目を見開く。
バタン──。
今日やるべきことを一通り終えた霧子は、緊張の糸が切れたようにその場に倒れ込んだ。
「すまない、肩を貸してくれ。私はもう動けないようだ……」
掠れたような声で霧子が手を伸ばす。
その必死さに、不動の表情からも緊張が抜け落ちる。ニカッと笑うと霧子の身体を抱き起こし、自分の肩に手を回させて歩き出した。
「禍祓にごっそり持ってかれたな? それだけじゃねぇ、助けた亡者たちにまで自分の霊力を分け与えてたんだ、そりゃそうなるわな。
安心しろ、事務所に帰ったらすぐ飯が食える。俺とあんちゃんで肉料理をどっさり作ったからよぅ」
不動の言葉に、霧子は疲れきった顔ながらも微かに笑みを浮かべ、静かに頷いた。




