33話 夜の灯に沈む涙
木村が死んだ──。
張り詰めた糸がぷつんと切れるようにシルバーコードは千切れる。幽体は無惨に引き裂かれ、きらめく破片となって虚空に散っていった。
「くっ……くそっ……くそぉっ!!」
膝から崩れ落ちた霧子は、拳を固く握り締め地を叩いた。
食い込む爪が掌を切り裂き、鋭い痛みが胸の奥の悔しさと重なり合う。
その苦さに喉が震え、言葉は嗚咽に変わった。
「断罪……完了……」
頭上から低く響く声。
見上げれば、巨大な怪異が満足げに細めた目でこちらを見下ろしていた。だが、その視線は霧子を素通りする。そこには何の関心もない。
周囲の分裂体も同じだった。つい先ほどまで強い殺気を纏って襲いかかってきた怪異たちが、一斉に背を向け、散っていく。
「なっ……何だ? こいつら、行くのか……?」
その変化に、霧子の瞳がかすかに揺れる。
だがすぐに理解が追いついた。
──この異界に入ったときから、怪異たちは彼女を顧みることはなかった。
彼らにあるのはただ一つ、『断罪』という本能だけ。霧子は初めから存在しないも同然なのだ。
(……そうか。奴らの眼中にあるのは、加害者を裁くことだけ。
他者は最初から舞台に上がる資格すらない──これが“観衆の呪詛”の本質か……)
唇を噛み、俯く。
無力感が喉元まで込み上げる──だが、それで終わるわけにはいかない。
「木村……助けられなくてすまない」
かすれた声で、霧子は虚空に向かって呟いた。
「命は救えなかった。だが……まだ終わってはいない」
涙に濡れた瞳を固く閉じる。
霧子はまだここでやるべきことがあった。
そのために、彼女は立ち上がらねばならない。
霧子はゆっくりと立ち上がり、静かに息を吐いた。
異界の瘴気が皮膚を焼くようにまとわりつく中、彼女は一点に心を集中させていった。
*****
数時間後──長い異界での散策を終え、霧子は現世へと戻っていた。
「兄さん、起きて! 兄ちゃん──」
楓子は震える声で兄を呼び続ける。
だが返事はない。眠っているだけのように見えるその身体は、すでに体温を失い、氷のように冷たかった。まぶたは二度と開かず、声も返らず、脈すら打たない。
「……嘘だよね。助けるって言ったじゃん……!」
「すまない……」
震えは嗚咽に変わり、嗚咽はやがて怒りに転じる。やり場を失った激情が、隣に立つ霧子へと向けられた。
「……あんた、ホントはインチキなんだろ! その白い髪もキャラ作りで、最初から騙すつもりだったんだ!
霊能力者? 除霊師? 笑わせないでよ!
何が"私に任せろ"よ、結局兄ちゃんは帰ってこなかったじゃん……!」
「……本当に、申し訳ない……」
「安さに釣られて、あんたのところに頼んだのが間違いだった! お金を惜しまずもっと腕のいい人を呼んでたら……兄ちゃんは……兄ちゃんはまだ生きてたのに……!」
小さな拳が霧子の胸を叩く。力は弱い。だが吐き出される言葉の一つひとつが鋭い棘となって突き刺さる。
「無能! 無責任! 人殺し……! 返してよ! 私の兄ちゃんを返してよおっ!!」
その叫びは、幼き日に兄を慕っていた少女の心そのものだった。強がりも理屈も、もはやどこにもなかった。
霧子はただ唇を噛み、俯きながら謝るしかなかった。
(……弟と母を奪われ、地面に縋って泣き叫んだ、あの日の自分と同じだ)
耳に響く楓子の絶叫が、記憶の底を引きずり出す。
──『うっ……お母さん……霞真ぁ……』
墓前に崩れ落ち、声が枯れるまで泣き続けた、あの日。
家も、家族も、尊厳も──何もかも失い、取り戻せるものなど一つもなかった。
今、目の前の少女が吐き出す言葉は、あのときの自分と同じ痛みでできていた。
胸の奥に、鈍い痛みがせり上がる。嗚咽を飲み込む代わりに、喉の奥へ鉄の味が広がった。
*****
霧子は神社の高台に立ち、夜の街を見下ろしていた。
石段の先には、無数の灯りが星のように瞬いている。そのひとつひとつの下に、人の命と悲しみがあるのだと思うと、胸の奥が重く沈む。
砕け散った魂の欠片が光の粒となり、霧子の周囲を静かに漂っていた。
霧子はその光にそっと手を翳し、己の霊力を注ぎ込む。
(命は救えなかった。だが──せめて魂だけは。このまま終わらせはしない)
「おっ、いたいた。嬢ちゃん、やっぱりここにいたか」
背後から響いたのは、聞き慣れた低い声だった。
振り返ると、不動が片手を上げながら石段をのしのしと上がってくる。
「帰りが遅いから探したぞ。事務所の片付けも終わっちまった」
「……依頼は失敗だ。木村を救えなかった」
吐き出すように告げた言葉に、不動はわずかに目を細め、小さくため息をついた。
「そういう顔をするな。元々この件は俺に来た依頼だ。例の観衆の呪詛が絡んでるかもしれねぇってんで、嬢ちゃんに回した」
「やはり……あなたが受けていれば」
「無理だな」
その言葉は即断だった。
「このDVDの呪いには、すでに八人の除霊師が挑んでる。結果は全滅だ。誰一人、被害者を救えてねぇ。それどころか三人は帰ってこなかった。……俺だって同じさ。きっと助けられなかっただろう」
不動は夜風を受けながら、ぽつりと呟く。
「誰が悪りぃのかって言うなら、強いて言えば俺だな。詳細をよく確かめもせずに嬢ちゃんに押し付けた、俺の失態だ」
霧子は歯を食いしばり、拳を握りしめる。
「……だからといって、犠牲が許されるわけではない」
「真面目だな」
不動は口元を緩め、どこか寂しげに笑った。
「その真面目さは、嬢ちゃんのいいところだ。真剣に向き合うからこそ霊も心を開く。……だがな、全部背負い込んだら潰れるぞ。俺たち除霊師は、人の死に慣れることを強いられる。慣れられなくて心を壊して辞めていった奴なんざ、腐るほど見てきた」
言葉の一つひとつが重く胸に沈む。だが霧子は、静かに首を横に振った。
「……そんなふうに割り切れない。弟と母を、あの日……目の前で失った。だから……」
声が震えた。喉の奥に鉄の味が広がる。
不動は遮らず、ただ夜景を見つめながら耳を傾けていた。
「だからこそだろ」
低い声が、闇に溶けて響いた。
「弟さんやお袋さんみたいな犠牲を、そして嬢ちゃんみたいに残されて苦しむ遺族を、一人でも多く減らしたい。……そう思うから、あんたはまだ立ってる」
霧子の胸奥に、止まっていた歯車が再び噛み合う。
深く息を吐き、閉じていた瞳を開くと、その瞳には再び強い光が宿っていた。
「……もちろんだ。だが、少し待ってくれ。今、終えるから」
漂う魂の欠片に再び手を翳し、強く霊力を注ぎ込む。砕けていた光がひとつ、またひとつと繋がり、やがて形を取り戻していく。
不動はその行為の意味を悟り、口角を上げた。
「……やっぱり、そう来るか」
霧子の口から紡がれる言葉が、夜空を震わせる。
「南無浄斎神光王──眼前を漂う魂たちよ、今こそその姿を現したまえ!」




