32話 悪意の巣窟
「南無──災業禍祓咒! 我が妖刀よ、その力を持ってこの異界と現世の一切の繋がりを断てっ!」
悍ましい霊気を帯びた刃が異界と現世を繋ぐ穴を一閃する。
先程まで凄まじい霊気を吐き出していた空間の裂け目は、嘘のように収束し、無へと還った。
霧子もまた現世から姿を消し、この狂気の世界へと完全に足を踏み入れた。
(……酷い環境だな。空気そのものが悪意を孕んでいる)
踏み出した瞬間、五感すべてが拒絶を示し本能が危険信号を発して全身は意思とは無関係に緊張し強張っている。
空は血に濡れたような赤黒さで、視界の端がじわりと滲む。
鼻を衝くのは、獣の死骸を夏に放置したかのような、吐き気を催す腐臭。
足元は泥ではなく腐肉。踏み込むたび、靴裏がぬるりと沈み、内部で何かが潰れる感触が伝わる。
遠くからは、何かを捏ね潰すような『ぐちゅぐちゅ』『ずるり』という音が絶え間なく響き、誰かの鼓動と同調するかのように空間が脈動していた。
見るもの、嗅ぐもの、聞くもの、触れるもの──すべてが正気を削るために仕組まれているとしか思えなかった。
(この状況でシルバーコードを見失わずに辿るのは骨が折れるな……)
だが霧子は慣れていた。
これまで幾度も悪霊の創った虚構の世界に踏み込み、その中で正気を保ち続けてきた。
さらにここに来る前、静かに瞑想し、呼吸を整え、心を一点に縫いとめる術を備えていた。
だからこそ、常人なら一歩で錯乱するこの異界でも、霧子は冷静に足を進められた。
「……やはりいたか、赤黒い怪異たち」
周囲を警戒しながら歩を進めると、赤黒い影が蠢いているのが見えた。
無数の怪異たち──血と肉片を寄せ集めたような異形の群れ。
しかしいつもと様子が違う。こちらを認識した瞬間に襲いかかってくるはずの彼らは、視線すら寄越さない。霧子の横を素通りし、まるで存在を認識していないかのように歩き去っていく。
(まるで……私の姿が見えていないかのようだな)
よく観察すると、怪異たちの気配や霊気はすべて同質のもので、この奥に潜むであろう"観衆の呪詛"と完全に一致していた。
(この赤黒い怪異どもは、呪詛の分裂体といったところか)
襲ってこないのは好都合だった。
霊を祓いながらでは、ただでさえ薄く見えにくいシルバーコードを辿るのは難しい。
冷静さを保ったまま、霧子は目を凝らしながら進んでいく。
やがて前方に巨大な山が姿を現し、周囲には大小様々な丘が連なっている。
それらは自然の山のように木々を纏ってはいない。赤黒い肉の塊が幾重にも盛り上がり、どれも生き物のように脈動して揺れていた。
まるでこの世界そのものが一つの巨大な肉体であるかのようだった。
(……霊が創る異界は何度も見てきたが、これほどの規模は初めてだ。
ここはもはや、ただの異界ではない。一つの異世界として成り立っている……)
*****
「ギャァァァァ、助けてくれっ!」
あれからずっと俺は走っている。今までの人生で一度だって、こんなに必死になったことはねぇ。
背後からは赤黒い化け物の群れが押し寄せてくる。しかも振り向くたびに数が増えてやがる。最初は数十体だったのに、今じゃ百も二百も──都内のスクランブル交差点みたいな密度で、全部が俺一人を狙って追いかけてくる。
ザッ、ザッ、ザッ……無数の足音が重なり合って、波みてぇに押し寄せてくる。耳を塞ぎたくても、音は脳天にまで響いて逃げ場がねぇ。
「はぁ……はぁ……ッ、ダメだ、脇腹が……!」
肺が焼けるみたいに痛ぇ。足も棒みたいになってる。このままじゃすぐ追いつかれて──。
「ッ!?」
振り向いた瞬間、背筋が凍りついた。
俺と化け物どもの距離……全然変わってねぇ。俺が遅くなってんのに、だ。
……まさか。わざと俺の速度に合わせてんのか? ギリギリ捕まらないように?
血相変えて必死に走る俺を、楽しんでやがるのか?
「畜生……性格悪ぃ化け物だぜ──うわっ!?」
足が宙を切った。次の瞬間、腰から地面に叩きつけられ、視界が白く弾け飛んだ。
落とし穴だ。必死で走るうちに、大きな穴に気づかずスッポリ落ちちまった。
幸い地面はぶよぶよしてて、クッションみてぇに衝撃を吸ってくれた。だが手にべっとり付いたのはぬるぬるした液体。鼻をつんざく腐臭に思わず吐きそうになる。
ドドドドド──!
頭上を化け物の大群が走り抜ける。俺が落ちたのに気づかず、そのまま通り過ぎちまったらしい。
音が遠ざかってから、恐る恐る穴から顔を出す。……いない。
安堵と同時に、心臓がまだ耳元で暴れてやがるが……。
「へっ……馬鹿で助かったぜ」
穴を這い出し、再び前へ進む。こんなところで立ち止まってりゃ、また見つかっちまう。出口を探さねぇと──。
「いって……なんだこれ」
足が何かに躓いた。見れば太い管のようなものが地面から這い出している。
しかも、動いている。トクトク……と脈を打ってる。
血管……?
背筋が氷水を浴びせられたみてぇに冷えた。
さっきのぶよぶよの地面といい……ここ全部が、一つの生き物の内側なんじゃねぇか……?
「──っ」
影に覆われたような感覚に一瞬で心臓を掴まれた。
この世界の中にいる時点で、もう助かんねぇんじゃないかって。
慌てて頭を振る。ダメだ、考えるな。飲まれたら終わりだ、と必死で言い聞かせる。
──やがて視界の奥に山が見えてきた。大小の盛り上がりがいくつも連なっている。
だがそれは石や岩の山じゃない。すべてが赤黒い肉塊。どれも生き物のように、ゆるやかに蠢いていた。
心臓みてぇに、規則的に脈打ちながら。
「ギャァァァァッ、やめろぉぉぉっ!」
耳をつんざく悲鳴に思わず身を竦ませる。
小山の陰に隠れ、恐る恐る覗くと──人がいた。
化け物じゃねぇ、紛れもなく俺と同じ人間だ。だが、そいつは赤黒い化け物に殴られていた。
さらにその手前には、ずらりと並んだ化け物ども。きちんと列を作り、人間が殴られる様を見て──笑ってやがる。
まるでショーでも見てる観客みたいに。
「酷ぇ……血まみれで泣いて命乞いしてんのに、それすら楽しんでやがるのか……? 外見だけじゃねぇ、心まで化け物かよ……」
思わずそう呟いて──俺は気づいた。
「……俺も同じじゃねぇか」
ついさっきまで、壊されて泣き叫ぶ女のDVDを見て興奮してた。
化け物が化け物を笑う。……笑えねぇ。
「……自業自得?」
頭に浮かんだ四字熟語を全力で振り払った。
そんなわけがあるか。認められるか。俺は……俺は……。
「ミテタダケ……悪クナイ──」
そうだ、俺は見ていただけだ。画面の前でただ観て、興奮して、悦しんでいただけだ。それの何が悪い。俺の勝手だ! 俺は誰も傷つけちゃいねぇ。何もしてない──わかるだろ、そうだろう!?
「うわぁぁぁぁっ!」
次の瞬間、俺の真横に化け物が立っていた。耳元で囁かれるような冷たい声──さっきの声だ。気配もなく近づいてくるなんて……。心臓が、胸を突き破って飛び出すかと思った。
「見タ、ソレ、同罪」
背後からも声。振り向けばもう一体。いつの間に増えたんだ。
奴らは細くて痩せこけた体型だ。殴れば案外いけるんじゃねぇか?
いや、松野を嵌めた時に見たあのゾンビみてぇなのだって顔面殴られてビクリともしてなかった。化け物に常識が通用するなんて思わねぇ方が良さそうだ。
無駄に動けばスタミナ削れるだけ。ここは慎重に──逃げればいい、また穴に隠れてやり過ごせば──。
「なっ!?」
瞬きした、ただそれだけの間に数が増えていた。周りを見れば、俺を取り囲む赤黒い影。逃げ道は一つもない。微かな希望は音を立てて崩れていく。
──ゴクリ。
喉が鳴った。汗が全身から噴き出す。呼吸が浅くなる。心が先に逃げ出しそうだ。
奴らの口角が上がる。笑っている。俺を見て楽しんでいる。
その腕が、粘土のようにくにゃりと動く。指が伸び、肉が蠢き、やがて先端が変形していった。
バット。カッター。バール。
あのDVDで見た凶器と同じ形だ。瞬時に本能が叫ぶ──あの映像だ。あいつらはあの映像の再現者だ。俺も、あの画面の中の奴らと同じ運命を辿るのか?
「冗談じゃねぇ、助けてくれ……助けてくれぇぇ──!」
情けない叫びがこだまする。肉の山々に吸い込まれるように反響して、声は余計に虚しく戻ってきた。
凶器が一斉に振り下ろされる気配。雨のように、容赦なく。終わった、これで俺の人生も終わりだ──。
「…………」
全てが、静まったかのように思えた。
「………………」
終わっ……た?
「…………あぁ?」
俺という存在を乱暴に塗りつぶすように取り囲んでいた赤が、音もなく消えていく。俺の周りの圧がふっと消えた。代わりに、白。白髪の女が、一本の黒い刀を携えて立っていた。
女はゆっくりと振り返る。瞳がこちらを捕らえた瞬間、俺の全身の力が抜けた。
「よかった、まだ生きているな。もう大丈夫だ、私があなたを助ける」
*****
助かった……のか?
目の前の女が化け物を一掃したらしいが、あの数の化け物全てを持っている刀で斬り伏せたのか? そもそもこんな地獄の奥に平然と踏み込んでくるなんて、何者だよ……。いや、今はそんなことどうでもいい。助けてくれるならありがたい。
ズズズズズ……。
地面が蠢き、不快な音とともに赤黒い影が再びせり上がってきた。肉の土から芽吹くみたいに、化け物が次々と生えてくる。さっきとは違う。俺に注がれる視線だけで皮膚が焼けるようにヒリつく。アイツら、明らかにブチギレてる。膝は勝手に震えているのに、俺の前に立つ女はまるで石像のように動じない。
「木村さんだな? 妹さんに頼まれて、あなたを助けに来た」
「楓子……が?」
信じられない。あれだけ『クズだ』だの『人でなし』だの罵ってきた楓子が……? 俺なんかを?
いや、そんなことより部屋に山積みのDVDのこと、知られてなきゃいいが……。
「さ、こいつらを振り払ったら走るぞ」
「あ、あぁ……」
女が口を開いた。聞いたこともない調子の声、呪文みたいな響きが重く宙を震わせる。これはお経か? それとも何かもっとヤバいもんか?
一通り唱え終えると、手にした黒い刃が炎みたいに伸び、刃渡りが倍にも見えるほど肥大化した。
「積み重ねられた罪業を祓うための呪いの刃よ──封ぜられし禍の力、今ここに顕現せよ」
振り下ろされた瞬間、黒い光が奔流になって化け物たちを呑み込み、触れた端から掻き消していく。まるで塩に溶けるナメクジみたいに。
「さぁ、こちらへ──」
「お、おぅ……」
俺は女に腕を引かれ、肉塊の山の影へ身を滑り込ませた。追ってくる気配はない。息を荒げながらも、胸の奥で安堵が膨らむ。とりあえず──助かった。
「よし、ここに現世と繋げる穴を開くとしよう」
女が再び呪文を唱え始めた。もうすぐだ。これで、この地獄から抜け出せる。
……のはずなのに。
「ん、なんか誰かに見られているような……」
背筋が寒くなる。振り返り、周囲を見渡す。前、後ろ、右、左──誰もいない。気配もない。さっきの化け物みたいに音もなく現れる気配すらない。
だが、この視線は確かにある。頭皮がむず痒いような、針で突かれるような……。
──上だ。
「ひっ!?」
見上げた瞬間、息が凍りついた。
山だと思っていた塊が、眼球を剥いて俺らを覗いていた。いや、山じゃない。巨大な化け物だ。
「うわぁぁぁ、やべぇよ……!」
そいつの体表から蔓のような触手がうねり出し、俺と女を押し潰そうと降りかかる。闇のような影が一気に覆いかぶさり、死まであと数秒──。
「南無──!!」
女の刀が閃いた。轟音とともに、巨大な蔓は一瞬で両断され、煙のように掻き消えた。デカい化け物の一部があっさり斬り払われたのだ。震えが止まらない。本当に……心強い。
モゾ……モゾ、モゾゾゾ……。
だが化け物は呻くような音をあげ、全身から無数の触手を芽吹かせ始めた。地を覆うように、何十、何百という黒く細い触手が一斉に蠢く。
力で斬られるなら、今度は数で押し潰そうってか……?
「まずい、木村さん! あの無数の触手が動き出す前に── 南無浄斎神光王、封陣・透身」
女は俺の胸に手を翳し、何かを低く唱えた。直後、身体の周りに薄い膜が貼りつくような違和感が走る。息が少し苦しい──そうか、結界か。包まれてるみてぇだ。
「少し我慢してくれ。これは霊からの認識を阻害する結界だ。魂を結界で包み込んでいるから苦しいかもしれないが少し我慢してほしい。本来なら霊力を込めた墨で経文を身体に直接書くのだが、今は道具も時間もない。私の霊力だけで簡易にやらせてもらった」
なるほどな。今の俺はサランラップに包まれてるみてぇなもんか。まぁ窮屈だが息はできるから問題はない。
「注意して欲しいのはここから一歩も動かないこと。簡易的な結界故、内側から力が加われば簡単に崩壊する」
「……わかった」
返事した直後、女はぐっと動き出した。端から順に蠢く触手を次々に薙ぎ払う。刀が走るたびに、黒い閃光が空気を裂き、触手がぶつ切りにされて弾ける。切断面からは暗い汁が吹き出し、音が弾けるように『ぷちっ』『ぐしゅ』と湿って生々しい。
この速さなら、動き出す前に全部切れるはずだ──と思ったのも束の間だ。切った端から触手が再生する。根元からすぐにまた芽生え、まるで切断を嘲笑うかのように生え戻る。斬っても斬っても、その本数は一向に減らない。
ついに、触手が本格的に動き出した。四方八方、無数の触手が女へと降りかかる。だが女の刀捌きは尋常でなかった。目がいくつもあるかのように正確に全方向を捉え、刀は一本でありながら幾本にも増えたように高速で軌道を描く。触手が切られるたびに風が巻き、空気が裂ける。
「いける……?」と俺は思った。希望が胸をかすめる。
しかし、無限の再生に対して刀の速度は次第に落ちているのがわかる。切るたびに力を奪われ、女の動きは徐々に滞り始める。息遣いが荒くなり、額に光る汗。刀から伝わる振動が弱くなるのが分かる。
「くっ……」
女が歯を食いしばる。少しずつ焦りが顔に出始める。生身の人間である以上、体力には限界がある。俺はその様子を見て、胸の奥が妙にざわついた。
あの化け物が笑っているように見える。いや、気のせいか?
女の動きが遅くなっても触手は女に届くことない。この不自然な均衡を前に妙な勘が頭をよぎる。さっき俺を追い回した時と同様に──奴はわざとトドメを刺さずに、こっちを弄んでいるんじゃないかと。
畜生、全部化け物の掌の上だ。
だが、どうにも目が離せない。女の額に滴る汗、荒くなった呼吸、眉間に寄る皺。その、崩れかけた凛とした姿が、たまらなく良い。いや今それを考えてる場合じゃねぇだろと頭で否定する。だが、否定することと感じることは別だ。
俺の体温が上がるのが分かる。呼吸が荒くなり、心臓が跳ねる。顔がにやけるのを止められない。どうせここで目を逸らしたところで女の邪魔になるわけじゃねぇ。少しくらい欲望をひと目に晒しても、誰も傷つかねぇだろ──そう自分に言い訳する。
口角が勝手に上がる。視界の端で、触手が再生しては一閃で切り裂かれる──そのリズムが、俺の鼓動と同期していく。いや、もっと見たい。もっと崩れるところを見たい。これが俺という人間なのだから仕方ない、楽しむしかねぇ──。
「ぐっ……うぅっ……」
女が、ついに捕まった。
締めつけられて身体が軋む音がする。凜とした声は歪み始る。苦痛が直接、空気を震わせる。これからどう骨が折れていくのか、どこから潰れていくかが想像できてしまうくらい、獰猛な圧が伝わってくる。
それにしても、苦しそうだな──。
口から何かが出てくれば、それがどんなものでも俺は嬉しくてたまらないだろうな。
じゅるり──。
よだれが垂れるのが分かった。
「あ……あぁ、くっ……んっ」
その声だ。骨に直接届くような、震える声。生で聞くと、映像では味わえない輪郭の鋭さがある。小さな息づかい、喉の震え、皮膚の引きつり──そうした細かな変化が俺を満足させる。全身の神経が蕩けていくような感覚に堕ちる。この感覚がたまらない。
もっと、もっと近くで見たい──足が勝手に出る。欲望が俺を前へ、また前へと進ませる。
「木村ァ! 動くなっ!」
女が声を荒げる。必死だ。声は綺麗だ。顔に血の色が混じるほどの緊張。映像じゃこうはならない、ここでしか味わえない迫真だ──。
「木村ァァッ!!」
身が危険なのはわかっている。でも足は止まらない。
近くで。もっと近づいて、じっくり眺めたい。
「見ィツケタ」
はっ!? 真横、気配もなく化け物が立っていた。そういえば、包まれていたはずの息苦しさがいつの間にか薄れている。
「くっ……くそっ……」
女の顔がこちらを見る。悔しそうな、歯噛みするような表情。やはり結界は破られたのか。胸の中で何かが冷たく弾ける。
「ははっ……はははははっ」
途端にダーッと乾いた笑いが出る。焦燥、絶望、諦観──ごちゃ混ぜになった感情の端が笑いとして零れた。
ガッ!
「痛ッ!?」
横の化け物が俺の腕を掴む。細い体からは想像できない力。痛みが走る。
ガンッ!!
「うぐっ!?」
背後から鈍い打撃。振り向くと、もう一体増えている。次の瞬きのうちに、俺の周囲は黒い影で埋まった。完全包囲だ。あのデカい奴もこちらを睨んでいる。女はいつの間にか解放されて奴の興味は俺に向いていた。
「ははっ……終わりだな」
「断罪ノ時間ダ、覚悟シロ!」
化け物たちは腕を凶器に変形させ、総攻撃を開始する。バットが振り下ろされ、刃が擦れて血が火花のように飛び散り、鈍い打撃による痛みが腹を貫通したかのように背中まで響く。痛みは連鎖する。
「痛い、痛い、痛い痛い痛い」
骨が折れる鈍い音。視界の片側が白くにじむ。呼吸が浅くなる。もう一つの目が暗く霞む。体の機能が一つずつ、静かに仕事を放棄していくのが分かる。
「木村ァ! 諦めるな、今助ける!」
女の叫びがどこか遠くで聞こえる。だが俺はもう、助かるとか助からないとかどうでも良くなった。そういう話を考える段階はとうに過ぎてんだ。視界の端で、女はまだ化け物どもを斬り続けている。だが数は減らない。斬るたびに新たに生えていき、それが俺を目指して寄ってくる。
それよりだ。くそっ……いいところで止めやがって。俺はまだ……女の悲鳴を聞きてねぇぞ。
身体はもう言うことをきかない。痛みが次第に麻痺に変わり、思考は溶ける。脳内が何かに満たされる感覚があって、理性が薄れていく。死が近いのに、なぜか心地よさが混じる。
──死。
恐怖が抜け落ちていく代わりに、体内の何かが甘く溶け始めた。そうか、生と死の境目で出るあの化学物質ってやつか。勉強になったな。もうじきに死ぬから意味ねえが……。
「木村ァ──木村ァァァァァァァッ!」
女の嗚咽と叫びも虚しく俺の意識は遠ざかる。声が溶ける。闇が優しく口を開け、俺はその中に滑り落ちていった。
──ぷつん。




