30話 観衆の呪詛
先程まで睨み合っていた男をよそに、柊夜の視線には床しか映らない。
胸の奥で渦を巻くのは、成仏したはずの姉の安否と、再び目の前に姿を現した呪いの影。
「事件を知った人たちの中に芽生えた怒りや恐怖って……何だよ。
どこの誰だか分からない奴らが、勝手に断罪してるってことか?
もう……やめてくれよ。ほっといてくれよ……。
姉ちゃんはやっと安らかに眠ったんだ。俺だって復讐心を捨てて、日常に戻ろうとしてるのに……!」
俯いた顔は血の気を失い、瞳孔がじわじわと開いていく。
その表情は恐怖とも絶望ともつかぬ、狂気じみた歪みを帯び、柊夜を中心に冷たく淀んだ空気がじわじわと広がっていく。
まるで見えない瘴気が、部屋そのものを染めていくかのように。
「テメェ、また同じことを繰り返す気か?
そのザマじゃ──姉ちゃん、安心して眠れねぇぞ。
しっかりしやがれっ!」
怒声が叩きつけられた。
その声は雷鳴のように空気を震わせ、柊夜の周囲を覆っていた濁りを一息で吹き飛ばす。
塞ぎ込んでいた首は跳ね起こされ、強引に現実へと引き戻された。
「……な、に……を?」
硬直した身体をぎこちなく持ち上げ、柊夜はゆっくりと男を見据える。
心臓の過剰な鼓動は、静寂の中で少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「俺は除霊師だ。──あんちゃん、もしかして……いや、もしかしなくても“朝比奈 柊夜”だろ?
悪いようにする気はねぇ。少し俺と話をしねぇか?」
男はしゃがみ込み、柊夜の目線と同じ高さに降りてくる。
先程まで獲物を睨む肉食獣のようだった眼差しが、今は妙に人懐っこい色を帯びていた。
しかし、混乱と不信が渦巻く柊夜の心に、その言葉が素直に届くはずもない。
「あんたがどこのどんな除霊師かは知らないけど……この件は神城 霧子さんに託してある。
急に現れたあんたに話すことなんて──ないっ!」
柊夜の瞳は恐怖を含みながらも、男を刺すように揺るぎなく睨みつける。
そのまま立ち上がると、ソファ下の袋を引き寄せ、乱暴に掻き回して一本のDVDを取り出した。
続けて窓際へ歩き、窓を開け放ち、部屋に溜まった澱んだ空気を外へ逃がす。
外に逃げ出す煙と共に新鮮な空気を含んだ風が室内に入り込み、空気が一瞬だけ澄んだ。
しかし──男は窓の外には目もくれず、口の端を歪めながら低く言葉を落とした。
「さて……ここからは俺の独り言タイムだ。
あんちゃんに言うつもりなんざ毛頭ねぇから、気にすんな」
男はふぅ、と外の新鮮な空気を吸い込み、静かに口を開いた。
「最近、裏の世界で出回っているDVDがある。見たら最後、見た奴は魂を抜かれた抜け殻みてぇになっちまうらしい。
んで、必ず赤黒くて、生肉みてぇな怪異が現れるんだとよ」
「赤黒い……!?」
柊夜の肩がわずかに震える。その反応に男はわずかに目を細める。
「そいつはな、SNSに出回ってる“例の投稿”にも頻繁に写り込んでいた。キャッチフレーズみたいにタグも付いていたぜ。
──#加害者を許すな、とな」
断罪はまだ続いている。しかも範囲は拡大し、さらに凶悪になって──。
胸の奥で嫌な確信が形を取った瞬間、柊夜は思わず喉を鳴らした。
男の視線が窓から柊夜へと移る。
「さて──俺が今持ってるこれが、その呪いのDVDだ」
男はわざとらしく円盤を掲げる。
パッケージなどなく、ただラベルにマジックで殴り書きされた文字が書かれているのみ。
ラベルに刻まれた文字が目に入った瞬間、柊夜の胸の奥に鋭い杭が突き刺さった。
──『監禁×屈服 朝比奈 真昼』。
頭の中が真っ白になる。ただ名前の部分だけが脳裏で何度も反響し、思考を空白で埋め尽くしていく。
困惑。呼吸が荒くなり、指先が細かく震える。額から汗が流れ落ちる。
(……姉ちゃんを……)
理解が遅れて追いついた瞬間、胸の奥から噴き出すように熱が込み上げた。
視界の端が赤黒く滲む。言葉が憤怒に引きずり出され、喉を突き破りそうになる。
「ふざけ……んな……!」
だが、柊夜は歯を食いしばり、首を振った。
ここで怒りを吐き出せば、また“それ”に呑まれる。あの悪夢が繰り返される。
それは──姉の想いを踏みにじることと同じだ。
「……俺は……違う……! こんなモンに……負けてたまるか……!」
拳を握りしめる。爪が掌に食い込み、血の匂いが微かに漂う。
必死に自分を縛り付けた、その瞬間だった。
──ぐらり。
肩口から黒い靄が漏れ出した。
それは瞬く間にうねりを増し、柊夜の背後でひとつの形を成す。
小柄な上半身だけの人影。顔はなく、ただ紅い光の目が二つ、男を真っ直ぐ射抜く。
「えっ──!?」
柊夜が息を呑む間もなく、影は低く唸るような音を発し、男を睨みつける。
そこにあるのは、柊夜の理性とは無縁の、純粋な憎悪だけ。
「ハハッ……ずいぶん物騒なモンを飼ってやがるな」
男は鼻で笑いながらも、瞳には鋭い光を宿していた。
影が腕を伸ばし、黒い気を凝縮させていく。やがて形を取ったのは小さな鎌。
武器というよりは草刈り道具のように粗末だが、刃先には生々しい殺意が滲んでいる。
「……奪ウ……破壊スル……!」
影の咆哮とともに、刃が振り下ろされる。
空気が裂ける音と同時に、柊夜は思わず目を瞑った。
──ギャアアアアッ!
耳を劈く悲鳴が室内に響き渡る。
慌てて目を開いた柊夜の視界に映ったのは、壁に押し付けられた影の姿だった。
男の指一本で──いや、正確には透けて見える鋭い“爪”が影を突き刺し、痙攣させている。
ただの力任せではない。的確に弱点を貫かれていた。
「……たしかに“あれ”と同じ気配だな。だが、奥底から溢れてる憎悪は桁が違ぇ」
男は冷たく呟き、視線を柊夜へと戻す。
その口元は笑っていた。だが、先ほどの軽薄な笑みとは違い──冷たく研ぎ澄まされたものだった。
「あんちゃん、よく堪えた」
「あ、うん……」
「これで少しは俺の話を聞く気になってくれりゃいいんだがな」
自分の中から飛び出した“影”を、目の前でこの男は封じてみせた。その事実だけで、柊夜の警戒心は大きく揺らぎ、疑念はほとんど消えていた。
「一度、成長しきった生き霊ってのはな……一回祓った程度じゃ根っこは絶えねぇ。今出たのはその“怨芽”ってやつだ。あんちゃんの心の底に残ってる憎悪が、芽の形をとったもんだ」
「そ、そんなこと言われても……憎しみを完全に消すなんて、できるわけないよ」
「だろうな。割り切れって方が無理な話だ。俺ァ、あんちゃんを責めちゃいねぇ。憎むなって言う方が不自然だろ。……だから、出ちまったらまた俺たち除霊師を頼れ。それも仕事のうちだからな」
男が指先に力を込めると、影──怨芽は呻き声を残して掻き消えた。
「さて。本題に入るか。今の怨芽から伝わってきた霊気でわかった。例の怪異は、確かにこいつと繋がっていた。だが、その枷を失った今、怪異は勝手気ままに動き始めてる。加害者を探して暴れまわってるってわけだ」
「そもそも……その怪異って何なんだ? 本当に霊なのか? 今もまだ復讐を続けてるのか? さっきのDVDはどこから……それに──姉ちゃんは……!」
柊夜の口から、次々と疑問が迸った。怒りの代わりに、止まらない言葉の奔流となって。
「まあまあ、落ち着け。そんな畳み掛けられたら、おじさんの小さい頭じゃ処理しきれねぇよ」
男は慌てて両手を突き出し、前のめりの柊夜を制した。
「俺だって全部を知ってるわけじゃない。けど、話せることはちゃんと話す。だから落ち着けって」
柊夜は大きく息を吸い込み、吐いた。まだ焦燥は拭えないが、せめて相手の言葉を待とうと、目で促す。男は小さく咳払いして、口を開いた。
「まず──あの怪異の正体だ。俺らは“観衆の呪詛”と呼んでる。霊っちゃ霊だが、正確には生き霊の集合体だな。凶悪事件が世間を騒がせた時、被害者でも加害者でもない大勢の人間が“許せねえ”“罰を受けろ”と強く思う。そういう感情が寄り集まって生まれる存在だ」
「……生き霊の、集合体……」
「そうだ。昔からあったが、今はインターネットで詳細まで拡散されるからな。人々の怒りは以前より濃く、数も多い。巨大で強力な怪異になりやすいんだ。特に朝比奈 真昼の事件はあまりに残忍で凶悪だった。集まる念の数も質も桁違いだったんだろう」
「……じゃあ、何でエグゼ──俺の生き霊と手を組んでたんだ?」
「簡単な話だ。同じもんを憎んでたからだ。観衆の呪詛には、遺族の憎しみっていう“当事者の念”が欠けてる。だから惹かれ合ったんだろう。あんちゃんの生き霊を取り込めば、奴らはもっと強く、もっと確かな復讐者になれたはずだ。実際、あんちゃんの生き霊がいた頃は標的がブレなかった。……けど今は違う。枷がなくなったせいで、加害者だけじゃ飽き足らず、DVDを見た奴まで断罪の対象にしちまってる」
男は深く息を吐くと、懐から名刺入れを取り出した。
「知ってることは、だいたいそんなとこだ。それより──まだ俺のこと名乗ってなかったな」
軽く指で弾いて名刺を抜き取り、柊夜の前へ差し出す。
不動 明聖
国際超常対策機構・日本支部・超常捜査室 第二室長
登録番号:J-4994
対応区分:心霊事案・A級(除霊/供養)
「……これは、霧子さんと同じ……」
印字された文字を目にして、柊夜は思わず息を呑んだ。
ただの胡散臭い男だと思っていた存在が、ようやく実在の輪郭を持ったような気がする。
「名前は不動。これから先、付き合いが長くなるかもしれん。……よろしくな」




