29話 束の間の日常
姉・朝比奈 真昼の供養から数日後のこと──。
朝比奈 柊夜は大学に復帰していた。
「おい朝比奈、顔色戻ったじゃん。ちゃんと飯食ってるのか?」
「はは……まぁ、なんとかね」
「どうせ課題たまってんだろ? コピーぐらいなら貸してやるよ」
「助かるわ……。あと講義中、また寝そうになったら起こしてくれよな」
「いやいや、そこは自分で起きとけっての〜」
そんな他愛ないやりとりに、自然と笑みがこぼれる。
こうして肩を並べてくだらない話ができること──その何気なさこそ、何よりの救いだと柊夜は思った。
午前の講義を終えると、蝉時雨の降り注ぐキャンパスを後にする。
季節は夏真っ盛り。灼けつくアスファルトを踏みしめながら帰路についた柊夜は、すぐにシャツが背中に張りつくほどの汗をかいた。
「ふぅ……外は暑いなぁ。数日休んで生活リズムが狂った身体には堪える」
そうつぶやきながら、鍵を回して逃げ込むように自宅アパートへ入る。
ひんやりした空気に『助かった』とばかりに壁へ背を預け、乱れた呼吸を整えた。
この日の講義は午前で終わり、午後からは完全にフリー。
──だが、柊夜には外せない大切な用事があった。
「昼からはエアコンの効いた部屋でゴロゴロ……スマホでも弄りたいところだけど……。今日は神城調査室の片付けを手伝う日。先日の一件のお礼も兼ねて頑張らなきゃな」
口に出す声は、自分に言い聞かせるようでいて、どこか弾んでいる。
むしろ心待ちにしている様子すら見て取れた。
額の汗を手の甲でぬぐい、柊夜は空を仰ぐ。
──今日一日の出来事が鮮やかに思い返される。
「……大学行って、友達と他愛ない話をして、あまり好きじゃないけど勉強もして……。この当たり前の大切さが今は身に染みるよ」
安堵の響きと共に、かすかな寂しさが声ににじむ。
「でも──霧子さんと一緒に姉ちゃんの供養のために奔走した日々も、もう終わったんだと思うと……なんだかなぁ」
心のどこかで求めてしまう“非日常の刺激”。
それに気づいて苦笑すると、柊夜はわざと頭を振って切り替えた。
「まっ、考えても仕方ない。片付けの約束してるんだから、今はそれが最優先だ」
流れ落ちていた汗もいつの間にか引き、柊夜は軽く背筋を伸ばす。
その足取りは、もう迷ってはいなかった。
彼は自宅を後にし、神城調査室へと歩を進める。
*****
「失礼しま──うわっ……なんだよこれ……」
神城調査室の惨状を見て、柊夜は息を呑んだ。
中はまるで爆風にでも巻き込まれたかのように荒れ果て、棚一杯に飾られていた法具は消え失せ、壁を覆っていた札の類も剥がされている。
まるで神聖な防御を根こそぎ剥ぎ取られたかのようで、ただ散乱してるという事実以上に不気味な雰囲気が感じられた。
「霧子さん、いないなぁ……」
いつもなら窓際の椅子に腰掛け、事務仕事をしているはずの彼女の姿はどこにもない。
だが照明は点灯したままで、窓も開いている。
また隣の部屋からは、テレビの騒がしい音が漏れていた。
──その時、鼻を突く異臭。
線香のような落ち着きではなく、肺を焦がすような刺激臭。
焦げ臭い煙が、空気そのものを濁らせている。
「うっ、タバコ……? 霧子さん、吸ってたっけ……」
胸にざらつく違和感を覚えつつ、柊夜はドアを三度叩く。
「…………」
返事はない。だが確かに中に“何か”の気配がある。
呼吸を止めるようにしてノブを回した瞬間──。
「っ……!」
濃密な煙が一気に吹き出し、柊夜の顔を覆った。
室内は白濁し、輪郭すら見えない。
その靄の奥から、刺すような視線が突き抜けてくる。
「霧子……さん……?」
霞の中、徐々に浮かび上がる輪郭。
そして──。
「……じゃないっ!?」
そこにいたのは霧子ではない。
ソファに大の字でふんぞり返り、まるで自分がこの部屋の主だと言わんばかりに足を投げ出す男。
腕には墨の線がうねり、首には安っぽくもギラついた金の鎖。
鋭い眼光は肉食獣を思わせた。
ただ睨まれるだけで胃が冷たく縮む──まるで、狼に睨まれた小動物のように。
ほんの一瞬、耳の奥で低い唸り声が響いた気がして、柊夜は背筋を凍らせる。
男は煙を吐き捨てるようにして立ち上がり、柊夜へとにじり寄る。
その長身が一歩ごとに影を落とし、部屋の狭さが急に牢獄のように思える。
「あんちゃん、だれよ?
せっかく人が気持ちよく昼寝してたってのに、騒ぎやがって……」
男は立ち上がり、柊夜を見下ろす。
視線はただの威圧ではない。
獲物を測る猟犬の眼差しがちらりと覗き、思わず呼吸が浅くなる。
次の瞬間にはまた人間の顔に戻っているが、柊夜の胸はまだ強く縮んでいた。
(なんだ、このおっさん……。
チンピラはこの間、嫌というほど見た。けど──その誰とも違う。別次元の“獣じみた違和感”を纏っている……)
男のただならぬ気配に、柊夜の背筋は強張る。喉が鳴り、足先まで冷え切る。
──が、視線だけは逸らさなかった。恐怖を飲み込み、睨み返す。
呼吸を整え、声を絞り出す。
「……あなたこそ、どちら様ですか?
この事務所の従業員じゃないですよね」
震えを隠せぬ声音。だが瞳は揺るがない。
その芯の強さに、男の眉間に深い皺が刻まれる。
「チッ……生意気言いやがって」
低い舌打ちと共に、空気が唸りを孕む。
今にも牙を剥き、襲いかかってきそうな迫力。
柊夜は汗ばむ掌を握りしめ、立ち尽くす。
その緊張を裂くように、テレビの画面が切り替わった。
視線を奪われ、柊夜の心臓が一瞬で跳ね上がる。
「昨夜──東京都戸成野市で身元不明の男性の遺体が発見されました。
遺体は激しく損傷しており、DNA鑑定の結果、千葉県在住・無職、松野 和馬さんと判明──」
画面に映し出されたのは、柊夜にとって忘れたくても忘れられない顔。
橘、桐谷に続いて、三人目の加害者・松野が──死んだ。
「……嘘だろ……」
声が漏れる。
柊夜の憎しみから生まれた生き霊はもう消え、真昼も成仏したはずなのに。
なのに、断罪はまだ続いている。
「なんで……もうエグゼも、姉ちゃんもいないのに……誰が、誰が断罪を……」
膝が砕け、崩れ落ちる。
視界が揺らぎ、耳の奥に蘇るのは夢の中で聞いた姉の声だった。
── 『事件を知った人たちの中に芽生えた……加害者に対する怒り、嫌悪、恐怖、そして罰を望む声──。
そういう負の感情が集まって、ひとつの集合体として形になったの。
そして、最も強く憎しみを抱いた“柊夜の生き霊”が、その中心にいる。
……あの存在を動かす“頭脳”として、指揮してるのよ』
「そうか……あの時、俺と半ば融合していたエグゼは、奴らと決別した……」
額から汗が滴り落ちる。
(エグゼという“頭脳”を失った今、奴らは……エグゼとは全く別の一つの怪異として自分の意思で断罪を続けているのか……)
頭を抱えた。
“終わった”と思っていた全ては、終わっていなかった。
崩れかけていた日常の景色が、音を立ててひび割れていく。
そして──胸の奥で確かに感じた。
非日常の刺激が、再び牙を剥いて迫ってくることを。




