24話 堕ちた心が揺らぐ瞬間
「間一髪間に合った……だが、あの様子では柊夜くんの魂は生き霊と絡み合い、すでに半ば融合しているな。
くそ……もっと早く手を打っていれば……だが、悔やんでいる暇はない!」
霧子は足裏でアスファルトを強く蹴り、白い髪が月光を受けて尾を引く。
闇を裂く流星のように間合いへ踏み込むと、刀身が白閃を放ちながら唸りを上げる。
「南無浄斎神光王──因果切断ッ!」
刃が闇夜を裂き、柊夜の背後──エグゼへと奔る。
瞬間、霊力が稲妻のように弾け、二人を繋ぐ因果の糸へと突き刺さった。
ガキィンッ!!
「なっ……因果の糸が、断てない!?」
斬撃は確かに届いた。しかし糸は断てず、逆に激しい衝撃が爆ぜる。
霧子の身体は地を離れ、鉄骨に叩きつけられる寸前で受け身を取った。
前方を見やれば、柊夜の背後から赤黒い瘴気が沸き立ち、人の輪郭を象り始める。
「……私と柊夜くんを繋ぐものは、糸などではない」
赤黒い影が凝縮し、冷たい笑みを形作る。
生き霊・エグゼ。その声は空気を震わせるほど低く、重い。
「それは鉄のように強靭で、砕けぬ絆──お前の言葉を借りるなら“因果の鎖”と呼ぶべきだろう」
一歩、また一歩と迫るその圧に、空気が震える。
霧子の瞳は鋭く細められる。元より簡単に断てるとは思っていなかった。想定の範囲だ。
だが、この場でただ一人、焦燥を露わにした者がいた。
「おい除霊女ァ! 何やってやがる!」
真田だ。
霧子に救われたことなど一切省みず、顔を朱に染め、血管を浮かせ、怒声をぶちまける。
「何モタモタしてやがる! 化け物退治がテメェの仕事だろうが!
グズグズしてねぇで、さっさとぶっ殺せ!!」
「この期に及んで、まだ己のことしか考えられないのか!」
霧子の瞳が怒りに燃え、声が工場跡地に轟く。
「黙れッ! お前は邪魔だッ! すぐに失せろォ!!」
怒号は鉄骨を震わせ、夜風を切り裂いた。
真田は一瞬、拳を振り上げかける。だが圧倒的な殺気に射抜かれ、奥歯を噛みしめて引き下がる。
「……チッ、やってられっか。好きにしろや」
唾を吐き捨て、工場を後にする。靴音が遠ざかり、場に再び緊張が戻った。
真田の足音が消えた瞬間、場の空気が変わった。
息を呑むほど濃密な霊気が渦を巻き、錆びた鉄骨がギシギシと不気味に鳴る。
ガァンッ!!
火花が弾け、工場跡を閃光が走る。
柊夜が大鎌を呼び戻し、一瞬で距離を詰めた。
重くうねる刃が叩き込まれる──。
「はぁッ!!」
霧子は腰を沈め、刃を真正面から受け止める。
刃と刃が噛み合った瞬間、凄まじい圧力が爆ぜた。
空気が爆音とともに押し潰され、砂塵と鉄片が四方に飛び散る。
「霧子さん……ッ! 今さら何をしに来たッ!? 依頼は既に取り下げたはずだろうッ!」
「……君を救いに来た!」
「救うだとォ!? フザけるなッ!
俺にとっての救いは、あいつらをこの手で八つ裂きにすることだッ!!
復讐こそが……俺の心の救済なんだよォ!!」
刃に込められた憎悪が震動となって伝わり、霧子の腕を痺れさせる。
圧倒的な怒りと怨念の重み。彼女の足元が軋み、コンクリが罅割れた。
「ぐっ──!」
怒りに駆られた柊夜の力が一瞬、上回る。
霧子の両腕が跳ね上がり、バランスを崩す。
ギィィンッ!!
大鎌が振り下ろされる。
霧子は咄嗟に飛び退き、刃は地面を深々と抉った。
コンクリートが粉砕され、亀裂が波紋のように走る。
「……まずい……!」
柊夜は大鎌を引き抜こうと力を込める。その隙を狙い、霧子が声を張り上げ経文を唱えた。
「南無浄斎神光王──この刀に宿りし魂よ!
我が霊力を与え、悪しき因果を断ち切れぇッ!!」
刀身が眩い光を放ち、熱気が周囲を包む。
霧子は刃を振りかぶり、背後の生き霊めがけて踏み込んだ。
しかし──柊夜の眼光が閃いた。
「同じ手が通じるかよッ!!」
大鎌が音速を裂く勢いで跳ね上がり、迎撃の軌跡を描く。
バキャァァンッ!!
轟音。
激突の余波で工場の窓ガラスが一斉に砕け散る。
霧子の身体は後方へ吹き飛ばされ、鉄骨を弾きながら地面に転がった。
しかし──大鎌の刃もまた、悲鳴を上げて砕け散る。
金属の破片が宙を舞い、鈍い音を響かせながら床に散乱した。
「なっ……! 禍祓ですら砕けなかった大鎌が……押し負けたっ……!?」
柊夜は愕然とした表情で、手に残った柄を見下ろす。
絶対の力だと信じていた大鎌は、刀身を失い棒切れに成り果てていた。
そして視線を上げれば──吹き飛ばされたはずの霧子が、なおも刀を握りしめこちらへ歩み寄ってくる。
その刀身には欠け一つなく、澄んだ光を纏っていた。
──禍祓すら通じなかった大鎌を打ち砕いた、揺るぎない刃。
「な、なんなんだよ、それは……ッ!
禍祓が切り札だって言ってたじゃないか! まだそんな武器を隠してたのか!?
卑怯だ……理不尽だ……あぁぁぁッ!!」
声は嗄れ、怒鳴り散らすように吐き出される。
柊夜は髪を掻きむしり、ぐるぐると足を踏み鳴らしながら混乱をあらわにした。
そんな彼を真っ直ぐに見据え、霧子は静かに口を開いた。
「これは君のお姉さんだ」
「……は?」
柊夜の瞳が刀へと向けられる。
そこにあったのは──鋼の刀身ではなく、どこにでもあるスチール製の定規だった。
ただ、その端から迸る光が刃となり、揺るぎない存在感を放っていた。
「よく見ろ。見覚えがあるはずだ」
霧子は定規を高く掲げ、柊夜の眼前に突きつける。
定規の角には、薄く掠れたインクで名前が刻まれていた。
──「朝比奈 柊夜」
「……これは……俺の……!
俺が昔からずっと使ってた定規……!?」
柊夜の瞳が大きく揺れる。その瞬間、背後にまとわりつく赤黒い影が、一瞬だけだが確かに薄らいだ。
「そうだ。そしてこの定規には、君のお姉さん──朝比奈 真昼さんの魂が、自らの意思で宿っている。
これは武器ではない。君を愛し、君を救いたいと願った姉の想いが形を成した、唯一無二の霊刀だ。
この世で最も君を想う人の、救いの手だ!」
その言葉に呼応するように、刀身が一瞬まばゆく光を放ち、真昼の面影が浮かび上がる。
淡く揺れるその姿は、悲しみを含んだ微笑を湛えていた。
「違う……そんなわけ……姉ちゃんが俺を止めるはずなんて……っ。だってこの復讐は俺の……あれ?
俺は……俺の復讐を……! 俺の? 俺? 誰……誰のための……復讐を……してた……なんで……?」
光が消えると同時に、柊夜は膝から崩れ落ちる。
言葉は途切れ、掠れ、幼子のような声色になっていき、髪を掴んだ手は力なく滑り落ちた。
「わかんない……俺……わかんないよ……姉ちゃん……」
涙にもならない震え声が、夜の静寂に溶けていく。
──それは、復讐に染まった心が初めて揺らいだ瞬間だった。
*****
時は朝まで遡る──。
「真昼さん、行こうか。柊夜くんの自宅アパートへ。
……柊夜くんはもう、危ういところにいる。すぐにでも会いに行く必要がある」
霧子は短く告げると、真昼に肩へ手を置くよう促した。
真昼が触れると同時に、霧子の口から経文が紡がれる。
「南無浄斎神光王──そこにいる魂よ、我が身に宿れ!」
事務所の空気が震え、眩い光が二人を包む。
次の瞬間、霧子と真昼の魂は一つの器に繋がった。
そのまま霧子は、足早に事務所を後にし、柊夜の住むアパートへと向かっていく──。




