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赦すも処すも、生者次第 #加害者を許すな  作者: ヨウカン
第一章 夜に堕ちた祈り
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20話 死者の願い、生者の誓い

 朝の光がカーテン越しに差し込み、瞼を焼く。

 霧子はソファに沈んでいた身体を重たく持ち上げた。

 指を握り、開く。その小さな動作にさえ鈍い抵抗を覚え、夢の残滓がまだ肉体に絡みついているのを悟る。


 「……酷い夢、だった」


 体は休まったはずなのに、心だけが削られていた。胸の奥がじんじんと痺れ、脳裏にまだ悪夢の断片がちらつく。

 けれど、ここがあの悪魔の巣窟ではない——その確かな事実に、霧子はわずかに安堵し、こわばった表情がふっと緩む。


 立ち上がり、滲む視界を何度か瞬いて整える。

 そして目に飛び込んできた光景に息を呑んだ。


 「……な、なんだ!?」


 眠気は一瞬で吹き飛ぶ。

 事務所の中は無惨に荒らされていた。机はひっくり返り、棚の道具は影も形もない。誰かが執拗に何かを探した痕跡がそこかしこに残っていた。


 「真田……?」


 彼の部屋を覗いたが、もぬけの殻だった。昨夜、外出したまま帰っていないのか。それとも、この惨状に巻き込まれたのか——。胸の奥がざわめき立つ。


 「……霧子、さん」


 不意に、柔らかい声が背後から響く。同時に、室内の空気が微かに震え、温度が一度下がった気がした。

 反射的に振り向いた霧子の呼吸が止まる。

 そこに立っていたのは——柊夜の姉、朝比奈真昼。

 既にこの世の人間ではないはずの彼女の姿だった。


 「な……っ、馬鹿な……!?」


 思わず声を上げる。

 この事務所には強固な結界が施されている。霊の侵入はまずあり得ない。それは強い霊力を持つ真昼でさえ例外ではない。

 だが霧子の目に映るのは、確かに“霊”としての彼女だった。


 ——結界に使われていた法具は、全て跡形もなく消えていた。荒らされた際に、誰かが持ち去ったのか……。


 「私は……真昼……。朝比奈 真昼です」


 幽かな声と共に、霊は丁寧に名乗った。

 その穏やかな仕草は、生者となんら変わらない落ち着きを纏っている。


 「私は神城 霧子、除霊師だ。

 あなたのことは知っている。弟さんが、あなたの供養を依頼しに来た。……もっとも、その依頼は昨日取り消されてしまったが……」


 事務所を飛び出した柊夜の姿が脳裏に浮かび、霧子の胸がきゅっと締め付けられる。


 真昼は小さく頷くと、深々と頭を下げた。


 「まずは謝罪しなければなりません。私がここに来たことで、あなたにご迷惑をおかけしました」


 「迷惑……?」


 荒らされた室内が脳裏をよぎる。だが彼女が結界を破壊して暴れ回ったとは考えにくい。ならば——。


 「……もしや?」


 霧子の脳裏にひとつの可能性が閃いた。


 「あの夢は……真昼さんが見せたものなのか?」


 先ほどまで霧子を苛んでいた悪夢。

 夢にしてはあまりに鮮烈で、目に映るものも耳に届く音も現実そのもののようだった。しかも視点は完全に真昼自身であり、霧子は彼女の目を通して過去を追体験したかのような感覚を得ていた。

 むしろ、あの夢と目の前の霊が無関係だと考える方が不自然だ。


 「……すみません。私の霊体には、あの日浴びせられた悪意や嘲笑、欲望、そして絶望までもが刻まれています。

 霊能力者であるあなたの強い霊力と、真相を求めようとする念が……私の記憶と共鳴してしまったのでしょう」


 「なるほど……腑に落ちたよ。あれは夢ではなく、あなたの過去を映し出したものだったのか」


 霊の記憶や念と共鳴する現象は、除霊の過程で稀に起こる。意図的に共鳴現象を引き起こし未練や望みを探る技法もある。

 だが、真昼のように凄絶な最期を遂げた霊と共鳴するのは、あまりにも精神的な負担が大きく危険なため、まず行わない。

 そして霧子は、あの悪夢が——夢ではなく、紛れもない現実の記憶だったのだと悟り、戦慄に身を震わせた。


 「霧子さん、一つ……確認してもいいですか?」


 真昼は揺るぎない眼差しで、まっすぐ霧子を射抜いた。

 その視線の重さに、霧子は思わず背筋を正す。


 「ああ……構わない」


 「——あの夢。私の記憶を見て……あなたは、どう感じましたか?」


 問いを受け、霧子は言葉を探した。

 頭に浮かぶのは、あの加害者たちの顔。醜悪で、嘲笑に歪み、人の心など一片も持たぬ連中。柊夜が『これからも絶対、人を傷つける』と断じたのも頷けるほどだった。

 だが、追体験を経てもなお霧子の心は変わらなかった。むしろ、あの悪意を身に刻んだからこそ、いっそう強く思う。


 ——復讐で魂を汚してはならない。


 霧子は唇を噛み、言葉を押し出す。


 「……私は、柊夜くんの復讐を止めたい。

 あんな連中のために、彼の魂に業を刻ませたくはない」


 口にした瞬間、胸が締めつけられた。

 霧子は知っている。柊夜の願いを踏みにじる言葉だと。

 だが、それでも譲れない。


 「私は……柊夜くんを、復讐から救いたい」


 強く絞り出した声に、迷いはなかった。

 真昼は小さく目を伏せ、再び顔を上げる。その瞳は涙で揺れていたが、そこに宿る光は苦しみではなく、温かな希望の色だった。


 「……あなたがそう言ってくださる方で、本当に良かった」


 震える声に、霧子の胸が熱くなる。

 

 ——しかし、現実は冷たい。


 「……だが、依頼は取り消された。私はもう手を出せない。組織の掟で、私的に能力を使うのは禁じられているんだ」


 言葉にした瞬間、胃の奥が重く沈む。

 頭のどこかでは分かっている。掟を破るくらいなら、自分はもう決意しているはずだと。だが、声に出すと一層重みを帯び、霧子は息を詰まらせる。


 (もし禁を破れば……私は組織を追われる。

 除霊師としての立場を失う。人々を守る力を、二度と振るえなくなる……)


 理屈ではわかっている。それでも柊夜を見捨てられるはずがない。

 心が真昼と柊夜の方へ引かれていくのに、頭が「駄目だ」と叫び続ける。

 その相反する声が胸の内でせめぎ合い、喉が焼けるように痛んだ。

 霧子が言葉を失いかけた時、真昼が静かに切り込む。


 「霧子さん。では、私からの——依頼を受けていただけませんか?」


 その一言に、霧子の思考が一瞬で鮮明になる。

 はっと顔を上げ、目に光が差した。


 「……そうか、それだ!」


 依頼。たとえ死者からのものでも、規則に禁じられてはいない。屁理屈でも構わない。

 それは、霧子が心の底で必死に探していた『理想と現実を両立させる唯一の道』だった。


 「真昼さん。依頼があるなら、正式に聞かせてほしい」


 真昼は深く息を吸い、掌を胸に当てる。

 夜の静寂に溶け込むような声で、祈りを込めて告げた。


 「どうか——生き霊を祓い、柊夜を救ってください。それが、私の依頼です」


 その言葉が放たれた瞬間、事務所の空気が一層澄んでいくように感じられた。

 壁掛け時計の針の音さえ消えたように、時間が止まった静寂。

 真昼の涙に揺れる瞳を見つめながら、霧子は胸の奥からこみ上げる想いを絞り出す。


 「その依頼、確かに受け取った。

 柊夜くんには復讐に呑まれず、自分の未来を選んでほしい。

 ——業に押し潰されるんじゃなく、生きて進んでほしい。だから、生き霊の呪縛から必ず救ってみせる」


 霧子は拳を握りしめる。その掌から熱が滲み出し、血が逆流するように全身に力がみなぎっていく。


 「私は除霊師だ。亡くなった者を救うためにいる。

 でも……あなたや柊夜くんを見て、気づいたんだ。

 ただ霊を祓うだけじゃなく、生きている人間の心も救わなければ、除霊の意味はないって。

 だから真昼さん——私は必ず、柊夜くんを復讐から救い出す。

 たとえ今の彼の想いに逆らうことになろうとも、どんな強大な生き霊が立ち塞がろうとも——絶対に!」


 その言葉に応えるように、真昼の輪郭が淡い光に包まれていった。

 涙を溢れさせながらも、彼女は微笑む。その姿はまるで、苦しみから解き放たれた魂が一瞬だけ安らぎを得たかのようだった。


 「……ありがとう。あなたに託せて、本当に良かった」


 光は静かに広がり、事務所の影を薄めていく。

 その輝きの中で、ふたりの間に確かな誓いが結ばれた。

 復讐ではなく救済へ導くための、心の契約。燃えるような決意。


 そして霧子は悟る。

 ——自分の本当の戦いは、ここから始まるのだと。

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