13話 届かない想い
「……うっ、まぶしっ!」
突き刺すような光に目を焼かれ、柊夜は飛び起きた。
「ここは……?」
眩しい空。雲ひとつない青。
頭上には抜けるような夏の空が広がり、目の前にはどこまでも続く水平線が煌めいている。
足元に広がるのは、白く乾いた砂。
海だった。
ただ、それは観光地のようなにぎわいとは無縁の、どこか静まり返った小さな砂浜だった。
「──知ってる、ここ……」
見覚えがあった。懐かしさが胸を締めつける。
この砂浜は、柊夜と姉・真昼が育った街の外れにある、地元の人しか知らないような場所だった。
「……懐かしいな。
よく、姉ちゃんと──」
小さい頃、辛いことがあると、柊夜はここへ逃げ込んだ。
黙って泣いていると、いつの間にか姉がやってきて、そっと隣に座ってくれた。
言葉少なに、ただ一緒にいてくれるその時間が、何より救いだった。
やがて涙が止まる頃、ふたりで眺めた夕陽の色は、今も忘れられない。
この砂浜は、柊夜にとって**「守られていた記憶」そのもの**だった。
「……けど、なんか変だな」
ふと、違和感が襲ってくる。
波の音がしない。
風もない。
空を飛ぶはずのウミネコやトンビの姿も、どこにもない。
誰もいない。音もない。世界が切り取られたように静まり返っている。
「これって……」
柊夜の脳裏に現実の記憶が浮かんだ。
ついさっきまで、霧子と昼食を食べていたはずだ。
食後、霧子は「午後の仕事があるから」と言って事務所に戻り、
自分は一人でぼんやりしていた──そのはずだ。
「……ああ、そうか。夢か、これ」
納得と少しのがっかりが胸に残る。
けれどこの場所は、たとえ夢でも心が休まる。
柊夜は静かに腰を下ろし、海を見つめた。
心を洗うような青と、変わらぬ砂浜。
ここにいれば、少しだけあの頃に戻れる気がした。
「……ぅや」
不意に、どこか懐かしい声が風に混じった。
「……柊夜」
確かに、そう聞こえた。
驚いて振り返ると、そこにいたのは──
元気だった頃の、姉。
監禁され、壊される前の、あの穏やかな笑みをたたえた真昼だった。
「姉ちゃん……!」
柊夜の心は、まるで幼い日に戻ったかのようだった。
あの日前触れもなく壊された日常が、ふと目の前に戻ってきたような──そんな気がした。
真昼がいなくなって、もう十年。
伝えたいことは山ほどあるのに、どこから話せばいいか分からない。
でも、言葉にしないではいられなかった。
柊夜の口は、自然と動いていた。
「柊夜……」
懐かしい声が、自分の名前をやさしく呼ぶ。
見上げる真昼の瞳が、ふんわりと細められる。
「背が高くなったのね。
最後に会ったときは、私の肩にも届かないくらいだったのに……。
今じゃ、こんなに立派になっちゃって」
真昼は自分より背の高くなった弟を見上げながら、微笑んだ。
「俺……いま大学生だよ。
……姉ちゃんの歳、もう追い越しちゃったんだ」
「ふふっ、弟なのにお兄ちゃんみたい。
なんだか不思議な感じね」
口元に手を添えながら笑う真昼。
その笑顔は、夢の中だというのにあまりにもリアルだった。
いや、リアルすぎるくらいだ。
ふたりは浜辺の高台に並んで腰を下ろし、波のない海を見ながら語りはじめる。
「あと一年ちょっとで卒業なんだけどさ……。
進路、まだ何も決まってなくて。そろそろマズいよなぁ」
「うん……。
相変わらず、のんびり屋さんなのね」
真昼は困ったように、それでもどこか嬉しそうに笑った。
「一緒にいられたら、たくさん相談に乗ってあげたかったな……」
「──あ、そうだ」
柊夜が声を弾ませる。
「姉ちゃん、昔よくお菓子買ってくれたよな。
部屋でテレビ観ながら、一緒に食べてさ」
「あったね、そんなこと。
バイト代が出た日は、つい奮発しちゃってたっけ」
「俺さ、最近までバイトしてたんだ。
その給料で──姉ちゃんが好きだった甘いもの、いっぱい買ってあげたいって思ってた。
本当は……買ってあげたかったよ……」
柊夜は唇をかみしめ、うつむいた。
幼い頃にもらった優しさに、何一つ返せないままになってしまった後悔が、胸の奥を締めつける。
「ありがとう。気持ちだけで、もう充分だよ」
真昼はそっと語りかける。
「私はいいから、そのお金で柊夜の好きなものを買ってあげて。
あ……でも、将来のために貯金するのも大事よね。
お金の使い方って、ほんと難しいわ」
少しおどけるように笑ってから、ふと話題を変える。
「ねぇ、お父さんとお母さんは元気?」
そこからも、いろんな話をした。
真昼は柊夜が話しやすいように、一つひとつ、やさしく話題を投げてくれる。
とりとめもない会話のはずなのに、なぜだろう──時間がとても、あたたかく流れていった。
やがて空は青から橙へと色を変え、いつの間にか夕暮れが訪れていた。
「懐かしいね……」
真昼が海の彼方を見つめながらつぶやく。
「昔は、よくここで夕陽を見てたよね」
「……俺、泣き虫だったからな。
ここ来るたび、目ぇ真っ赤にしてた気がする」
「うん、空とおそろいみたいだった」
真昼がくすっと笑う。
「──昔のこと、あんま言うなって。恥ずかしいし……」
照れくさそうに目をそらす柊夜を見て、真昼は変わらず、静かに微笑んでいた。
「でも……本当に、俺……いつも姉ちゃんに励まされてたんだな……。
──次は、俺が姉ちゃんを救う番だよな……
俺──」
そのとき、柊夜の表情に、ふっと翳りが差す。
「姉ちゃん、もう知ってるよね?
俺の生き霊が──姉ちゃんの復讐を手伝ってるって」
柊夜の声にはどこか誇らしげな響きがあった。
「橘は……そしてさっき、ニュースで桐谷の死も報道されてた。
二人とも、身元の判別が困難なほど、無惨な姿だったってさ。
まさに因果応報──あいつらにはお似合いの最期だよ」
柊夜が語るほどに昂ぶっていく感情とは裏腹に、真昼の顔からは笑みがすっと消えた。
「"呪いのハッシュタグ"って知ってる?
時々SNSに、あいつらの情けない顔が投稿されてるんだ。
タグのついた投稿に“制裁案”をリプすると、それが本当に実行されるらしいんだよ。
俺も試そうとしたけど、なぜかいつも邪魔が入って……まだできてないけど」
柊夜の口からは、憎しみに染まった言葉が次々とこぼれ落ちていく。
橘や桐谷の死体の様子、恐怖に怯えきった表情──そのひとつひとつを、まるで戦果を報告するかのように語っていた。
──満足げに、誇らしげに。
「……やめて。もう、それ以上言わないでっ!」
真昼の叫びが柊夜の言葉を遮った。
ついさっきまであんなに優しく笑っていた声が、今は拒絶の色を帯びていた。
「え……?」
柊夜はきょとんとした顔で首を傾げる。
「なんで? 姉ちゃんだってあいつらのこと、憎んでるはずだよな?
俺の生き霊と一緒に復讐してるんじゃないの?
あの赤黒くて不気味な奴ら──あれって姉ちゃんの憎しみから生まれた化け物じゃないの?」
彼が言っているのは、柊夜の生き霊とは異なる“存在”。
事件後に現れ、真昼の周囲に現れていた赤黒い異形たちのことだった。
その正体は、真昼自身の憎しみの具現化だと、誰もがそう思っていた。
だが──
「違う……」
真昼は、唇を噛み締めながら否定する。
「あれは、私じゃない。
事件を知った人たちの中に芽生えた……加害者に対する怒り、嫌悪、恐怖、そして罰を望む声──
そういう負の感情が集まって、ひとつの集合体として形になったの。
そして、最も強く憎しみを抱いた“柊夜の生き霊”が、その中心にいる。
……あの存在を動かす“頭脳”として、指揮してるのよ」
真昼の霊の周囲には、柊夜の生き霊だけではなく、
“加害者を裁きたい”と願う無数の者たちの念が渦巻いていた。
それは個人の感情を超えた、“意志”に近いものだった。
「じゃあ……つまり、あいつらを殺せって思ってる人が、それだけたくさんいるってことじゃん!
だったら、なおさらやらなきゃ! やり遂げなきゃっ!」
柊夜の瞳が爛々と輝きはじめる。
「俺はその代表だ。俺の生き霊──"夜の執行者・エグゼ"は、みんなの正義の象徴なんだ。
すごいよ、俺……本物のヒーローじゃないか!」
復讐は、多数の支持を受けた“正義の行い”なのだと。
柊夜は錯覚していた。
そしてその認識が、彼の内なる“使命感”をさらに膨れ上がらせていた。
──だが、
「違うっ!!」
真昼が、初めて激しく声を荒げた。
「やめて」と叫んだときの真昼は、ただ、変わってしまった弟が怖かったのだ。
でも今は違う──柊夜の信じる“正義”そのものに、「違う」とはっきり告げた。
姉として、ひとりの人間として。
「……私ね、あの人たちが捕まったあと、ずっと見てたんだよ……
柊夜の生き霊と、あの集合体と、繋がってるから。
だから……離れられない。どれだけ見たくなくても、目を背けられない」
真昼の声が震える。
「もちろん……私も、あの人たちが許せない。
今でも平然と生きてると思うと、怒りがこみ上げてくる……。
でも、それ以上に……もう顔も見たくない。声も聞きたくない。
……あの人たちが“執行”される様子を見るたび、
私は、あの日、自分がされたことを、何度も思い出すの……。
苦しくて……気が狂いそうになるの!」
その告白は、真昼の心の底からの叫びだった。
「だから……私は、復讐なんて望んでない。
ただ、静かに──眠りたいだけなのに……」
言葉とともに、真昼の瞳から涙があふれ出す。
その涙が砂浜に落ちた瞬間、世界が、変わりはじめた。
穏やかだった夕焼けは、燃えるような赤黒さに染まり、
白く柔らかな砂浜は、まるで炭のような色に変わっていく。
波の音も消え、海は血のような赤に染まり、光を失っていった。
──そこはもはや、思い出の場所ではない。
絶望と痛みの記憶が具現化した、地獄のような世界だった。
「違うよ、姉ちゃん……。
眠るだけでいいなんて、それは嘘だ。
俺の生き霊と、全国中の想いが、全部終わらせてくれる。
姉ちゃんには少しだけ、我慢してもらうことになるけど……あいつらは、殺すしかない。
いや、殺さなきゃいけないんだ!」
それでも──。
柊夜は、引き下がらない。
彼の内側では、復讐という名の毒が静かに、確実に心を蝕んでいた。
気づけば“姉を救う”という初めの願いは、その毒の奥底に沈みきっていた──。
「そう……。
私の気持ち……届かなかったんだね……」
真昼の頬を、一筋の涙が静かに伝う。
「もういいよ……。
たくさん話せて、嬉しかった。
ありがとう……さようなら……」
「姉ちゃん!
待って、まだ話は──!」
その叫びも虚しく、真昼の姿がかき消えるように霧が辺りを覆い尽くす。
柊夜の意識も、ふわりと深い闇へと引きずり込まれていった。
「ね……姉……ちゃん……」
*****
「はっ!」
柊夜は跳ね起きた。
ぼんやりとした視界の中、見慣れた天井と部屋の輪郭が目に入る。
そこは、自分の部屋──現実の世界だった。
「目ぇ醒めたんだ……。
やけにリアルな夢だったな……」
頭を掻きながら、夢の内容をゆっくりと思い出す。
しかしその表情には、困惑ではなく、妙な確信が浮かび始めていた。
「……夢、そうか。
夢だ。おかしいと思ったんだよ……。
あれだけ酷いことをされた姉ちゃんが、復讐を嫌がるなんて──あり得ない」
柊夜の目がギラリと光る。
彼の中にある“確信”が、再び静かに燃え上がる。
「姉ちゃん、俺……しっかり祈ってるからね。
俺の生き霊──エグゼが、必ず復讐をやり遂げられるように……」
それは、救いを願う祈りではなかった。
それは、復讐を遂げるための執念に満ちた“呪い”だった。
真昼の静かな想いは、柊夜の歪んだ正義の前に、音もなくかき消えていく……。




