ep7‐1.苦悩の中で……
ゼノンはジムで日々の鍛錬を行っていた。
いい汗を掻き、シャワーを浴びて本部側へ出ると見慣れてきた人物の姿がある。振り向いて嬉しそうに顔を綻ばせていた。
「こんにちは」
「また来たのか。まめっつーか、暇なの?」
「別に暇じゃないですよ。近くに来たので立ち寄っただけです」
「来なくていい」
偶然会えてよかった、と声に張りがあり生き生きとしている。
最近は頻繁に会いに来るようになっていた。会えない時はあるが、顔を合わせた際はこうして会話していくのだ。でもαが出入りする事に警戒する住人は当然いて、中でも彼を悩ませているのは――。
「こんにちは。よく飽きもせず足を運びますね」
「レイさん、こんにちは。当然来ますよ。大好きですから」
「おいおい」
衆目に晒された場所で恥ずかしげもなく言う堂々しさ。
清々しいけど困ってしまう。それがレイには気に食わなかった。殴りかかりはしないものの視線が鋭い。早く出て行けと言外に告げていた。
本当に立ち寄っただけらしく、この日は素直に挨拶しただけで出て行く。
「いいんですか、アイツ」
「何が」
アズールが立ち去った方向をチラ見して言う。
「嫌なら拒んで下さい。つけ上がりますよ」
「理由もなく避けたら大人げないだろ。厄介な事に嫌いじゃねぇんだわ」
(結局忘れるどころか、焼きついちまったし)
いっそウマが合わないとかなら良かった。現状実害がある訳じゃない。
怪我を負わされただとか、手酷く喧嘩しただとか、親の仇だとかという理由はない。確かにαが嫌いなのは否定しようもない事実だ。でも節度を持って接した相手を無下にするほど、嫌な奴にはなりたくなかった。
「でも気をつけて下さいよ。あんなのはもう……」
「わかってる」
「頼みます。後そろそろ」
「ああ、ちゃんと注意するさ」
レイは知っているのだ。ハルトと同様に創設時からのメンバーで、同時を想うからこそ心配してくれてる。普段は大人しくてバース性で他人を見ない彼が……。
つくづく自分は彼を困らせてばかりだと苦しく思う。けど変われそうもない。簡単な事じゃないんだ。
「レイ、帰ってきたとこ悪いがこの後つき合ってくれ」
「了解です」
一旦別れて自室に戻ろうとした時、今度はハルトと出くわす。
いつもなら軽く言葉を交わして通り過ぎるだけだ。しかし今日は足を止めて話し出した。
「近頃はどうですか」
「特に。いつもと変わらないですよ」
「彼、今日も来てたようだけど。大丈夫、迷惑してない?」
「はあ、迷惑っていうか……」
まんざらでもない自分が心の片隅にいるのが腹立たしい。
絆されてんじゃねえ、と自己暗示するけど実際はどうなんだろう。傾いちゃいないか、ちゃんと拒絶できているのか、自信が持てなかった。
ハルトはそんなゼノンの心境が手に取るようにわかる様子で苦笑する。
「まだ答えが出ないんですね。受け入れがたいのかな」
「や、えっと」
「わかります。経験ありますから」
「あぁ……」
言い訳したくて言葉がうまく出ず、遮るように言われた言葉に口をつぐむ。
彼のうなじには噛み跡がある。そして下腹部にも。以前聞いた話だ。同盟創設前までは同棲=居候させて貰っていた時に。今となっては後悔の1つだが、彼は包み隠さず話してくれた。あの時の穏やかだったけど悲し気な顔が酷く記憶に残っている。
――事故に遭ったのは偶然でした。あの時は酷く憂鬱で真っ暗で……。
――奇跡的にβにならなければ、今も立ち直れず自暴自棄になっていたのかも。
――βになれたおかげで、辛いのは変わらないけど立ち直れたのだと。
刻まれた傷をそっとさすりながら静かに言われた言葉。衝撃だった。
重大で、生半可なものじゃないと。同時に怖くなったのである。事故じゃ済まされない。
(本当にΩってのは割が合わないよな)
実体験、仲間の過去や依頼人達に触れてきて感じたのだ。
番はαだけが解消でき、相手が去った後Ωは生涯1人で苦しむ。発情期を迷惑がられるが本当に怖いのは当事者だろう。強姦でもされれば高値の緊急避妊薬で対処しなければならない。
他にも抑制剤や生理薬、生理用品など決して安くない必需品が多過ぎる。苦痛だけじゃなく出血で服汚れるし……。
幾らなんでも負担や苦労の比率が違いすぎやしないか?
「ゼノン君、伝えるべき事は言っておきなさい」
「伝えるべき事」
「もうじき発情期でしょう? その気がないなら、尚更事故を防ぐ為にも必要だと思いますよ」
「そう、だな。アイツよく来るし……」
(しばらく会いに来るなって伝えとかねーと)
絶対に出くわしたくないのはもちろん、見られたくないと思った。
発情期の時期を隠すΩは少なくない。気持ちはわからないでもないし、他所では危険があるのも事実だ。でもそれが事故の一因になる。面識があるなら、きちんと伝えるというのは相手の為でもあった。
(自分から会いに行くのは気が進まねぇけど)
都合をみて行くかと決心する。できるだけ早く。
医師であるハルトの忠告を真剣に受け取り会釈して別れた。周囲の人々の気遣いを有難く思いながら、受付右の通路の先へと足を運んでいく。
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先輩と合流後、窃盗事件が起きて現場に急行する。場所は美術館。
特区の西側は庭園や寺院、図書館、美術館などの文化財が多く点在していた。この辺りは景観が整っており穏やかで落ち着いた雰囲気だ。
応援という形で先行していた者達に加わり調査を行う。準騎士の姿がある。
「本日はよろしくお願いします!」
現場に着いて早々1人の準騎士が2人に駆け寄ってきた。
「君は」
「マルク・ヒューバートであります」
マルクは先天性αで20歳。ブラウンの髪に空色の瞳をした青年だ。
アズールは礼儀を通して会釈で応じる。傍らのアレックスが彼を示して言う。
「彼はこの手の事件では優秀なんだ。今日は補佐をよろしく」
「お任せください」
(この手の事件ではというと……)
準騎士は見習いだ。基本的に補佐を行うのが主であった。
紹介の口ぶりからして有用な技能や異能を持っているというところか。この場合、無系の異能持ちと考えるのが妥当だろう。無系の異能は希少で他と比べ種類が多い。
多いというか、できる内容が個々で違うのだ。個人差とは違った意味で。派手さがあまりないのも特徴の1つと言えよう。
(無系は感知や探知が得意な者が多い。だけど一応聞いておいた方がいいですね)
「失礼。君の異能について聞いてもいいですか?」
「はい、もちろん。自分は視覚系の感知と近未来予知ができます。最も予知のほうは制御が難しく、任意に見れる訳じゃないので確実性に欠けますが……」
「いいえ、十分に素晴らしい力ですよ」
これは頼りになりそうだ。視力系の感知ならば証拠や足跡の発見が期待できる。集中すれば透視なんかも可能なので自制心が試される能力であろう。
痕跡を探しながら、同時に周辺の人々へ聞き込みを行っていく。
しかし声を掛けた人の幾人かに奇妙な反応をされる。全員がΩ。極度に緊張というか、怯えたような様子で。
最初は事件現場に居合わせたからだろうと気にも留めなかった。だが、どうも違うようだ。彼らの過剰な反応はアレックスと話す時は酷くないのである。
(もしかしてαが怖いのか?)
「あまり気にしないで下さい。珍しい事じゃないので」
確かに珍しい事じゃない、と思う。ただ特区でも同じなのかと気持ちは曇った。
どんなに治安が良かろうと消しようがないのかもしれない。偏見はあるだろうが、彼らだけを責められないのも事実だ。
「ありがとう。ご協力感謝します」
「い、いえ……」
アレックスが聞き込みを終えて戻ってくる。情報共有した。
「β相手でも緊張する人が多いですね」
「まあ、仕方ないよ。発情期の事もあるし。ああいう怯えた人、特にΩは同じΩのほうが落ち着いて話してくれるんだけど」
「やっぱりフェロモンに含まれる安心感や鎮静効果っていう」
「かもしれない。人命保護とか経験すると特に」
傍らの2人が話すのを聞きながら思う。Ω同士なら……。
騎士団に所属しているのはαやβが殆ど。禁制ではないが、自ら望んで猛獣の巣の中に入る者はいない。極端な言い方だがきっとこのような心境だと想像できた。
でも例外が知る限り1人だけいる。アズールがよく知る人物だ。自然と顔が浮かぶ。
(この場にあの人がいたら――)
民間人をあてにするなんて間違っていると思う。
それでも考えずにはいられなかった。問題があろうと、彼らの力が必要とされる局面はあるのではないか。もしも同盟と協力関係を結べたら、と。
ありもしない幻想を垣間見ながら調査を続けるアズールは気づかなかった。ほんの僅か、一瞬、何かを予感したように表情を強張らせたマルクの姿に。
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町の中心部ながら東側に近い騎士団の基地。その門前にゼノンは来ていた。
太陽は西に傾き、物々しい基地を赤く染めている。町中に建っているのに違和感を覚える砦風の外観だからか。視界に映るだけで背筋を正してしまう。
(ここに来るのは久しぶりだな)
用がなければまず訪れない場所だ。敷地内に足を踏み入れるのが久しくなるのは仕方ない。
外門を潜り内部に入ると、左右対称な壁や低木や建物が見える。まっすぐ正面扉に面した表側には駐車場があった。基地は3階建てだ。
(あれから1年経つのか。早いもんだぜ)
辞めてから1年。あの後同盟を作って今に至る。
漂流して最初の1年は治療と、幾つかバイトを掛け持ちしながら独学で異能や常識を学び。ハルトはたくさんの事を教えてくれたけど異能のほうは苦手で。
案の定独学の限界を感じて、異能の扱いと戦い方を学ぶ為必死に頼み込んだ。
ゼノンはいろいろ特殊だった故、本来通る警邏保安部養成所からは難しくて。
異例の事だったから周囲の風当たりがきつかった。それに基礎の差は大きい。食らいつかないとついていけないほどに。でも順調だったと思う。だけど……。
思い出したくない記憶が呼び起こされそうで深く考えない。
(あー考えないって決めてんのに)
何をうだうだと、と髪をぐしゃぐしゃに搔き乱す。
「あのぅ、同盟のゼノンさんですか?」
「ん? ああ。そうだけ、ど――」
死角から呼び止められ振り向いた瞬間、彼の意識は突然シャットダウンした。
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