第三話 美佳(後編)
ホラー映画風の夢の世界へようこそ。
夢の中で彼らが感じている恐怖、少しでも伝わればと思います。
第4章【夢の来訪者】
深く沈んでいく眠気に身を委ねた、その次の瞬間——。
気づけば僕は“どこか”に立っていた。
冷たい風が肌を刺す。
目の前に広がるのは、瓦礫に覆われ、朽ち果てた洋館。
屋根は一部崩れ、割れたガラス窓の向こうから、濃い赤の空がじわじわと滲み出ている。
まるで空そのものが傷つき、血を流しているかのような空模様だった。
周囲は沈黙に包まれている。
…いや、違う。
耳を澄ませると、軋む木の音がどこかから響いてくる。
それに混じって、濡れた布をずるずると引きずるような音。
さらに、誰かが「カタ、カタ、カタ……」と不気味に歯を鳴らしているような音まで——。
「どこだ、ここは……」
声がかすれた。喉が渇いている。
空気が重く、湿っていて、肺に入るたびに何かが引っかかるような苦しさがある。
洋館の正面を見ると、中に入れと言わんばかりに、大きな扉が開いている。
(中に入るべきか?)
恐ろしい何かが待ち構えている気がする。
踏み込んだら、もう後戻りはできない。そんな確信があった。
でも——この場にとどまれば、それすら選べなくなる気がした。
しかし、この場にとどまるのはもっと危険だ。
ここはどこなのか、どうすれば帰れるのかわからない。
僕は覚悟を決めて足を踏み出した。
洋館の中は、薄暗く埃っぽかった。
空気は重く淀んでおり、壁や床には長年の雨漏りでできた染みが無数に走っている。
そして、予想以上に暗い。
懐中電灯が必要だ。そう思ってふとエントランスの小テーブルを見ると、そこには銀色の懐中電灯があった。
(誰かが置いていったのか?)
こんな都合のいい話があるだろうか……そう思いながらも、僕はその銀色の懐中電灯を手に取った。
スイッチを入れると、細い光が伸び、目の前の階段を照らし出す。
手すりはひび割れが目立ち、あちこちに亀裂が入っていた。
僕は慎重に一歩一歩登り始めた。
ぎぃ……ぎぃ……と軋む音が廊下に響く。
階段は、静かに2階へと続いていた。
「かなり広いな、ここ……」
かくれんぼなんてした日には、行方不明者が出るのは確実だろう。
する気もないけど……。
2階は一際空気が冷たくなっていた。
薄暗闇の中で、いくつかの部屋が見えた。
手前のドアを開けると、そこは書斎のようだった。
壁一面に本棚があり、古びた革製の椅子が置かれている。
「ここには何もないな……」
本棚の本を見てみようと思ったが、埃だらけの本を触るのは少し抵抗があった。
別の部屋へ行こうと、廊下に出た、その時。
廊下の奥で、誰かが小さく叫んだ。
「たすけて……たすけてっ!」
掠れた少女の声が、廊下の奥から漏れた。まるで、何かに喉を塞がれながら叫んでいるような——。
声のした方へ駆け出す。
廊下の壁には、何本もの爪で引き裂かれたような痕が走っていた。
扉という扉が不自然に開いており、その奥からは、何かが這いずるような湿った音だけが響いてくる。
――その先に、彼女はいた。
ブロンドのウェーブがかった髪、青い瞳。
スラリと伸びた脚にジーンズを履いたその姿は、まるでモデルのようだった。
美しい人だ。だが、その顔は恐怖に歪んでいた。
こちらに気づくと、彼女は叫んだ。
「あなたも……私と同じなの!? たすけて……お願い!」
(同じ? それはどういう……)
だが、考えている暇はなかった。
彼女の背後に、“それ”が迫っていた。
「早く! 来る、来ちゃうよ、あれが……!」
僕は言葉を失い、彼女の手を取って駆け出した。
何も見えないのに、“音”だけが、確かに後ろからついてくる。
ずるっ――ずるっ――ずるっ……
腐った肉が床を引きずるような音。
骨が擦れ合うような、乾いた不協和音。
空気が震え、肺が縮むような圧迫感が胸を襲う。
後ろを見てはいけない。
見たら、何かが壊れる気がした。
彼女の手は冷たく、細い腕が震えている。
「こっちだ、こっちに!」
目についた扉を開けて飛び込む。
中は埃と古いカビの匂いに満ちていた。
壁紙は剥がれ、鏡には無数のひび。
床には、血のような黒い染みがじっとりと広がっている。
扉を閉め、鍵を探す――が、取っ手はもともと壊れていた。
彼女は部屋の片隅に膝をつき、肩を震わせている。
僕も彼女のそばに身を隠し、音が遠ざかるのを待った。
……だが、音は消えない。
それどころか、ますます近づいてくる。
耳のすぐ横で響いているような錯覚に囚われた。
ずるっ――ずるっ――ずるっ――
(来るな……来るな来るな来るな……)
呼吸が荒くなる。
音は、扉のすぐ向こうで止まった。
(く、来るのか……!?)
息を殺して身を縮める。
だが次の瞬間、音は再び動き出した。
ずるっ――ずるっ――ずるっ……
「行ったか……」
僕は小さく息をついた。
彼女も、ようやく浅く呼吸を始める。
「なんだったんだ……今の……」
問いかけると、彼女は答えられなかった。
ただ小刻みに震えながら、かすれた声でつぶやく。
「……怖い……怖い……」
「ここには……何がいるの……?」
「……わからないわ……」
彼女は顔を両手で覆い、そのまま泣き出した。
僕は、そっと肩に手を置く。
「大丈夫……今は僕がいるよ」
「ありがとう……あなたは、誰なの?」
「僕? 僕は――」
……出てこない。
自分の名前が、どうしても思い出せない。
(なんだ……どうしたんだ、これ……?)
言葉を詰まらせる僕に、彼女が不安そうな目を向けてくる。
「……分からないの?」
「すまない、なんだか……頭に靄がかかったみたいで。君は?」
「私は……ミカ。ミカって呼んで」
……美佳?
いや、どこかで聞いたような気がする――でも、思い出せない。
目の前のミカという女性には、見覚えがない。
こんな綺麗な人、一度見たら忘れるはずがないのに。
「……でも、名前がないと不便ね。じゃあ、あなたのことは“ジョン”って呼ぶわ」
「ジョン?」
「仮の名前って、大抵ジョンなのよ。英語圏では定番なの。
日本だと……ゴンベエとか、変な名前つけるらしいけど」
「ゴンベエ……?」
妙な話だ。ジョンより、ゴンベエの方がしっくりくる気がする。
それに……僕って、“ジョン”って顔じゃないよな。
ふと、そばにあった割れた鏡に目をやる。
……え?
そこに映っていたのは、金髪に碧眼の――
まさに「ジョン」と呼ばれても不自然ではない男の姿だった。
(な、なんだこれ……? 俺は……誰なんだ?)
頭の奥がズキズキと痛む。
まるで現実感が、じわじわと剥がれていくような……
「どうしたの、ジョン? 大丈夫?」
ミカが心配そうに覗き込んでくる。
「あ、ああ……平気だよ。それより、君も少し落ち着いたみたいだね」
「ええ。あなたがいてくれたから……」
そう言って、ミカは静かに微笑んだ。
「はは、泣いてる顔も悪くないけど……やっぱり、美人は笑ってるのが一番だな」
自分でも驚くほどスラスラと、そんな台詞が口をついて出た。
(なんだ……さっきまでの緊張感が、どこかへ消えていく……)
「もう、こんな時に……私のこと、気に入ったの?」
「もちろん。こんな場所じゃなければ、ディナーにでも誘ってるよ」
言葉を受けて、ミカは顔を赤らめ、そっと目を伏せた。
(どうしてだろう。まるで誰かのセリフをなぞっているように、自然に言葉が口をついて出てくる……)
「とにかく、ここを出よう。さっきの“あれ”が、まだ近くにいるかもしれない」
「……ええ、そうしましょう」
僕たちは、静かに部屋を後にした。
階段を降りて1階に向かう。
階段を降りれば、すぐ大きなドアのあるエントランスに出るはずだ……。
だが、降りてきて目の前に広がっていたのは、見たこともない長い廊下だった。
「……なんだ、ここは……?」
「おかしいわ……。こんなところ、通ってない……」
たしかに入ってきた時、階段の正面にはエントランスがあった。
なのに今は、左右にドアが並ぶ、無機質な廊下がどこまでも続いている。
空間そのものが、ねじ曲がったかのようだ。
「ジョン、どうするの……?」
「……進むしかないさ。引き返せるうちはまだマシだ」
「でも……あれがいたら……」
「その時は――逃げる」
静寂に包まれた廊下を、僕たちは歩き出した。
だが、歩いても歩いても、突き当たりが見えない。
「まるで夢の世界じゃないか……」
「ねえ……私たち、これって……死後の世界なんじゃ……」
「やめてくれよ、まだ生きてるさ、少なくとも……まだな」
そう言って、ミカの手を握る。彼女は驚き、そして微笑み、小さくうなずいた。
その時だった。
――ずるっ。
「……聞こえた?」
「ああ……」
――ずるっ、ずるっ、ずるっ……
あの音。骨と肉が地を這う音。
背後から、ゆっくりと、だが確実に近づいてくる。
一本道の廊下。左右のドアは固く閉ざされている。
逃げ場がない。
「ジョン、お願い、逃げよう……!」
「……試したいことがある」
「なにを……?」
「もし、奴が“影”なら――光で……」
手にしていた懐中電灯を、音のする方へ向けて照らす。
震える手でスイッチを強く押し込んだ。
光が伸びる。
だが――その先にある“それ”は、まるで吸い込むように光を飲み込んだ。
「……っ!」
光が、届かない。
確かに照らしているはずなのに、そこだけが**現実を拒絶するような“闇”**に覆われていた。
ただの影ではない。**光の届かない、異質な“存在”**だ。
そして、その“闇”の中で――目が開いた。
ひとつ、ふたつ、みっつ……
ぎょろりと光を反射する、無数の目。
瞳孔だけがこちらをじっと見据えている。
「ひっ……!!」
ミカが叫び、後ずさる。僕の背筋にも氷が走る。
“それ”は、動いた。
ずるっ、ずるっ、ずるっ……
闇が這い寄る。廊下の床を、壁を、天井を伝って、音もなく忍び寄ってくる。
空気がねじれ、光が歪む。
自分の輪郭さえ、ぼやけていく感覚。
(まずい……!)
「ミカ、逃げるぞ!!」
震える足に力を込め、僕たちは一斉に走り出した。
走る。
走っても走っても――終わらない。
一本道の廊下。
先も、後ろも、変わらない風景。
出口も曲がり角もない。ただ、同じ光景が延々と続く。
「なんで……なんで変わらないのよぉっ!!」
ミカの叫びが、虚しく反響する。
彼女はすでに半泣きで、荒い息を吐きながら、それでも前へ進もうとしていた。
僕も同じだ。息が切れ、喉が焼ける。
「おかしいだろ……。いくらなんでも……っ」
一歩、また一歩。
足が鉛のように重い。
ついに、膝が笑い、僕の脚が止まった。
――ずるっ。
聞こえる。後ろから、あの音。
まだ遠い。だが確実に近づいてくる。
「いや……いやあ……もう……っ」
ミカが崩れ落ちた。
膝から床へ、力なく。肩を震わせ、喉を詰まらせながら、泣いている。
目を見開いたまま、壊れたように。
限界だった。
精神も、体も、もう限界だった。
(守らないと……彼女だけは……!)
でも、何も思いつかない。
目の前には、同じ廊下が続くだけ。
助かる道など、どこにもない。
「くっそおおおおおっ!!」
――ドン!
怒りに任せて、壁に頭を叩きつけた。
乾いた衝撃。軽い痛み。けれど――
バキィッ!
壁が崩れた。
粉のように砕け、まるで幻が剥がれるように、そこに“何か”が姿を現した。
(……え?)
そこには、扉があった。
まるで、それまで存在を隠していたように。
存在していたはずなのに、認識できていなかった。
“見てはいけない”場所に、突如として現れた出入口。
廊下にドアなど一つもなかったはずだ。
でも今、そこにある。現実の歪みが、ぱっくりと口を開けている。
「ミカッ!」
我を取り戻し、彼女の手をつかむ。
ぐったりしていた身体を無理やり引き起こし、扉に向かって転がるように飛び込んだ。
――パタン。
扉が閉まった瞬間、あの這いよる音が、すっと止まった。
静寂。
まるで、最初から何もなかったかのように。
ただ、部屋の中には――**まったく別の“世界”**が広がっていた。
★★★
5章【夢境の肖像】
そこは――鏡の迷宮だった。
床も壁も天井も、すべてが鏡でできている。
二人が一歩足を踏み入れた瞬間、無数の自分たちが四方八方に現れた。
「なんだここは……さっきまでの洋館と、空気が違う……」
「ジョン……。ドアが……ない」
振り返った先には、もう扉は存在していなかった。
来たはずの道すら、鏡の中に溶けて消えていた。
空間の中心に、異様な存在感を放つ巨大な鏡台が鎮座している。
その鏡だけが、まるで生きているかのように、どこかを見つめ返していた。
「ねえ……あの鏡……見ない方がいい気がする」
「でも、見てしまうだろ。あれは……何かを見せようとしてる」
ミカが震える指でその鏡を指さす。
そこに映っていたのは、確かにミカ自身――だが、どこかが決定的に違う。
「……ミカ、これ……」
「違う、あれは私じゃない!」
こちらのミカは指を差している。
鏡の中の“ミカ”は、手を下した状態で無表情で立っていた。
そして、ゆっくりと笑った。冷たい、悪意に満ちた笑みだった。
現実のミカは笑っていない。だが鏡の中の“それ”は、確かに彼女の顔をしている。
「私、こんな顔、してない……こんなの、私じゃない……」
「ミカ……離れて」
周囲の鏡を見回す。だが、どこにもミカの姿は映っていない。
映っているのは、僕だけだ。無数の“僕”が、無表情でこっちを見ている。
ミカもそれに気付く。
「……私、ここにいないの? もう消えてるの……?」
『そう。あんたなんか、いない方がいい』
それは、鏡の中から響いた。
ミカの声とまったく同じトーンで、しかし明らかに違う何かの声。
『あんたがいるせいで、親友は壊れた。
あんたのせいで、全部ダメになった。
あんたは、邪魔なの。消えて』
ミカの体が震え始める。
鏡の中の“ミカ”は、一歩、鏡の内側からこちらに踏み出してくるように見えた。
「……そうだよね。私なんか、いない方が……」
「ミカ、違う! そいつの言うことなんか、信じるな!」
叫んでも、ミカには届かない。
彼女は虚ろな目で、ひとり言のようにつぶやく。
「迷惑だったよね、ジョン……。こんなとこ、巻き込まれて……」
「違う! 僕はミカを助けに来た。僕には、君が必要なんだ!」
ミカの肩を強く抱く。彼女は、かすかに瞬き、焦点を戻した。
だが――
『……うるさい。お前なんかに、ミカの何がわかる』
鏡の中の“ミカ”が、豹変する。その顔が歪み、醜く、怒りと憎しみに満ちてゆく。
「ミカを惑わすな、化け物……!」
僕は鏡に拳を叩き込んだ。
ヒビが走る――次の瞬間、鏡の中の“ミカ”が絶叫しながら消滅した。
息を呑む静寂の中で、ミカが崩れるように座り込む。
僕もその隣にしゃがみ込み、彼女の手を取った。
「……ありがとう、ジョン。でも……」
ミカは、笑った。あまりにも弱く、あまりにも儚く。
「やっぱり、私なんか……いない方がよかったんだよ」
「ミカ……!」
その言葉を、僕はこれ以上言わせたくなかった。
咄嗟に彼女の唇をふさぐ。
迷いもためらいもなかった。今、伝えなければ、彼女は――壊れてしまう。
ミカの体が硬直する。だが、やがて力が抜け、僕の腕の中に沈んでいった。
キスを終えた時、彼女は静かに目を伏せた。
ぽろりと、大粒の涙が鏡の床に落ちた。
★★★
鏡の迷宮が崩れ、気づけば僕たちは、白く静かな部屋の中にいた。
外の世界と切り離されたような、時間の流れも音さえも止まったような空間。
まるで、嵐の後の心の避難所のようだった。
ミカは黙って、窓辺のベッドに腰を下ろしている。
その表情にはまだ、影が残っていた。
「……ねえ、ジョン」
小さく、彼女が口を開く。
「私、本当に……ここにいていいのかな」
「もちろんだ」
僕はそばに膝をつき、彼女の手を握る。
「君がいない世界なんて、僕には考えられない」
ミカの瞳が揺れた。まつ毛の奥で、涙がこぼれそうに光る。
「……どうしてそんなふうに言えるの。私、今でも時々思っちゃうんだよ。全部、私のせいだったって……」
僕は言葉を選ばず、彼女をそっと抱きしめた。
壊れものを扱うように、でも確かに、大切なものをこの手で確かめるように。
「たとえ何があっても、ミカを否定する声には負けない。
君が信じられないなら、僕が信じる。
何度でも言うよ。君はここにいていい。君は、必要だ」
彼女の肩が震えた。
それは涙か、それとも救われたことへの安堵か――
やがて、ミカはゆっくりと顔を上げた。
「……だったら、今夜だけ、そばにいて」
震える声で、彼女が言う。
僕は頷いた。
ミカがそっとベッドに身を横たえる。
彼女の白い肌が、淡い光に照らされて輝いていた。
不安と決意、拒絶と渇望が入り混じったような目で、彼女は僕を見つめる。
「ねえ……私の体……触れてもいいよ」
その声はかすれていたけれど、確かな意志が宿っていた。
僕は彼女の隣に横たわり、そっと額にキスを落とす。
眉に、頬に、首筋に――彼女の輪郭を、ひとつずつ確かめるように。
ミカは目を閉じ、静かに身を委ねた。
「ミカ……君は、ここにいていい。
君のすべてが、僕にとってかけがえないんだ」
彼女の指が、僕の背中にそっと回される。
何も言わず、ただ、温もりを求めるように。
夜は静かに、深く、ゆっくりと流れていった。
言葉よりも先に、触れあう体温が語る。
欲望ではなく、救いとして。慰めではなく、確信として。
この時、ミカは確かに「愛されている」と感じた。
……僕はそう、信じている。
★★★
「ねえ、ジョン? ……私のどこを、好きになったの?」
ベッドに腰かけたミカが、服の袖を整えながら静かに言う。
表情は柔らかく微笑んでいるけれど、その瞳の奥には、まだ小さな揺らぎがある。
「どこって……はっきり言葉にはできないけど……」
僕は彼女の隣に腰を下ろし、しばらく記憶を辿る。
「最初に出会ったとき、君は泣いていた。心から泣いてた。
その姿を見た時……守りたいと思った。
それが、たぶん僕の“始まり”だったのかな」
ミカの目が丸くなる。
「……出会った時、私が泣いてたから?」
「そう。涙を流して、必死で逃げようとしていた。
そんな君を見て、僕は心を動かされたんだ。
きっと、恋ってそういうものじゃないかって思う」
「も、もう……真顔でそういうこと言わないでよ」
彼女は顔を背けるように、照れくさそうに髪を整える。
――だが、その仕草に、僕は違和感を覚えた。
ブロンドのセミロング……けれど、彼女の指先が何度も触れているのは、頭の後ろ――
まるで、ポニーテールを直すような仕草。
(……あれ? ポニーテール?)
その時、電流のように、記憶が蘇った。
(そうだ、美佳――あの子は、照れたときによく、あの仕草をしていた)
ミカ。ミカという名前。
顔立ちも声も違うのに、雰囲気がどこか彼女に似ている。
思い出す。僕は美佳の手を取って眠りに落ちた。
気づけば、こんな不思議な世界にいた――
「どうしたの、ジョン?」
ミカが不安そうに僕を見つめる。
「……ようやく分かったよ」
僕は彼女の瞳をまっすぐ見返した。
「君は、美佳なんだね。ここは、美佳の心の中だ」
「え……?」
「辛いことがあって、苦しくて、逃げ場がなくて――
だから君は、自分自身を守るために“ミカ”という存在を作ったんだ。
自分よりも大人である、“ミカ”という存在を」
ミカの口元が震える。否定しようとするように、けれど声は出ない。
「でもね、ミカ。いや、美佳。
君の中にはもう、強さが芽生えている。
涙を流すたびに、誰かに頼るたびに、少しずつ自分を取り戻してきたんだよ」
「……それでも、私は……間違えた。人を傷つけて……迷惑をかけて……」
「でもそれでも、君はここにいる。今ここに立って、僕の目を見てる。
それが何よりの証拠だ。――君は、自分に打ち勝とうとしているんだ」
僕は、ポケットから“それ”を取り出した。
小さく、冷たい、銀の拳銃。
「……これを」
彼女は受け取る。指先が震えている。
「なに……これ……」
「君が最後に向き合うものが、もうすぐ来る。
でも、もう怖がらなくていい。君は、自分を肯定できたんだ。
その証に――君の手で終わらせるんだよ」
ずるっ……ずるっ……。
影が、現れる。
あの禍々しく歪んだ、闇の塊。今まで何度もミカを追い詰めてきた“何か”。
ミカは銃を握りしめたまま、じっとそれを見つめた。
「私を……私自身を、苦しめてきた“影”……」
「そう。けれどもう、君はそれを超えられる。その痛みごと、乗り越えられるはずだ」
ミカは深く息を吸い、震えを抑えるように目を閉じる。
そして――
「もう……私は逃げない」
銃声。
乾いた音が静かに響き、影は弾けるように消え去った。
――闇は、跡形もなく消えていた。
ミカはその場に立ったまま、しばらく目を閉じていた。
そして、ゆっくりと瞼を開けたとき――
そこには、確かな“自分”がいた。
ミカがジョンに向き直る。
静かに揺れる光の中で、彼女はまっすぐに彼を見つめていた。
「ありがとう、ジョン。あなたがいたから、私は……私自身を信じることができた。もう、怖くない」
ジョンは言葉を探しながら、ミカの手をぎゅっと握った。
「本当に……大丈夫なのか?」
ミカはうなずいた。彼女の瞳に迷いはなかった。
「大丈夫。あなたがいてくれたから、ここまで来られた。これからは、自分の足で進んでいくわ」
その瞬間、夢を構成していた無数のカケラが、一斉に淡い光を放ち始めた。
鏡のように二人の姿が幾重にも映り込み、やがてすべてが光の中に溶けていく。
ミカの輪郭が、霞のように薄れていく。
「ありがとう、ジョン。もう、迷わない」
最後のその声だけが、耳に残った。
白い光がすべてを包み込んでいく――。
★★★
6章 【ドリームファイター】
カーテンの隙間から、朝日が差し込んでいる。
「……変な夢、見たな」
僕は、ゆっくりと目を開けた。
天井の模様がぼやけて見え、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚だけが残っている。
――彼女を、放したくはなかった。
けれど最後に、彼女は「自分の足で歩いていく」と言った。
確かに、助けることができたという温かさが、体の芯にまだ残っている。
夢の終わりとしては……きっと、それでいいんだろう。
あの世界は、美佳の心の中だと彼女は言っていた。
悩みを聞かされた直後、悪夢にうなされていた美佳。
……もしかしたら僕の心が、彼女の不安に反応して、あんな夢を見せたのかもしれない。
まあ、夢は夢だ。深く考えても仕方ない。
ふと横を見ると、僕の隣で、美佳がくうくうと可愛い寝息を立てていた。
夜中に悪夢にうなされていた時とは打って変わって、今は穏やかな寝顔だ。
ぱちり、と目が開く。僕と目が合う。
「美佳、おはよう」
「あ、うん、おはよう、ジョン……」
……ジョン?
「……あれ? あ、違う、お兄ちゃんだ。間違えちゃった」
「ジョンって、誰?」
「んー、夢の中で会った金髪のかっこいい人ー」
美佳はにへら、と頬を緩ませる。まだ寝ぼけているようだ。
……でも、ジョンって……。僕の夢でも、僕はジョンだった。
髪も金髪で……かっこいいかどうかはわからないけど。
少しだけ、背筋に冷たいものが走る。でも、知りたくて、美佳に聞いてみる。
「どんな夢を見てたの?」
「うん……お兄ちゃんと寝たあとも、また怖い夢を見たんだけど……。でも、ジョンが助けてくれたの。
泣いてる美佳を――あ、夢の中では大人で金髪美女の“ミカ”だったんだけど――、手を引っ張ってくれて、一緒に逃げて、励ましてくれて……それで……えへへ」
言いながら、美佳の頬がみるみる赤くなっていく。
……その理由は、だいたい察しがつく。
「えーとね、一本の映画を自分で体験した、みたいな感じ! おしまい!」
照れ隠しのように言い放つと、美佳はぱたぱたと部屋を出ていった。
階段を駆け下りる足音に続き、「おばあちゃん、おなかすいたー!」という声が階下に響く。
……同じだ。彼女が夢で“ミカ”として体験したこと。
それは、僕が“ジョン”として目にしたことと、寸分違わなかった。
あの夢の中で言っていたように、僕は本当に――彼女の心の中に入っていたのかもしれない。
まるで、スクリーン越しに観るだけだった映画のワンシーンに、自分が入り込んで、その結末を変えてしまったような、不思議な感覚だった。
***
着替えて1階へ降りると、母さんが朝食の準備をしていた。
食卓にはスマホの画面を眺める美佳の姿。
何か話しかけようとしたとき、母さんが先に小声で問いかけてきた。
「美佳ちゃん、あなたの部屋で寝てたのね? 起きたら姿が見えないから、びっくりしちゃったわ」
「あ、ごめん……怖い夢見るからって、夜中に僕のところに来たんだ」
「そう……でも、美佳ちゃんに、どんな魔法をかけたの?」
母さんの視線は、美佳に向けられたままだ。
目元が優しく緩んでいる。
「どんな魔法……って」
「表情が、昨日とはまるで違うわ。あんなに悩みを抱えていた顔じゃない。今の彼女には、もう迷いがないように見えるの」
美佳を見ると、確かに。
どこか決意めいた強さが、その横顔に滲んでいた。
――いや、少しオーバーに見えてるだけかもしれないけど。
「……よし、送信完了!」
スマホをタップして、美佳は立ち上がる。
「誰に何を送ったの?」
「友達に。“今日、話したい”って。……どうしてあんな冷たい態度を取ったのか、自分でちゃんと聞いて、前に進みたいから!」
パンをトースターにセットしながら、母さんの用意したおかずを並べていく。
それを見た母さんが、少しだけ目を細めて僕に尋ねる。
「ね? 魔法じゃないなら、何があったのかしら?」
僕は少しだけ考え、答えた。
「……さあね。いい夢を見たんじゃないかな。どこかのヒーローが、美佳の心を助けてくれたんでしょ」
もしかすると、僕には、人の心に触れる力があるのかもしれない。
だとしたら、またいつか――誰かの夢に入り、その心を救うことがあるかもしれない。
さしずめ、夢戦士――ドリームファイターってところかな。
***
「おーい、お兄ちゃん」
「……はっ」
美佳の声に意識を引き戻されると、彼女の顔がすぐ目の前にあった。
「ち、近いよ美佳。年頃の女の子がそんな無防備でどうすんの」
「えー? 無防備なのはお兄ちゃんでしょ? 顔に落書きしても気づかなさそうだったよ~」
そう言いながら、美佳は僕の額を指先でちょんとつつく。
「……なんだよ、それ」
「額に“肉”って書いてあるかもよ?」
ぺろっと舌を出して、からかうように笑うと、美佳はくるりと踵を返して離れていった。
「どこで覚えた、そのネタ……」
僕は慌てて額をゴシゴシとこすってみたが、特にインクの跡はない。
どうやら本当に描かれてはいないようだ。さすがに、そこまで悪ノリはしなかったか。
――それにしても、今、こうして何気ない冗談を言い合える日常が、なんだかちょっとだけ特別に感じる。
母さんのお帰りパーティーは、美樹さんとの美容談義で盛り上がりつつ、すでに終盤を迎えていた。
キッチンには、空になった日本酒の空瓶と、グラス。
リビングには笑い声が響いていて、ゆるやかな空気が流れている。
そんな中、美佳はスマホを両手で握りしめ、真剣な顔で何かを打ち込んでいた。
その横に僕が座ると、ふっと顔を上げてくる。
「メールでも打ってるの?」
「うん、まあ、そんなとこ。友達がね、彼とうまくいってるって、もうノロケ全開でさ~」
「え、小学生で彼氏? 進んでるなあ」
「まあね。でもね、二人をくっつけたの、美佳なんだよ?」
得意げに笑うと、最後の一文を打って「送信!」と親指をタップ。
「どんなメール送ったの?」
「“お前なんか祝ってやる!”って」
……どんな祝福文だよ。
「ていうか、“くっつけた”ってどういうこと?」
「前にさ、友達とうまくいかないって話、覚えてるでしょ? 冷たくされてる気がするって……」
「ああ、泊まりに来た夜。怖い夢見て、一緒に寝た時の」
「そう。それでね、美佳、その後で友達にちゃんと聞いたんだ。“なんで冷たくするの?”って」
「うわ……けっこうストレートだな」
「うん、そしたら、“美佳も彼のこと好きなんでしょ?”って言われてさ」
「彼って……?」
「係でちょっと仲良くなった男の子がいてね。それ見て、友達はジェラジェラしちゃってたみたい」
「“ジェラジェラ”……ね」
ジェラシー(嫉妬)ってことだろうけど、妙に可愛い言い回しだ。
「だから、美佳言ったの。“そんなことないよ、学校に好きな子いないもん”って。で、その男子に“あの子と付き合いなさい!”って言ってやったの」
「わあ、剛速球ど真ん中ストレートぉ……」
「でもね、それで彼も“実は好きだった”って言ってくれて、その子と両想い成立ってわけ」
「……すげぇよ美佳。大人でも難しいことを、あっさりと……その行動力、ほんと見習いたい」
「友達との仲も前よりずっとよくなったし、その子から“ありがとう&幸せ報告メール”も来る。めでたしめでたし!」
そう言って、美佳は小さくガッツポーズをする。
「美佳のおかげだな」
「……んー、まあ、そうかもだけど」
言葉を濁しながらも、美佳の目はどこか遠くを見ている。
「美佳も、あの人のおかげで、前向きになれたからね」
「あの人?」
「夢で会った、ゴンベエさん」
……ゴンベエ?
ジョンじゃなかったっけ?
僕の表情に疑問が浮かんだのを察したのか、美佳がすぐ補足する。
「ジョンって、仮の名前でしょ? 日本で言うと“名無しのゴンベエさん”みたいなもの」
「ああ……そういう例えね……」
……でも、なんか一気に和風のコメディ感が強くなったぞ。
「いつかまた、夢の中で会えたら、教えてもらうんだ。彼の本当の名前」
とても静かに、でも強く、そう言う美佳の目は真っ直ぐだった。
ただの夢、されど夢――彼女の中で、それは確かな変化をもたらした出来事だったのだ。
僕も、あの夜のことを思い出す。
夢の中で手を引いて走った彼女の姿と、勇気を持って進む今の彼女が、ちゃんと繋がっていることを。
その成長が、ただただ嬉しかった。
美佳はもう、怖がりながら泣いていた女の子じゃない。
一歩ずつ、自分の足で歩いていく。
僕はそれを、そっと見守っていこう。
たとえまた、誰かの夢の中に迷い込む日が来たとしても――
今度もきっと、誰かの心を照らすために、僕はそこにいる。
BGM:Get Wild
ちゃーらーらー ちゃらんらんららー
ちゃららんらんら ちゃんらんら ちゃーらーららー
おわり
どうでしたか、美佳のストーリー。
次回はまたヒロインも夢も変わっていきます。(構想段階です)
次回もまた読んでもらえたら幸いです。