第二話 晶(後編)
<<<6章 【スパイ・バディ・スパイ】>>>
霧の中を進むごとに、足元の青いラインは次第に太くなり、やがて一本のくっきりとした道へと姿を変えていった。
それに呼応するように、視界を覆っていた霧もゆっくりと晴れていく。
目の前に現れたのは、無機質なコンクリートの塊。
高い壁に囲まれ、外界との接触を拒むように、静かに、しかし圧倒的な存在感で立ちはだかる建物――研究施設。
どこかの郊外、あるいは都市の地下にでもありそうな、「ラボ」と呼ばれる秘密機関のような場所だった。
重厚な金属製の門。その上には、こちらの動きをじっと追う監視カメラ。
何か一つでも間違えば、警報が鳴り響きそうな張りつめた空気が漂う。
そのとき――背後から、足音。
「遅かったな。……連絡は受けてる。お前が俺のバディだろ?」
低く、よく通る声が響いた。
振り返ると、そこには黒いジャケットに身を包んだ男が立っていた。
シンプルなスーツにイヤーピース、そして手にはグローブ。
その姿は、任務に慣れたプロフェッショナル――まさにスパイという言葉が似合う男だった。
だが何よりも印象的だったのは、その目。
油断のない鋭さと、奥底に影を落としたような寂しさをたたえたまなざし。
「俺はアキラ。Cユニット所属。今回の潜入任務の現地リーダーだ」
近づいてよく見ると、顔立ちには確かに晶の面影があった。
だが表情は硬く、目つきも言葉も大人びていて、まるで別人のようだった。
「君が……アキラ」
思わずそう呟くと、彼はほんの一瞬だけ眉をひそめ、すぐに感情を押し殺すように言った。
「ラボ内部に、極秘の精神操作プログラムが存在する。
対象は未成年、感情に敏感な子どもたちだ。
それを探し出し、証拠を確保するのが俺たちの任務――“ミッション”だ」
その言葉は、現実の晶の境遇と不気味なほどリンクしていた。
背筋をなぞるような冷たい感覚が、静かに這い上がってくる。
「お前のコードネームは?」
「えっ……あ、ああ……」
咄嗟に問いかけられ、戸惑いながらも僕は言葉を探した。
「……コードネームは、“セブン”で」
スパイラブスパイの憎めない敵役、”シックス”から付けてみる。
……アキラは一拍置いて、小さく頷く。
「了解、セブン。行くぞ。ミッション開始だ」
彼は手首の端末を操作しながら、ゆっくりと目の前のゲートへ視線を送る。
金属の門が軋む音を立てながら開きはじめた。
その先に広がるのは、暗く深い闇。
空気の密度すら変わったように感じるその入口は、晶の“心”の奥底に続いている気がした。
彼自身すらまだ気づいていない、“トゲ”の正体が、きっとこの中にある――。
僕は、アキラの背を追って、静かにラボの中へと足を踏み入れた。
黒鉄のフェンスを越えて施設の裏手へ回ると、霧に沈むように、無骨な扉がひとつ現れた。
アキラが壁に手を当て、低くつぶやく。
「監視ドローンは今、南側だ。ここは死角に入っている。……行くぞ、セブン」
「了解」
扉に近づくと、パネル式の電子ロックが淡く光を放っていた。
アキラは腰のポーチから小型爆薬を取り出し、設置しようとする。
「ちょっと待って。開けるだけなら、こっちのほうが静かだよ」
セブンが手を伸ばし、アキラを制した。
「……ハッキング、得意なのか?」
「まあね。なんとなく、パターンが見える気がする」
セブンはタッチパネルを指先で滑らせ、感覚的にコードを並び替えるように操作していく。
一瞬、光の模様が乱れるが、彼は目を閉じ、深呼吸。
パネルの色が静かに青へと変わり、控えめな電子音とともにロックが解除された。
「開いた。爆薬は、もったいないでしょ?」
アキラは目を細め、興味深げにセブンを見た。
「……なるほど。だからバディに選ばれたってわけか。俺は力技専門でな、こういうのは手間取る」
ふたりは扉を抜け、薄暗い通路へ足を踏み入れる。
天井には管が這い、足元には赤い警告灯が点滅していた。
「戦闘や爆発物なら任せてくれ。でもセキュリティ解除や情報抽出は正直、苦手だ」
「分担できるね。そっちはなんとかなると思う」
「助かる。……お前のそのやり方、マニュアルにないな。なんというか、“捻じ曲げてる”感じがした」
「捻じ曲げてる?」
「そうだ。扉に指示を出すんじゃなくて……扉そのものを“納得”させてるような」
セブンは目を見開き、やがて小さく笑う。
「変なこと言われるの、初めてじゃないかも」
アキラは肩をすくめ、前方の十字路で立ち止まった。
「――この先が中枢エリアだ。ただ、正面からは無理がある。どこかに別ルートがあるはず」
そのとき、施設の奥からかすかな電子ノイズが聞こえてきた。
警戒音の隙間を縫うように、不穏な気配が空気を揺らす。
「……ただの研究施設じゃない。人の精神に“何か”を施している」
セブンは金属壁にそっと指を当て、奥を見つめる。
「ここで何が行われてるのか……知りたい。だから——進もう、アキラ」
アキラは横目でセブンを見て、わずかに口元を緩めた。
「――頼もしいバディだ」
赤い非常灯の中、二人の影が静かに伸びていく。
夢の奥深く——心の中枢へと、ふたりは踏み込もうとしていた。
★★★
ラボに潜入したふたり。
途中、セブンが操作にもたつき、警備ドローンに発見されるアクシデントが発生した。
だが、アキラの正確な射撃でドローンは撃破され、アラームも止まる。
「すまない、アキラ……」
「構わない。これくらい、カバーするのがバディだろ?」
ラボ内部は、白と灰色で統一された無機質な空間だった。
冷たい人工照明の下、無人の通路がどこまでも続く。
警備体制もアラームの混乱で乱れている。今がチャンスだ。
「この先に、管理中枢があるはずだ」
アキラが小声で囁く。
セブンはうなずき、前に出る。
やがて、行き止まりのように見える扉の前で立ち止まる。
赤いランプが警告音と共に脈打っていた。
「……騒ぎでロックがかかったか」
アキラが渋い顔をする。
「任せて」
セブンは無骨な端末に手を触れる。
何の入力もせず、ただ“感じ取る”ように意識を集中させる。
ぐにゃり、と空間がねじれるような感覚。
情報の流れが彼の中に流れ込み、端末の“内側”が読める。
「……あった。極秘ファイル。ロック、解除できた」
電子音が鳴り、扉が静かに開く。
アキラが驚いた表情でセブンを見つめる。
「どうやった?」
「うまく言えない。……ただ、感覚的なものなんだ」
ふたりは室内に滑り込む。
そこは研究の中枢——管理室だった。
ホログラム端末が並び、中央のディスプレイには巨大な記録ファイルが浮かぶ。
セブンが検索インターフェースを操作する。
すぐに、あるファイル名が目を引いた。
「Project: MIRROR」
「精神操作プログラム……これか」
ホログラムに、記録映像と音声が再生される。
『実験対象:α(アルファ)——初期の被験者。感情制御プログラムに失敗。副作用により、感情の一部が“分離”したと推定。現在、特別封印領域に収容。』
『対象は女性。実験時は10代前半。現在は成人。詳細情報は非公開指定。』
「感情が……分離?」
「つまり、自分の一部を“封じた”ってことか?」
「普通なら壊れてる。でも、生き延びてる。そして“封印”という言葉……意図的な何かがある」
「この“対象α”……きっと、ミッションの核心だ」
「……会わなきゃいけない気がする」
セブンの声に迷いはなかった。
アキラは一瞬だけ沈黙し、うなずいた。
「よし。次は——封印領域を探すぞ」
すると、部屋の片隅で別の端末が自動的に点灯し、地図が表示された。
【セクターZ:アクセス制限・特別封印領域】
「見つけたな……」
ふたりは再び歩き出す。
★★★
封印領域へのルートは、通常は使われない廃棄ラインを通っていた。
ひび割れた床、剥き出しの配管、金属の焦げた匂い。
僕は、アキラの背を追いながら、無意識に自分の手を握っていた。
現実味がないのに、足は痛み、心臓は高鳴っている。
これは夢——そう何度も言い聞かせていたのに、ここにいると「これは現実なのかも」と錯覚しそうになる。
(スパイラブスパイなら、ここは演出の盛り上がりポイントだ)
(閉鎖空間、緊張感、封印された実験体。絶対に何かが起きる)
けれど、画面の外で見ていたものと、実際に歩いているこの感覚は、まるで別物だった。
(怖い……そう思ってる)
僕の感情が、ふいに自分の中で声になった。
スパイは、かっこいい。クールで、強くて、仲間を信じて、絶体絶命の中でも諦めない。
でも今の僕はどうだろう。震える手。動悸。迷い。
“僕は、スパイラブスパイの中のヒーローじゃない”
「お前、急に静かだな」
前を歩いていたアキラが振り向いた。
「……ちょっと、怖くなっただけ」
本音が、ぽつりとこぼれた。
「正直だな。スパイには珍しい」
アキラの目は笑っていなかった。でも、責めるようでもなかった。
「そっちは、怖くないの? ここに来て……何か感じたりしない?」
アキラはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息をつく。
「わからない。ただ、変な話だけど……この先に何か“知ってる顔”があるような気がしてる」
「……“知ってる顔”?」
「いや、そんなはずない。ここには俺の過去なんか存在しない。なのに……妙に懐かしいような、そんな感じがするんだ」
それが「予感」なのか、「記憶」なのか、アキラ自身も分かっていない様子だった。
(……もしかして)
僕は、胸の奥がぞわっとするのを感じていた。
アキラは、晶の中から生まれた人格だ。
ということは——。
「アキラ」
僕は、意識せず口にしていた。
「もしも、この先で……自分に似た人間に会ったら、どうする?」
アキラは、足を止めた。
そして、少し考えてから、言った。
「確かめる。“俺は誰なのか”って」
その横顔は、いつもよりわずかに、脆く見えた。
僕は、そんな彼の背に、そっと言葉を投げた。
「……俺も、たぶん、そうする」
廊下の先、微かな風の音と共に、封印領域の気配が近づいていた。
ただの夢じゃない。これは、誰かの“真実”に触れていく旅だ。
<<<7章 【Project MIRROR】>>>
重厚な金属扉が、廊下の突き当たりに立ちはだかっていた。
その無機質な表面には、血のような赤でこう記されている。
〈セクターZ:許可なき立ち入りを禁ず〉
「……ここか」
アキラがポケットから偽造カードを取り出した。
「一応、本部が用意してくれたキーだ。効くかどうかは……運次第、ってとこだな」
「ダメだったら、俺の出番だ」
僕は口元を緩め、軽く笑ってみせた。
「お前が言うと、冗談に聞こえねえんだよな……」
アキラも、わずかに笑った。
だがその直後——
──キィン……!
耳の奥を突き刺すような異音が響いた。
赤いランプが点滅を始め、警報が一斉に鳴り響く。
「ちっ、警戒システムが生きてやがったか!」
左右の壁がスライドし、格納庫のような空間から球体型のドローンが数体、滑るように現れる。
黒光りする機体、赤く発光するセンサー、空気を焼くような電磁音——明らかな殺意が空間に満ちていく。
「セブン、下がれ!」
アキラが叫ぶのと同時に、僕は背後の備品ロッカーに目をやり、そこを意思でこじ開ける。
……あった。
そこにはセキュリティ用の拳銃。
それを僕は素早く掴み、構える。
「来いよ……!」
狙いを定めて、引き金を引く。
一発、二発。センサー部に命中するが、機体はまだ動く。弱点はそこだけだ。
「ここは俺が残る。お前は先に行け!」
アキラが声を張る。
だが、僕は首を振った。
「違う。お前が行け。ここを抜けた先が“核心”なんだろ? 答えがあるのは、そっちだ」
「だが、お前じゃドローンを——」
「大丈夫。俺の得意分野は、“現実をねじ曲げること”だ。……爆破は、お前のほうが得意だろ?」
アキラは目を見開き、そしてすぐにその目を細め、表情を引き締めた。
「……すぐ戻る。死ぬなよ」
カードを認証パネルにかざすと、扉が静かに開いた。
彼は振り返らず、通路の奥へと消えていく。
僕は銃を構え直し、ゆっくりと歩を引きながら、迫るドローンに照準を合わせる。
「さて……ここからが本番だな」
銃声と閃光が、閉ざされた廊下を満たした。
火花が弾け、鋭い金属音が壁という壁を跳ね返る。
一機、撃破。だが、背後からの射線を読み切れず、肩に焼けるような痛みが走った。
(うぐっ……! でも、アキラが向かった先には——)
もう一人の“晶”がいる。
胸の奥が、灼けるように締め付けられる。
(僕は……晶を守るって、決めたんだ!)
視界がかすむ。
呼吸が浅くなる。
それでも、意識の最後の灯で、僕は最後のドローンに銃口を向けた。
引き金を引く。
世界が、白く染まった。
★★★
静寂が戻った通路には、金属と焦げた匂いが立ち込めていた。
僕は、血の滲む肩を押さえながら、壁に手をついて歩を進める。
脚にも裂傷があるのか、体重をかけるたびに鋭い痛みが走った。
それでも、奥の部屋から伝わってくる“空気の違い”が、僕の背中を押していた。
(行かないと……。あそこに、“何か”がある)
重苦しい空気のなか、ようやく扉の前にたどり着く。
足元には、焼け焦げた自動機銃——セントリーガンの残骸が転がっていた。
制御ユニットは砕かれ、天井から垂れ下がるケーブルには、爆裂の痕跡。
(アキラ……お前が、これを……)
どうやって突破したのか、それは分からない。
だが今は、その場にいないという事実だけが胸を締めつけた。
無事に先へ進んだのだと思いたい。そう、信じたい。
扉はすでに開かれていた。
その奥は別世界のように静まり返り、空間の温度さえ異なるように感じた。
部屋の中央。そこに、巨大なカプセルが据えられている。
アキラが、その前で立ち尽くしていた。
「……アキラ?」
声をかけると、彼は一瞬だけ振り返ろうとして——やめた。
まるで、言葉を失ったように。
ただ、視線の先にある“それ”を、見つめ続けていた。
僕も彼の隣に立ち、ガラス越しの中を覗き込む。
そこで、僕の呼吸が止まった。
そこにいたのは、眠るように目を閉じた女性だった。
<<<8章 【シールド・ソウル】>>>
長い睫毛。整った顔立ち。
どこか儚げで、柔らかな雰囲気を纏っている。
(……晶?)
だが、違う。
僕の知っている“晶”ではなかった。
もっと年上で、もっと大人びていて——けれど、確かに晶に似ていた。
「誰なんだ……こいつは……」
アキラが低く呟いた。
その声には、明らかな動揺と、底知れぬ恐れが混じっていた。
「……まるで、俺と……同じ顔をしてる」
僕は、静かに答えた。
「たぶん……お前の“中にあるもの”だよ。晶の中に、ずっと封じられていた“もうひとり”の自分」
アキラは、言葉を失ったまま、目を伏せることもできずに彼女を見つめていた。
(あれは、“あきら”。晶が、女性としての自分を恐れ、封じ込めた存在……)
彼女は、ずっと——この中で眠っていたのだ。
鼓動が早まる。
ここが、“核心”だ。
晶が、本当に向き合わなければならない場所。
そして、僕が“鍵”になるべき場所。
僕はカプセルの前へ進む。
その中で眠る彼女、“あきら”をまっすぐ見据えた。
まるで、時間ごと封じられたような静けさ。
その寝顔は穏やかで、美しく、どこか痛々しかった。
だが、瞼の奥にあるものこそが、晶の“恐れ”なのだ。
「この中にいる彼女を……目覚めさせなきゃいけない気がする」
僕の呟きに、アキラがちらりと視線をよこした。
否定はしなかった。……それが答えだった。
「でも……開け方なんて、分からない」
カプセルの脇には、複雑な端末。
見慣れない操作パネル、文字すら読み取れない暗号のような表示。
けれど、僕の指先がふれた瞬間——
ピリッ、と鋭い感覚が走った。
まるで、精神を拒むような反発。
何かが、このカプセルを守っている。
(……これは、“晶自身の心の壁”だ)
僕は目を閉じる。
あきらという存在に、晶が植え付けた“痛み”や“否定”の記憶。
それを、そっと包み込むように——僕の“心の色”を重ねていく。
(大丈夫。俺が解く。
晶の苦しみも、恐れも、全部……俺が、受け止めるから)
意識の奥から、思念の糸を伸ばす。
そのまま、カプセルを覆う“鍵”へと、ゆっくりと絡めていく。
そして——それを、解き放つ。
──コン。
軽い音とともに、端末が作動した。
小さく、機械の軋む音。
ゆっくりと、封印が……解けていく。
ブシュウッ──と、カプセル内の霧が噴き出す。
そして、彼女のまぶたがゆっくりと開いた。
「あ……」
虚ろな瞳。
だが、その奥には深く閉じ込められた“何か”が渦巻いていた。
彼女は立ち上がり──
「アキラッ!!」
鋭い声と同時に、アキラめがけ手を突き出す。
「っ──!」
反応しきれなかったアキラは吹き飛ばされ、壁に激突した。
「アキラ! 大丈夫か!?」
僕が駆け寄る寸前、視界に透明な障壁が立ちはだかる。
近づこうとする手も、言葉も届かない。
まるで、“男”である僕を拒絶するかのように。
彼女の低い声が、凍りつくように響いた。
「私に、触るな」
怒りではなく、怯えと拒絶が混ざった声だった。
僕は思わず後ずさりしながら気づく。
あれは敵意ではない。晶自身の心の奥底から噴き出した、“恐れ”だ──。
アキラが傷を押さえつつも立ち上がり、僕に言い残す。
「……こいつは危険だ。ただの敵じゃない。お前に任せる」
膝をつくアキラに、僕は強く頷いた。
この“あきら”という存在は、晶の中に封じられた何かの象徴だと、肌で感じていた。
戦うべきではない。触れようとしても、言葉をかけても届かない──ならば、
“心”そのものに思いを届けるしかない。
あきらがこちらを見つめ返した瞬間、空気が鋭く裂けた。
「──ッ!」
胸をえぐる衝撃。体が宙を舞い、金属の床に叩きつけられる。
肺の空気が抜け、左脇に焼けるような痛みが走った。
立ち上がろうとする間もなく、あきらの足音が迫ってくる。
「おまえは……私の中に、いなかった」
感情のない声。得体の知れない異物を見るような、その瞳が僕を捉える。
(俺を、“異物”だと……?)
彼女がゆっくり近づく。殺意さえ宿る足取り──。
「おまえは、誰だ」
叫びそうになる声を飲み込み、必死に後退する。
「違う! 俺は敵じゃない。晶のために──」
「晶?」
その名前で、あきらの瞳がわずかに揺れた。
しかし次の瞬間、彼女が手を振り上げる。
「消えて」
空間がうねり、見えない力が突風のように襲いかかる。
僕はとっさに転がり、壁を抉る爆音を聞いた。
(──駄目だ。このままじゃ、殺される)
どうにか立ち上がり、通路へ駆け出す。
もつれる脚と痛む脇腹に何度もひるみながらも、逃げ場を求めて走る。
背後の気配は、決して消えない。
「待て──あきら、違う! 俺はおまえを──!」
「私の中に、おまえはいない」
その言葉は、冷たく確かな拒絶。
(違う、それは嘘だ……!!)
配線が露出した資材保管庫に飛び込み、コンテナの影に潜む。
足音が一瞬離れた。
(俺は異物なんかじゃない。晶の心に入った。あきらも、晶の一部のはずだ)
そっと身を起こすと、背後にあきらのシルエットが浮かんでいた。
髪をなびかせ歩く姿は、幻影のように美しく──その背中には深い孤独が滲んでいた。
(彼女は怖がっている。触れられること、愛されることを──
それを恐れているんだ、俺という“男”に)
正面突破では届かない。ならば、後ろから──。
気配を殺し、そっと近づく。
汗ばむ掌を震わせながら、肩に手を伸ばす。
「──怖がらなくていい。俺が、おまえを……解放してやる」
その瞬間、彼女の動きが止まった。
怒りも拒絶も、瞳の奥から消え失せた。
小さく震える体。
それは、怒りでも敵意でもなく──悲しみの震えだった。
――ここからが、本当の対話の始まりだ。
<<<9章 【スパイラブ】>>>
僕の腕の中で、あきらの体が、かすかに震えていた。
「……どうして、こんなことを……」
胸元に顔を埋めたまま、彼女がかすれた声で呟く。
「おまえが……誰かもわからないのに……」
「俺は、セブン。晶の中に入り込んできた、ただの異物かもしれない。
でも……おまえが苦しんでるのは、わかる」
そっと背を撫でると、その肩がわずかに跳ねた。
「……誰かに触れられるのが、怖いんだ」
心の奥底から引きずり出されたような言葉。吐き出すたびに、彼女の声が震える。
「ずっとここにいたんだろ? 何も言えずに、誰にも見つけられずに。
忘れられるのを、ただ待ってたんだ」
僕の指が、彼女の頬に触れる。
その肌は、驚くほどやわらかくて温かくて──確かに“生きて”いた。
「だから、俺が伝える。
おまえはひとりじゃない。俺が……おまえを愛する」
彼女の目が、揺れる。
戸惑いと不安、そして微かな希望がないまぜになって、僕を見つめていた。
ゆっくりと顔を近づける。
触れそうで触れない距離で、彼女の吐息が、かすかに震えた。
「……っ」
あきらが、小さく目を閉じる。
そっと唇が触れ合った。
その瞬間、何かがほどけていくように、彼女の体がふるえた。
「や……っ」
拒むように押し返そうとした手は、すぐに力をなくし、僕の胸元に沈んでいく。
深くはない、けれど確かなキス。
触れるだけのそれが、あきらの奥に閉じ込められていた感情を少しずつ溶かしていく。
「だめ……そこ、くすぐったい……」
彼女が、無意識に漏らした声は、戸惑いと羞恥に彩られていた。
僕の手が、彼女の腰にまわる。
背筋を撫でると、あきらがぴくんと小さく跳ねた。
「……っあ、なんか……変な感じが、する……」
彼女の息がだんだんと熱を帯びていく。
けれど、僕はそれ以上は進まない。
今はただ、抱きしめて、彼女の体温を確かめるだけでいい。
「愛されるってのは、怖いことじゃないんだよ」
囁くようにそう言うと、あきらが小さく頷いた。
その頬に、ひとすじの涙が伝う。
「……ありがとう」
その声はかすかに震えていたけれど、確かに“心”がこもっていた。
そして——
背後から、誰かの足音が近づく気配がした。
ゆっくりと振り返る。
そこには、あきらと瓜二つの顔をした青年──アキラが、呆然と立ち尽くしていた。
目を見開いたまま、まるで息を飲むように、つぶやく。
「……あれが、俺……?」
静寂の中に、彼の言葉だけがぽつりと落ちた。
その視線の先には、僕の腕の中で静かに涙を流す、“もうひとりの彼”がいた。
アキラは、一歩、前に進んだ。
その瞳は、目の前にいるあきらを真っ直ぐに見据えている。
「……わからない。でも、胸がざわつくんだ。お前を見ていると」
その声に、あきらがゆっくりと振り返る。
目と目が合った瞬間、彼女の瞳がわずかに揺れた。
「……あなた、誰?」
「たぶん……俺は、お前と同じ存在なんだ」
アキラは静かに歩を進める。
敵意も恐れも、その仕草には一切なかった。
手を下ろしたまま、ただ穏やかに、あきらへと向かっていく。
「お前は、俺の一部だ。いや……俺とお前で、ようやく“ひとつ”なんだと思う」
その言葉に、あきらの目が大きく見開かれる。
「そんな……そんなわけ、あるはずが……」
「あるんだよ」
後ろから、そっとセブンの声が響く。
「晶の中には、お前とアキラ、両方がいる。
女として生きようとした“あきら”と、それを否定し、男として進もうとした“アキラ”。
どちらも、晶の“本当”だ」
あきらの手が、震えた。
「じゃあ……晶が男になったら、私は……私は、消えるの?」
「違う」
アキラが、ゆっくりと手を伸ばす。
「お前は、俺になる。
いや……お前も、元から“俺”だったんだ。
ようやく、それを……受け入れられる気がする」
その手が、そっとあきらの頬に触れる。
あきらの体が一瞬、ぴくりとこわばる。
──けれど。
「……おかえり」
そう呟いたあきらは、やわらかく微笑んだ。
自らの手を、アキラの手の上に重ねる。
その瞬間、眩い光がふたりを包んだ。
音も、時の流れさえも、止まったかのようだった。
そして──
光が収まると、そこにはあきらでもアキラでもない、新たな“存在”が立っていた。
少年のような顔立ちに、大人びた気配。
男とも女ともつかぬ中性的な輪郭の中に、柔らかくも揺るぎない意志が宿っていた。
それは──晶だった。
現実の晶と見た目は少し違う……この世界の晶。
晶は、まっすぐにセブンの方を見た。
「ありがとう、セブン。君がいてくれたから、僕は……本当の自分を受け入れられた」
その瞳に、もう迷いはなかった。
「女として生きることを、僕は選べなかった。
でも、女であることを否定することでもなかった。
どっちも、僕だったんだ」
ゆっくりと歩み寄る晶が、セブンの手をしっかりと握る。
「僕は……僕自身として、生きていく」
セブンは、静かに、そして力強く頷いた。
「行こう、晶。現実へ」
世界が、ゆっくりと揺れた。
──夢が、終わりを告げる。
<<<エピローグ 【再び、歩き出す】>>>
病室。
柔らかな光がカーテン越しに差し込み、壁の時計が正午に近づいていることを告げていた。
僕は椅子に座ったまま、ぼんやりと針の動きを眺めていた。
ベッドの上で眠る晶の表情は穏やかで、呼吸も規則正しい。
こんなにも静かな時間が、いつまで続くのだろう——そんな考えがふと胸をよぎる。
「……アニキ」
かすかな声が耳を打ち、僕は顔を上げた。
晶が目を開け、まだ少しぼんやりとした顔でこちらを見ている。
「おはよう。って言っても、もう昼だけど」
僕が笑いかけると、晶もほんの少し口元を緩めた。
その笑みは小さく、けれど確かにそこにあった。
「うん……なんか、夢見てた」
「どんな夢?」
「うまく説明できないけど……なんていうか、スパイ映画みたいな世界でさ。俺、何かに潜入してて。で……アニキもいた気がする」
晶は眉を寄せながら、まるで断片を探すように天井を見上げた。
夢の記憶は曖昧で、けれど心の奥に色濃く残っているようだった。
「そうか……。なんだか、僕も似たような夢を見た気がするよ」
僕がそう言うと、晶の目がぱちりと開いた。
ほんのわずかだが、その表情に驚きが浮かぶ。
「ホントに? なんかさ、俺、夢の中でアニキと一緒に行動してて……すっごく安心してた」
その言葉は、心の奥からぽろりとこぼれ落ちたような響きを持っていた。
僕は少しだけ目を細め、静かにうなずいた。
「うん。お互い、背中を預けてた。信頼し合ってたね」
「……うん」
晶は頷きながら、しばらく言葉を探していた。
そしてぽつりと呟く。
「夢なのに、目が覚めたら……なんかスッキリしてる。不思議だけど、怖さが少しだけ減った気がする」
「……そうか」
僕はそっと手を差し出した。
晶の手に触れると、それは少しだけ汗ばんでいたけれど、しっかりとした熱があった。
ぎゅっと、握り返してくる力。
小さな決意のように感じられた。
「それなら、今日の検査もきっと乗り越えられるよ」
「……うん」
その「うん」は、さっきよりも少しだけ強かった。
「そろそろ時間みたいだよ。準備、できそう?」
晶は一瞬だけ黙ったあと、静かに深呼吸した。
それから、ベッドの縁に両手をつき、ゆっくりと立ち上がる。
「……うん。行こう」
立ち上がった晶の背筋は、まっすぐだった。
小さな身体に宿る、確かな意思。
それはまるで、何かを越える覚悟を心の奥で固めたように見えた。
★★★
精神科の検査は何も問題なかった。
医師の穏やかな説明に、晶は深く息をついて笑った。
数日後に手術が決まり、彼はそれを、まるで春を迎えるかのように喜んでいた。
そして。
──手術は、無事に終わった。
病室には、やわらかな朝の光が差し込んでいた。
カーテン越しの光が、静かに晶の頬を照らしている。
痛みと疲労の色はまだ濃く残っていたけれど——それ以上に、その顔には、はっきりとした安堵が浮かんでいた。
「……アニキ」
僕が顔を覗き込むと、晶はかすれた声で、小さく笑った。
「終わったよ……ちゃんと、男になれた」
「……ああ。よく頑張ったな」
その言葉に、晶の目元がわずかに潤む。
でもそれは、泣きたいからではなくて、ただ強く何かを乗り越えた証のようだった。
ベッドのそばには、香澄さんと真理子母さんもいた。
母さんは手を口元にあてながら、こらえきれない涙を浮かべている。
それでも笑っていた。喜びと誇りに満ちた、静かな笑顔で。
香澄さんは晶の肩にそっと手を添え、ゆっくりと語りかけた。
「晶……。あなたが、自分を信じて進んでくれたことが、私、何より嬉しいの」
「ママ……」
晶は目を細め、感謝を込めるように、ゆっくりと一度、頷いた。
しばらくして、晶が僕にだけ聞こえるように小さくつぶやいた。
「……夢のこと、細かくは覚えてないけどさ」
「スパイラブスパイも顔負けのミッション……アニキと一緒に戦ってた、それは覚えてる」
「そうだね。僕たちは、共有してた。目的も、覚悟も」
僕が応えると、晶は微かに笑って、握っていた僕の手を、少し強く、けれど優しく握り返してきた。
「……俺たち、相棒だったね。夢の中でも、現実でも」
「ああ。これからも、な。よろしく、相棒」
言葉のあと、しばしの沈黙が流れた。
でもそれは、気まずさではなく、言葉より深い理解の沈黙だった。
僕たちはそっと拳を合わせた。
ごく自然に。言葉がなくても、わかっていた。
窓の外では、風が柔らかく木々を揺らしている。
空はもう、冬の終わりの匂いがしていた。
光は確かに、未来へと伸びている。
晶の顔には、これまでに見たことのないほど晴れやかな色が浮かんでいた。
彼はもう、自分の人生を、自分の足で歩き出している。
その隣に、これからもいられたら——それだけで、きっと十分だ。
BGM:Get Wild
ちゃーらーらー ちゃらんらんららー
ちゃららんらんら ちゃんらんら ちゃーらーららー
おわり