第二話 晶(前編)
今回はちょっと社会派なテーマをベースに、「夢」を通して自己受容を描く物語に挑戦してみました!
難しく考えず読んでもらえたら嬉しいです!
<<<プロローグ 【母との歩み】>>>
母、真理子はゆっくりと歩いていた。
事故で「歩けなくなるかもしれない」と医師に言われた、あの日から。
彼女は手術を経て、歯を食いしばるように、毎日リハビリに取り組んできた。
――その姿を、僕はずっとそばで見てきた。
今では杖も不要になり、退院日も決まっている。
今日も病院の長い廊下を、自主リハビリの一環として歩いている。
「はっ、はっ、はっ……」
額にうっすら汗を浮かべながら、それでも足取りは確かだ。
膝を少し内側に絞るようにして、一歩ずつ、慎重に。
「もう少しだよ、母さん。あのベンチまでいこう」
僕は彼女の隣をゆっくり歩きながら、声をかけた。
「うん、だいじょうぶ……もうすこし……よっこいしょっ!」
ベンチに腰を下ろすと、真理子は息を整えながら笑った。
少し乱れた前髪を、手の甲で払う。
「“よっこいしょ”は歳を感じるなぁ」と僕が笑うと、
「ええ、そうなのよ……私はもうお婆ちゃんなのよ。美樹さんやぁ、ご飯はまだかしらぁ~」
と、真理子はわざと腰を曲げて、震える声を真似てみせた。
「それ、美樹さんの前でやらないでよ。真顔で心配されるから」
僕も苦笑しながら応じる。
「うふふ、あの子、冗談を真に受けるからね」
真理子の目元には、かすかな笑いジワが浮かんでいた。
頬はほんのり赤く、運動の熱が残っている。
でもその笑みは、どこか少女のようだった。
兄さんは母と距離を取っているが、兄の妻・美樹さんや、その娘の美佳のことは、母も心から可愛がっていた。
――家族の形は少し歪かもしれない。でも、今ここにある笑顔は、確かに本物だ。
「ふう……でも、結構歩けるようになったわね」
胸元に手を当て、呼吸を整えながら微笑む真理子。
「最初は生まれたての小鹿みたいにプルプルしてたのに……」
「あーきこえなーい」
耳を塞ぐふりをしながら、真理子は笑った。
彼女の表情に浮かぶしわすら、僕には眩しく見えた。
ほんの少し前までは――
会話はできても、心は閉ざされていた。
声に感情がなく、目はどこか遠くを見ていた母。
でも今は、違う。
こうして一緒に歩いて、他愛ない冗談を交わせて、笑ってくれる。
僕は思う。
あの夢の中で、母の心を救えたんだ。
やってよかった。……本当によかった。
少し休憩するために、僕と母さんは病院の談話室へと向かった。
「母さんはミルクコーヒーでしょ。砂糖多めにしといたよ」
僕は自販機で買った紙カップを手渡す。
母さんはソファに腰を下ろしていて、少し息が上がっているようだった。
「ありがとう。ふふ、好みはちゃんと覚えてるのね」
母は嬉しそうに笑って、両手でカップを包み込むように持つと、そっと口元に運んだ。
ミルクの香りがほのかに立ちのぼる。
僕も自分のブラックを一口啜った。
苦味が舌に残り、喉に落ちる感覚が心地いい。
甘いのは、どうにも苦手だ。
談話室には、控えめなボサノヴァが流れていた。
明るすぎない間接照明と、窓の外の木々の揺れがどこか現実感を薄れさせている。
少しの沈黙ののち、母がぽつりと呟いた。
「そういえば……」
「ん?」
母の表情が、わずかに翳った。
さっきまでの笑みとは違う、何かを気にかけるような面差し。
「あなた、仕事は?」
一瞬、答えに詰まる。
僕の手がカップをくるりと回し始める。
それが答えを濁す動作になっているのは、自分でも分かっていた。
「……別に、何でもいいのよ。お兄ちゃんみたいな、きっちりした仕事じゃなくても」
母の声は静かだったけれど、芯に何かがあった。
「うん」
「でも、私が倒れてから……どうしてたの? 光熱費は引き落としだからいいとして、食費は?」
急に現実的な話になったのが少し意外で、でもどこか安心もした。
なんだかんだで、母さんは僕のことをちゃんと見ていてくれたのだ。
「ネットの広告収入で何とか。昔作ったアニメのまとめサイトが、地味に稼いでてさ」
「あなたの好きだった、あのアニメね? でも、結構前じゃなかった?」
「最近、続編が出て。それでまた注目されてるみたいなんだよ」
母は目を細めて驚いたように笑った。
「そうなの? よかったじゃない」
「うん。考察記事とかも上げてて、そこそこ好評で」
「へえ……趣味がお金になるって、なんだか夢みたいね」
「まあ、微々たるもんだけど……食費と光熱費くらいはなんとかなる」
「ごめんね、そんなことまで全然考えてなかったわ。あとで立て替えてもらった分、渡すから」
「ありがとう、母さん」
僕は、ちょっと照れくさくなって、手の中の紙カップを見つめた。母はそんな僕を見ながら、ふと目を丸くして言った。
「あ、それでね。そのアニメのタイトル……私、今このへんまで出かかってるのよ。す、すっぱい……なんだっけ?」
「スパイラブスパイ」
その瞬間――。
「スパイラブスパイ!?」
談話室のテーブル席、少し離れた場所で漫画を読んでいた“少年”が、勢いよく立ち上がった。
声が反射するように響いて、僕たちの会話に切れ込みを入れた。
短く切った髪、肩の落ちた大きめのパーカー。
細身の体つきで、顔立ちは整っているのに、どこか性別の境界が曖昧な印象を与える。
中性的という言葉がしっくりくる。
でも、目の奥に宿る光は鋭く、年齢の割に妙に大人びていた。
僕は一瞬、言葉を失った。
――誰だ、この子は。
<<<1章 【少年、晶】>>>
立ち上がった少年は、ハッと気づくと、深々と礼をした。
「す、すいません! 俺、スパイラブスパイが大好きで……今も原作読んでたんです、ほら!」
差し出されたのは、まさにそのスパイラブスパイの単行本。
表紙には、謎のスパイ組織に潜入した男女が描かれている。
今やっている第二期のストーリーが掲載されている巻だ。
「へえ、君も好きなんだ、これ」
僕は微笑みながら返す。
内心では少し戸惑いながらも、思わぬところで同好の士を見つけた気分だ。
「そうなんですよ! 俺、特にヒロインのルナが好きで! スパイの時は超クールなのに、サンズと会う時はめっちゃ照れてて……そのギャップがもう、たまらなくかわいくて……!!」
少年は目を輝かせ、早口でまくし立てる。
その語り口からは、この作品に対する圧倒的な熱量が伝わってきた。
「僕は主人公のサンズが好きだな。ルナとの対比で、スパイの時も表情豊かでさ」
「そうそう! サンズとルナのやりとりが、見ててすごく楽しいんですよ!」
少年は嬉しそうに頷き、さらに熱心に語り始めた。
……母さんは黙ってにこにこと話を聞いている。
僕たちの熱い会話を、まるで新しい発見でもしたかのように目を輝かせて見守っている。
「うわあ、詳しいなあ。俺よりすっごい考えて見てるんですね!」
「い、いやあ……何度も見てるから、ついつい考えちゃうだけで」
少年の尊敬のまなざしに、僕は少し気恥ずかしくなる。
でも、こんな風に誰かと作品について語り合うのは久しぶりで、なんだか新鮮だ。
「じゃあ、あの一期の最後の方、二人が銃を交換しあうところの意味も分かりますか?」
「ああ、あれね。考察はいろいろあるけど……」
少年は首を傾げる。
「俺、別に交換しなくても普通に戦えるのにって思って。ちょっと分からないんです」
「あれは色々意見があるみたいだけど、僕は指輪の交換と同じで、二人が将来を誓い合ってるシーンだって思ったよ」
僕は少し得意げに自分の考えを披露した。
少年は目を見開いて嬉しがる。
「うわー……なるほど、そんな見方があるのか……勉強になります!」
「いやいや、あくまで僕がそう受け取っただけだから……受け手の受け止め方次第でいろいろ見方が変わる作品だよね」
「はい! そこがいいんですよね!」
手元のコーヒーが冷めても、もうどうでもよかった。
そんなことより、同じ作品を語れる誰かとこうして盛り上がっているこの時間が、ただただ楽しくて。
ふと我に返ると、母さんが穏やかな笑みを浮かべて僕たちを見守っていた。
「うふふ、楽しそうね」
その視線は、どこか慈しむように、まるで懐かしいものを見ているような優しさを湛えていた。
(……ん? なんだろう、この子を見る母さんの目……)
ただの「元気な少年を見ている」というよりも、何か違う。もっと複雑で、深い感情が混じっているような――。
いや、ここは病院だ。何かしら事情があるのだろう。
「あ! す、すいません、俺、すっげー嬉しくて……つい話しこんじゃいました! お時間取っちゃってすいません!」
少年が急に我に返ったように、ペコリと頭を下げる。
「あら、私は大丈夫よ。それより、あなたこそ平気?」
母さんは優しく微笑みながら、談話室の入り口の方を指差す。
そちらには、母さんより少し若く見える女性が立っていた。僕たちを見ながらも、声をかけづらそうにしている。
「あ、ママ……」
なるほど。あの人が彼のお母さんか。
見知らぬ人と夢中で話す息子に声をかけづらかったのだろう。
「すいません、俺、検査あるんで、これで。あの……アニキって呼んでいいですか?」
突然の申し出に思わず聞き返す。
「え、僕?」
「はい、俺……あ、名前、晶って言うんですけど、あなたのこと、すげー尊敬します!」
その言葉に、むず痒いような照れくささがこみ上げる。
尊敬、だなんて。僕のようなニートに言われる言葉じゃない。
「話の続き、今度またお願いします! それじゃ!」
僕が返事をする前に、勢いよく立ち上がる晶。だが、足元に引っかかったのか――
「わっ」
盛大に転んだ。
「いたた……」
うずくまる晶の背中に手を回し、胸の下あたりに手を添えて引き起こす。
「だ、大丈夫か?」
「あ、あの……」
晶の頬が、みるみる赤くなる。目は泳ぎ、口元はわずかに引きつっていた。
だが次の瞬間、ぶんぶんと頭を振って表情を切り替える。
「じゃ、アニキ、またよろしくです!」
さっきまでの照れはなかったかのように、元気いっぱいの笑顔でそう言って、駆けていった。
軽やかな足取りでお母さんの元へ行くと、彼女は軽く僕に会釈し、二人で病棟の方へと消えていった。
検査と言っていたけれど、元気そうだったな――いや、そう「見える」だけかもしれない。
「はぁ……楽しかったけど疲れた」
感情を一気に使ったせいか、どっと疲労が押し寄せてくる。
母さんはそんな僕を見て、にこにこと笑っている。
「うふふ。勢いのある子ね」
「でも、検査ってことは何か病気なのかな? 元気な男の子に見えたけど……」
「男の子?」
母さんが不思議そうに首を傾げた。
「えっ?」
「今の子、女の子よ」
「ええっ!?」
まさかの言葉に、思わず大声を上げてしまった。
僕には完全に少年にしか見えなかった。口調も、振る舞いも、興味のあるものも……。
「どのあたりで分かったの?」
「どのあたりって……最初からよ。細いけど、胸のラインとか、お尻の丸みとか、あれは女の子の体つきよ」
「そ、そうだったかなあ……? 僕には全然わからなかったよ」
さすが母さん、慧眼すぎる。
でも――思い返してみると、助け起こした時に手に触れた、あの感触。
「あっ……」
気づいた瞬間、背筋が冷たくなる。
(僕、女の子の胸……触っちゃった!?)
即座に悪い妄想が頭をよぎる。
警察に捕まり、連行され、取り調べ室で泣いている自分。
「か、母さん。僕が釈放されるまで……待っててくれる?」
「いや、捕まらないでしょ」
呆れたように笑う母さん。その反応に、少し救われた気がした。
「その後も慕ってくれてるみたいだから大丈夫よ、アニキくん」
「や、やめてよ、母さん……恥ずかしいってば」
「ふふ。いいじゃない。あの子を見てると、私もなんだか元気をもらえる気がするわ」
「そうだね。元気をもらって、もう少し頑張ろうか」
冷めきったコーヒーを一気に飲み干し、空の紙コップをくしゃりと潰してゴミ箱へ放る。
「うふふ。……じゃあ、病室まで、頑張って歩くわね」
ゆっくりと立ち上がる母さんの横に並びながら、ふと呟く。
「でも……あの子、どんな病気なんだろうね」
「さあ……見た目じゃわからないけど……」
僕らはその答えを知らないまま、静かに歩き出した。
冷たい廊下を、病室へと戻っていく。
<<<2章 【告白】>>>
次の日。
病院に着いた僕は、まっすぐ談話室へと足を向けた。
ガラス越しに中を覗くと、昨日のあの子――晶がまた本を読んでいた。
病院に来ている目的は母さんのお見舞い。
でも今日は、先に晶に会いたかった。
スマホを取り出して、母さんにメッセージを送る。
<母さん、談話室で晶と話してるね>
すぐに、にやりと笑ってるのが目に浮かぶような返信が届いた。
<オッケー、どうせなら彼女にしちゃってもいいわよ>
……な、なにを言ってるんだ母さんは。
顔が熱くなる。思わずスマホを握りしめる手に力が入った。
いやいや、晶はああ見えても――というか、そう見えるけど女の子らしいけど――
やっぱり僕にはどうしても「少年」にしか見えない。
でもそんな風に考えるのは、晶に失礼な気もする。
きっと「本人らしさ」をそのまま受け入れてあげるのが一番だ。
「晶、おはよう。また会えたね」
できるだけ自然な笑顔を浮かべて声をかけると、晶の顔がパッと明るくなる。
「あっ! アニキ、おはよ!」
元気いっぱいな声。全身で嬉しさを表現しているようだ。
少し身を乗り出しながら、椅子の背からひょこっと覗くように僕を見上げてくる。
なんだか……やっぱり可愛い。性別うんぬんよりも、人としての可愛げがあるというか。
「アニキ、2期はリアルタイムで見てるの?」
すでに話題は「スパイラブスパイ」に突入していた。
晶のテンションが上がってるのがよくわかる。昨日よりも敬語が減って、ぐっと距離が縮まった感じ。
「いや、いつもは録画だね。次の日には見るようにしてるけど」
僕が答えると、晶は「あーやっぱり!」と何か納得したように頷いた。
なんだか一緒にいると、会話のテンポが自然に合ってくるのが心地いい。
……スパイラブスパイ。
スパイと恋愛を題材にした娯楽漫画だ。アニメ化されて、第一期はかなりの人気になった。
主人公の男スパイのサンズ、女スパイのルナがそれぞれスパイだということを隠し、恋をする。
しかしスパイとしてのミッションでは、互いに顏を隠した二人が戦い合う。
第一期の最終話では、二人は結婚の約束をするも、その後のミッション中に互いの正体がわかってしまう。
そこで二人は……。
『ミッションなんか知るか! 俺は恋を取るぞ!』
『ふふっ……あなたならそう言うと思った』
そこから二人はそれぞれの国の追手からの逃避行、で一期は幕を閉じた。
最近始まったアニメ第二期では、二人は逃げた先々でスパイ任務を引き受けていく、というストーリーだ。
話題の中心は、今まさに放送中のアニメ第二期。
僕たちの会話はどんどん熱を帯びていく。
「2期は原作にない部分、かなり追加されてるよね」
僕の言葉に、晶はちょっと真剣な顔になって、眉を寄せた。
「そうなんだよ。今のところイイ感じだけど、変なシーン入れられたりしないか、俺ちょっと不安……」
わかる。その気持ち、すごくわかる。
「一期は原作に忠実で、そのくせ映像がすごくて人気が出たからね。僕は気にしないけど、オリジナル要素否定派が多いのもわかる」
「あー、それめっちゃわかる。俺も否定まではしないけど、それで作品の評価が落ちるのはやだなあ」
「わかるわかる、そうだよね」
二人して小さく頷き合いながら、気づけばオタク特有の熱量で早口に。
興奮したように手を動かしながら話す晶の姿に、僕もつられて身を乗り出す。
この瞬間だけは、病院であることも、母さんのことも、忘れてしまいそうだった。
……そんな盛り上がりも一段落し、ふと静かな間が訪れる。
空気が少し緩んだその隙に、僕は昨日のことを思い出し、意を決して切り出した。
「晶、昨日はごめん」
談話室の一角。話がひと段落したタイミングで、僕は静かに切り出した。
気まずさが、喉の奥に引っかかるような感覚を残していた。
「え? どうしたのアニキ、何かあったっけ?」
晶はケロッとした顔でこちらを見てくる。
笑顔は自然で、まったく気にしていないようにも見えた。
……でも、だからこそ。僕はちゃんと向き合わなければと思った。
彼女――いや、彼の気持ちを、勝手に想像で済ませたくなかった。
「昨日、晶が転んだ時、その……胸を触ってしまって」
言いながら、自分の顔がじわじわ赤くなっていくのがわかった。
正面から視線を向けられず、少し下を向いてしまう。
「あ……」
晶の表情が一瞬で変わった。
声の調子もわずかに落ち着き、頬からは笑みが消えている。
やっぱり、気にしていたんだろうか。
無神経だった、デリカシーがなかった。僕は慌てて頭を下げる。
「悪かった晶! その、女の子だって知らなくて、助けようと思って……!」
言い訳のように口走ってしまう自分が情けない。
けれど、それでも言わずにはいられなかった。
「アニキ、やめてくれよ」
ピシャリとした声が返ってきた。
晶の目が真っ直ぐに僕を見つめている。どこか怒っているようにも感じた。
「え、いや、でも……」
僕が言いかけると、晶はすっと息を吸い、小さく頷いた。
「でもじゃなくて。俺、男だから」
「え……母さんは、女の子だって……」
「おばさんはそう思ったのかもしれないけど、俺、男だから」
――え?」思わず、口からこぼれた。
「ごめん、今、なんて……?」
晶がゆっくり顔を上げると、俺と目が合った。
それから、もう一度、はっきりと。
「俺は男だって、言ったの」
頭の中がぐるぐる回る。昨日聞いた「女の子」という言葉と、今の「男」という言葉が衝突して、うまく整理できない。
だけど、晶の顔は真剣だった。何かをずっと抱えてきたような、そんな目をしていた。
俺は、何か言おうと口を開いたけれど、言葉が見つからなかった。
僕のその様子を見た晶は……。
「あー。アニキ、ちょっと話聞いてもらっていい?」
落ち着いた口調。どこか、覚悟を持った声音だった。
僕は神妙な顔で頷いた。
「あ、ああ」
晶は少しだけ目を伏せ、そしてゆっくりと話し始めた。
「確かに俺、今のこの身体は女だけど……チンチンついてないけど」
「チンチン……」
耳を疑う言葉に思わず反応してしまう。
普通、女の子――いや、身体が女の子な子からこんな単語を聞くとは思わず、目をパチクリさせてしまった。
「俺、診断では精神的に男だって出てるんだ」
「精神的に男……ジェンダーとしては、ってこと?」
少しだけ戸惑いながらも尋ね返す。
僕なりに、彼の言葉の意味を受け止めたかった。
「そう。トランスジェンダーってやつ」
静かな言葉だった。
けれど、その中には揺るぎない意志のようなものが感じられた。
<<<3章【心の強さ】>>>
トランスジェンダー。
体の性別と心の性別が違う人。
教科書で読んだことがある。性同一性障害……そんな名前だったと思う。
「俺、昔から男の子と一緒に遊んでる方がしっくりしてさ。でも、中学校になったあたりで、遊んでる男の子から女子に見られるようになって」
晶は少し笑ってみせたけれど、その笑顔には切なさが混じっていた。
「そうか……」
僕は頷くことしかできなかった。
「男子とも遊べなくなって、でも女子と遊ぶのもなんか違うし……それで精神的に参っちゃって、病院行ったら、その診断」
「え、すぐ出たの、その診断結果」
思わず聞いてしまう。どれだけ辛かったんだろうと想像して。
「……ま、いろいろ検査やら何やらやった結果だけどね。とにかく、精神的には男なんで、胸触ったくらいでアニキのこと、怒らないから」
その言葉に、少しホッとした。けれど――
「そんなもんなのか? 晶がそういうなら、もう謝らないけど」
軽口のように返してみた。でも本心だった。
晶が許すと言ってくれたなら、それを信じたい。
「ああ、それでいいから」
晶が小さく微笑む。ほんの少し、肩の力が抜けたような気がした。
……でも、許されたと思ったら、脳内にとんでもない妄想が浮かび上がる。
胸を触っても怒らない=いくらでも触っていい……?
「……バチンッ!」
自分の頬を叩いた音が響いた。
「ど、どうしたのアニキ! 自分のほっぺ叩いたりして!?」
晶が目を丸くする。
「ごめん晶。煩悩退散させただけだ」
言いながら、頭の中の邪念をかき消すようにもう一度深呼吸。
「いや、何言ってるかさっぱりなんだけど」
呆れ顔で突っ込んでくれる晶。
その顔が、ほんの少しだけ、赤く見えたのは気のせいだろうか。
「とりあえず晶が男だってのは叩き込んだからさ」
僕がそう言うと、晶は少し面食らったような顔をして、すぐに小さく笑った。
「さ、サンキュ……それで、話、戻していい?」
「うん」
頷くと、晶は姿勢を正し、少し緊張した面持ちで話し始めた。
さっきまでの軽口とは打って変わって、彼の目は真剣だった。
「それで、俺……今度、性適合手術受けるんだ」
静かな言葉だったが、その一言は、僕の胸にずしんと響いた。
性適合手術。
「ああ……性転換手術ってやつか」
口にした瞬間、その重さをようやく理解する。
晶は静かに頷きながら、どこか誇らしげな表情を浮かべた。
「そう。それで、今いろいろ検査してる最中でさ。それがオッケーなら、手術できるんだ」
自分の未来をまっすぐに見つめるその姿勢に、僕は胸を打たれた。
「なるほどね……」
言葉を返しながら、心の中で少しずつ、現実を咀嚼していく。
晶は、これから“本当の自分”になるための大きな一歩を踏み出そうとしている。
まだ年齢でいえば、少女……いや、少年なのに。
自分を見つめ、未来を選び取ろうとしている。すごいな。
それに比べて僕は……。
いまだにニートで、進む道すら見えていない。
胸の奥に重たいものが沈んでいく感覚。
それを見透かしたかのように、晶の表情が曇った。
「でもさ……これまで何回か、手術は延期になってて」
「延期?」
僕は思わず聞き返す。晶は目を伏せ、苦笑いを浮かべながら続けた。
「最終的にオッケーが出ないんだ。精神面での検査で不安定だって出て、それで『今回はやめとこう』ってなってるんだよ」
「不安定になるのか……自覚はあるの?」
「いんや、俺はずーっと『早く男になりたい!』って思ってるんだけどなぁ……」
言葉の端に、焦りと戸惑いが混ざっていた。
「手術自体をどっかで怖がってるのかなぁ」
その一言に、僕は言葉を失う。
たしかに――命をかけるような手術だ。それを“怖くない”と思える人なんて、いるんだろうか。
「うーん……僕がそういう手術をするとしたら……」
……ちんちん、すぱっと切る。
「……ヒィッ」
想像してしまい、背筋がぞわっと震える。顔を青くして体を硬直させてしまった。
「何怖がってるんだよアニキ。手術を受けるのは俺だってば」
晶が呆れたように言う。少し笑ってくれていて、ほっとした。
「ご、ごめん。変な想像しちゃって」
自分の想像力のせいで、またしても失礼な態度を取ってしまった。
頭を下げながら、自分の未熟さを噛みしめる。
でも――
「でも、本当に早く、ホンモノの男になりたいんだ。……アニキも俺にちょっと遠慮してるとこ、あるだろ」
晶がふいに真っ直ぐな目でこちらを見てくる。
その目には、揺るぎないものが宿っていた。
「あー、うん。否定はできない……」
素直に認めるしかなかった。
どこかで“女の子扱い”してしまっていたのは、確かだったから。
「皆、そういう風にしてるの、わかるんだ。気兼ねなく俺に接してほしいから、だから……」
言葉の終わりは少し曖昧だったけれど、その想いはしっかり伝わった。
僕は、言葉を選ばずに返した。
「晶は偉いな」
「偉い?」
少し驚いたような声。首をかしげる晶に、僕は笑って答える。
「ああ。自分のことをきちんと理解して、正直に言えて。本当に偉いと思う」
少しの間、晶は僕の言葉をじっと受け止めていた。
その瞳がわずかに揺れ、頬がほんのり赤く染まる。
「へへ、アニキに褒められて、なんかすげー嬉しい」
少年のような笑顔。
でもそこには、今まで見せなかった、どこか素直な、弱さと誇りが混じっていた。
4章 【母たちの思い】
談話室に、控えめな電子音が響いた。続いてスピーカーから、女性のアナウンスが流れる。
「○○病院・内分泌外科より、柊木晶さん、三階・面談室までお越しください」
その名前を聞いた瞬間、晶がピクッと反応した。
「……あ、検査結果の話かも。前に言ってた、手術に向けてのやつ」
晶が少し緊張したように立ち上がる。
「そっか。行ってらっしゃい。いい結果だといいね」
僕が声をかけると、晶はにっと笑って、いつもの調子を取り戻したようだった。
「うん、ありがとうアニキ。また話そな!」
軽く手を振って、晶は談話室を出て行った。その背中が、どこかいつもより大人びて見えた。
彼の姿が廊下に消えたその直後だった。
「すみません」
背後から声をかけられ、振り返ると、一人の女性が立っていた。
昨日、晶と一緒にいた人。彼の母親だろう。
「ちょっとだけ、お話、いいですか?」
どこか申し訳なさそうな笑みを浮かべながら、しかし真剣な目で、そう言った。
「あ、はい、なんでしょうか」
少し緊張しながら返事をする。
「私、晶の母の柊木 香澄と申します」
「あ、ご、ご丁寧に。僕は……」
互いに自己紹介を済ますと、香澄さんは少し微笑む。
「昨日、今日と、晶がお世話になっていますね」
晶のお母さん……香澄さんは、どこか品があって、でも話しやすそうな人だ。
僕の母さんとも違う、優しさ、柔らかさを感じる。
「いえ、こちらこそ。晶くんと楽しく話して、僕の方がいろいろ教わったくらいで……」
「教わったって、スパイラブスパイのことですか?」
「あ……はい、まあ、そんなところです」
少し照れて答えると、香澄さんはくすっと笑った。
「私も、晶からしっかり布教されて、漫画を一通り読みました。ふふ、確かにあの子が夢中になるのもわかりますね」
ああ、やっぱり。晶は僕との会話のこと、話していたんだな――そう思うと、少しだけくすぐったい気持ちになる。
「ところで……今、あなた『彼』って言いましたよね。晶から話は……?」
「ええ。さっき、本人から聞きました。男になるために、手術を受けるって」
その言葉に、香澄さんの表情が一瞬だけ翳った。
けれど、それは反対や拒否の色ではなかった。ただ、息子の未来を思ってこその複雑な感情がにじんでいるように見えた。
「晶は……本当に優しい子で。私たち家族にも、ずっと自分の気持ちを隠していたんです。打ち明けてくれたのは、ほんの最近で」
「……そうだったんですね」
香澄さんは一度、目を伏せて深く息をついた。
「正直に言えば、私は今でも不安があるんです。もしも――もしもあとで、『やっぱり女のままがよかった』なんて思ったら……手術は、元には戻せませんから」
「それは……確かに」
僕も自然に真剣な顔になっていた。
晶の決意は本物だ。でも、親としての心配も、痛いほどわかる。
「……それでも、晶が自分の意志で進もうとしているなら、私は、母として見守るしかないと思っています」
香澄さんは僕の目を見て、はっきりとそう言った。
その瞳は、揺れながらも、確かに強い光を宿していた。
「……すごいと思います」
思わずそう呟いた僕に、彼女は優しく微笑んだ。
「男でも女でも、どちらでもいいんです。あの子が、あの子らしくいられるなら――それが一番だから」
香澄さんは、そう言いながら柔らかく視線を落とした。手元で指を組みながら、少しだけ震えているのが見えた。
「……お母さん」
なぜか、その一言が口からこぼれた。僕のお母さんじゃないのに。
香澄さんは目をぱちりと瞬かせて、それからふっと頬をゆるめた。
「ふふ、ありがとうございます。晶の周りに、あなたのような方がいてくれて、本当に心強いです」
「いえ……僕なんて、趣味の話で盛り上がっただけですから」
思わず頭をかいて、照れたように笑った。
「それでも、です」
香澄さんは静かに首を振り、テーブルの上に視線を落とした。
少し考えるように間をおいて、言葉を続けた。
「手術が近づくと、あの子、どこかで不安が出るのか、検査で引っかかってしまって……」
「さっき、晶からもその話を聞きました。今日の検査の結果を聞きに行ったみたいですけど……」
僕がそう言うと、香澄さんは小さくうなずいた。
「ええ、実は私、もう聞いてるんです。内分泌の検査は、無事にクリアしました」
「……じゃあ、いよいよ……」
驚きと少しの緊張が混ざった声が、自分の口から出た。
「最後に、明日、精神科の検査があります。それをパスすれば、数日後に手術日が決まる予定です」
香澄さんの声がわずかに揺れる。目線がテーブルの角に落ちたまま、言葉を探しているのが伝わってきた。
僕は背筋を伸ばし、静かに彼女の言葉を待った。
「……もし、差し支えなければ。明日も、晶のそばにいていただけませんか?」
顔を上げ、まっすぐこちらを見るその目には、強さと不安が同居していた。
「僕が、ですか?」
思わず問い返すと、香澄さんは静かにうなずいた。
「ええ。あの子、自分では平気って言っていても……やっぱり、誰かがそばにいてくれるだけで、安心できると思うんです」
手を膝の上で握ったまま、声はあくまで穏やかだったけれど、そこには確かな願いが込められていた。
僕は――迷うことなく、うなずいた。
「……わかりました。明日も、来ます」
その瞬間、香澄さんの顔がぱっとほころんだ。
「ありがとうございます」
彼女の微笑みが、ふわりと花のように広がった。
その笑顔を見て、なぜか胸の奥がじんわりと温かくなった。
言葉にはできないけれど、大切なものを手渡された気がした。
★★★
僕は母さんの病室に戻ると、晶や香澄さんと話したことを伝えた。
……どうせ根掘り葉掘り聞かれるのなら、先に言っておく方がいい。
「そうなの……。晶くん、かわいいのにねえ……」
母さんはベッドの上でごそごそと身を起こしながら、妙にしんみりとした声で言った。
「かわいいかどうかは関係ないでしょ」
僕が少し眉をひそめると、母さんはわざとらしく枕に顔を伏せ、くぐもった声で続けた。
「でも、せっかくあなたの彼女になってくれそうな子を見つけたのに……よよよ」
「よよよ、じゃないよ!」
思わず笑ってしまいながら、枕の角を軽くつついた。
母さんはすぐに顔を上げて、いたずらっぽく笑う。
「冗談よ。でも……見た目よりずっと大人な子なのね」
「……うん。僕より、ずっと大人かも」
そう言った瞬間、自分でも少し照れた。
母さんはにんまりと笑うと、容赦なく僕の背中をばんばん叩いてくる。
「あなたも相手のことをちゃんと考えてあげられる大人よ。もっと自信を持ちなさい」
「……うん」
ちょっと照れ臭くて、視線を足元に落とした。
でもその言葉は、心にじんと染みた。
「それじゃ、明日は晶くんのそばにいてあげなさい。私は大丈夫だから」
母さんは優しくうなずいて、枕の上に手をそっと置いた。
「わかった」
短く答えながら、どこか背筋がしゃんとした気がした。
「……でもね。今までダメだったのに、あなたが一緒にいるだけで、うまくいくのかしら」
「それ、僕も思ってるよ。僕なんかがいて、何か変わるのかなって」
母さんは首を横に振った。
目を細めて、まるで何かを思い出すように、柔らかく微笑んだ。
「あなたはね、自分が思う以上に、人を支えてるの。そこは、ちゃんと信じていいのよ?」
「……うん」
再びうなずいた。言葉よりも、その眼差しに背中を押された気がする。
母さんがふと真顔になり、顔を少し傾けて言った。
「それより、ちょっと気になるのは……晶くんの心の奥に、何か抱えてるものがあるんじゃないかってこと」
「心の……奥に?」
母さんは少し照れたように、頬に手をあてた。
「……前に、囚われの身から助けられた夢の話、したでしょ?」
「ああ、うん。聞いたよ」
――聞いた、というより、実際にその中で助けたんだけど。もちろん母さんは知らない。
「そのあと、不思議なくらい気持ちが軽くなってね……。希望が持てるようになったの」
「それからだもんね、リハビリ頑張ろうってなったの」
「そう。でも、気づいたの。あの時の私は、何か――自分でもわからない不安や心配事を、心の奥にずっと抱えていたんじゃないかって」
母さんの手が、胸のあたりに自然と伸びた。
その指先が、そっと服の上から触れるように止まった。
「それがトゲみたいになって、心に刺さってたんじゃないかって」
「トゲが母さんの心に刺さってた……?」
僕も自然と胸のあたりに目を落とした。
見えないけれど、そこに確かに何かがあるような気がした。
「そう。無意識のうちに、それがずっと私を縛ってたんだと思うの。晶くんも……もしかしたら、そういうものを抱えてるのかもしれないわね。あなたがそばにいるだけでも救われると思うけれど……その“心のトゲ”は、どうしたらいいのかしらね」
母さんの言葉が、静かに病室の空気に溶けていく。
心の中、か――。
「……ふふ、最近もその夢の中の“彼”に会うのよ。聞きたい?」
「それは……また今度にしておこうかな」
「ええ〜、ちょっとだけでも聞いてよ〜」
母さんが布団を抱えてくすぐるように笑う。
僕は苦笑いを浮かべながら視線を逸らした。
その“彼”は僕じゃない。
母さんが「会いたい」という願いが、夢の中で形を取って現れているんだろう。
……それよりも。
晶の心の中。
もし僕が――晶の夢の中に入っていければ。
晶の中にある、その“トゲ”を……僕が、抜けるかもしれない。
<<<5章 【夢の中へ】>>>
翌朝。
病院の廊下には、朝の光と消毒液の匂いが混じり合った、少し冷たい空気が漂っていた。
僕は静かにその中を歩き、晶の病室へ向かっていた。
付き添いでもない僕が今日ここに来られたのは、香澄さんが病院側に特別に掛け合ってくれたおかげらしい。
ドアの前で一呼吸置き、そっとノックしてから中に入る。
「晶、来たよ」
「――あ、アニキ。いらっしゃい」
ベッドの上で窓の外を見つめていた晶が、ゆっくりと顔をこちらに向けた。
その目元には少し曇りがあり、口元には不安がにじんでいた。
昨日まで見せていたあの明るい笑顔が、今日は少し影を潜めている。
胸が、少しだけ締めつけられた。
「ママから聞いたよ。アニキに頼んだって……ごめんね、こんな時に」
「いや、気にしないで。それより……今日が検査の日なんだろ?」
僕は静かにベッドのそばの椅子に腰を下ろした。
シーツの張り具合や、室内の機械の微かな音が、病院という現実を改めて思い出させる。
「うん。今朝の予備検査では問題なかったから……本番は、昼過ぎから精神科の検査」
晶は検査用の薄いガウンを身につけていた。
その布越しに見える身体は細く、それでも――胸元がわずかに膨らんでいるように見えた。
僕の視線が思わずそこに向かってしまう。
ハッとして、慌てて目線を逸らす。
見てはいけないものを見たような、そんな気持ちに似ていた。
「晶、不安……なんだよな?」
「……うん、まあ。正直言うと、これまでクリアしてない検査だから……変に身構えちゃってるのかも」
笑いながら言った晶の声は、どこか頼りなく、それでも昨日よりずっと繊細だった。
少年のように無邪気だった昨日の晶とは少し違って、まるで少女のように――揺れているように見えた。
僕がじっと見つめていると、晶が眉をひそめ、少し頬を染めた。
「……な、なんだよアニキ。そんなに見んなって」
「あ、いや……ごめん。なんか今日は、ちょっと雰囲気違うなって思って」
「俺もそう思う……へへ。少し大人びた?」
冗談っぽく笑う声に、ほんの少し、芯の強さが混ざっていた。
――『心に刺さってたトゲ……無意識のうちに、それが私を縛ってたんだと思うの』
昨日、母さんが言っていた言葉が、ふと脳裏をよぎる。
晶の中にも、もしかしたら――そんな“心のトゲ”があるのかもしれない。
それが今日の検査に関係しているのなら、僕にできることは……。
「晶、少しでも緊張が取れるなら……ちょっと寝てみたらどう?」
「え? アニキがいるのに、寝るなんて失礼かなって……」
「そんなことないよ。少しでも休んだ方が、きっと検査のときに落ち着ける」
僕が笑いかけると、晶はほんの少しだけ、口元を緩めた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて。ちょっとだけ」
ベッドに横になると、晶は枕に頭を沈め、それからゆっくりと手を伸ばしてきた。
僕は迷わずその手を握った。
思ったよりも小さくて、でも確かに――晶の体温が感じられる。
「アニキの手、あったかい……」
「手があったかいやつは、心が冷たいんだぞ」
「へへ、それ……サンズのセリフじゃん。ホントは心もあったかいくせに」
ふふ、と笑ったあと、晶のまぶたがゆっくりと閉じられていく。
まるで春の風が落ちるように、彼女の呼吸が穏やかになっていった。
僕はそのまま手を握り続け、そっと目を閉じる。
手の温もりを通して、晶の心の色を想像した。
曇った空のような、やわらかな灰色の中に、自分の色をそっと差し込んでいく――。
胸の奥が、ゆっくりと沈んでいく感覚。
体から意識がふわりと浮かび上がるような、不思議な感覚が訪れる。
――ああ、また来た。これは、あの時と同じだ。
瞼を開くと、そこは淡い霧に包まれた、無音の世界だった。
足元には、一本の青白い光のラインが、まっすぐ先へと伸びている。
――この道をたどれば、晶の心の中に行ける。
僕は、ゆっくりとその道を踏み出した。
後半はスパイ映画風の夢の世界になります!
続けて読んでみてください!