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女主人達の異世界グルメ

菓子司ハルモニアの甘やかな日々

作者: 百鬼清風

 あの日、ひときわ風の強い午後のことだった。

 私はひとり、砂糖菓子の仕上げに気を取られていたせいで、扉の鈴が鳴ったことにも気づかなかった。


「…すまない、入っていいかい?」


 低く、掠れた声。振り返れば、店の入口に影を落とすようにして男が立っていた。灰銀の髪に、旅装束。土と夜の匂いが、ドアの隙間からふわりと漂ってくる。


「はい、どうぞ。菓子の香りに惹かれて来られたんでしょうか」


 私は手を止めて微笑む。こんな辺境の街、しかも丘の上の古びた菓子店を訪れる旅人なんて、ひと月に一人いればいい方だ。


 男はしばらく無言で辺りを見渡したのち、カウンター前の椅子に腰を下ろした。その動作一つにも、疲れが滲んでいる。


「…甘いものは、あまり得意じゃないんだが」


「それは残念。けれど、それでも食べたくなるときがあるのが、お菓子です」


 言いながら、私は棚から一つ、小さな琥珀色の羊羹を取り出した。蜂蜜と果実を煮詰め、淡い月光のように仕上げたそれは、見た目こそ素朴だが、苦みと甘みの余韻が絶妙なのだ。


「“月の蜜”と呼んでます。疲れた旅のあとに、一番合う一品かもしれません」


 男は黙って手を伸ばし、ひとくち口に含んだ。そして、眉がわずかにほどける。けれど、目元の陰は晴れないままだった。


「…なるほど。これは、忘れてたものを思い出しそうになる味だ」


「それは褒め言葉でいいのかしら」


 私は冗談めかして言ったが、男はそれに答えず、どこか遠くを見るような目で窓の外を見つめていた。まるで、その視線の先に、もう戻れない街でもあるかのように。


 この町の名はミルメル。王都から西に十日、山と湖に囲まれた小さな町で、ここに来るには理由が要る。

 そしてこの店、「菓子司ハルモニア」もまた、理由を持つ者しかたどり着けない、不思議な場所なのだ。


「名前を聞いても?」


 私が問いかけると、男はようやく小さく息を吐いた。


「…レオン。旅をしてる、だけの男さ」


「私はイヴ。この店の主よ。菓子職人で、話し相手でもあるの」


 その日から、レオンは毎日、ふらりと現れては一つだけ菓子を口にするようになった。時には酸味のきいた果実タルト、時にはやわらかな胡桃のクレーム。


 そして、少しずつ、彼の言葉の端に、過去の影が差し込むようになっていった。



「かつて、菓子職人だったんだ。けど、今は…」


 ぽつり、そんな一言をこぼした日もあった。


 誰もが、甘いものに弱いわけじゃない。けれど、心に残る味というものが、誰にでもあると私は信じている。


 この町で、菓子とともに暮らす私は、そうした誰かの記憶に、少しだけ触れることができる。


 そして、レオンの口数が増えてゆくにつれ、私は気づいたのだった。

 この人に、もっと菓子を届けたいと。甘やかな記憶の奥に隠された、彼の本当の味を、探し当てたいと。



 扉の鈴が、また鳴った。


 その音を聞くだけで、レオンだとわかるようになってきた。重すぎず、でも決して軽くもないその足音。外套についた土埃の匂い。ほんの少し、夜の気配を連れてくるあの人。


「おはよう、イヴ」


「おはようございます。今日は少し早いですね」


「…眠れなくてね。気づけば足がここに向かっていた」


 私は笑い、ちょうど焼き上がったばかりのキャラメルタルトを一切れ、彼の前に置いた。香ばしい焦げと、苦甘い香りがふわりと立ちのぼる。中には砕いたナッツを混ぜ込んで、歯ざわりを遊ばせた。


「これは?」


「“旅のあとの一切れ”って、名前にしようかと思ってるの」


 レオンは眉をひそめるようにして、その名を口の中で転がした。


「…風変わりな名前だな」


「ええ。でもあなたの顔を思い浮かべて作ったの。そういう味」


 冗談のように笑ってみせると、彼は驚いたような顔をしてから、すぐに視線を逸らした。まるで、照れているような、あるいは何かを思い出してしまったような。


「…昔、キャラメルを焦がしたことがある。あれは最悪だったな」


「うっかり、ですか?」


「…いや。わざとだ」


 レオンの言葉に、私は少しだけ手を止めた。


「完璧すぎる味ってのは、どこか怖くてな。…傷を隠したがる料理人の癖だって、誰かに言われた」


「ふふ、それは甘いものに対する大罪ね」


 私は冗談まじりに返しつつも、心の奥に棘のように引っかかる何かを感じた。レオンは、過去に何を焦がしたのだろう。菓子か、関係か、それとも——夢か。


 彼がキャラメルタルトを口に運ぶと、その表情がすこし緩んだ。


「…これなら、焦がす必要もないな。程よく苦い。だけど、後からきちんと甘さが来る」


「ありがとう。でも、甘いだけじゃ、菓子じゃないでしょ?」


「…そうかもしれない」


 それからしばらく、二人で静かにキャラメルの香りに包まれていた。店の中には他に客もなく、時折風の音と、外を歩く鳥の羽音だけが、私たちの時間を縫っていく。


「イヴ。…お前の菓子には、なんというか、記憶を閉じ込める力があるな」


「それは、誉め言葉と受け取っていいのかしら」


「…まだわからない。でも、お前の作る甘さは、俺を居心地悪くさせない」


 その言葉は、そっと胸の内に置かれた贈り物のようだった。開けてみるのが惜しくて、ただ手の中で温めていたい、そんな言葉。


「じゃあ、次はどんな記憶を閉じ込めましょう?」


「…そうだな。焚き火のそばで食べた、冷えた干し柿の味。あれが、なぜか今でも忘れられない」


「焚き火と干し柿…難題ね。でも面白いわ。ちょっと挑戦してみようかしら」


 レオンはわずかに口元を緩め、外の空へと目を向けた。


 その横顔を見つめながら、私は思う。

 この人がまたどこかへ旅立つ前に、私はいくつの“記憶”を、菓子に込めて届けられるだろうか。



 夜が更けると、いつもと違う空気が店内に漂う。風が木の間をすり抜けていく音が耳に届き、窓の外には、街灯がぽつりぽつりと灯り始めていた。


「イヴ、あの店のケーキ、食べてみたいな」


 レオンがふっとつぶやいた言葉に、私は思わず顔を上げた。彼がそう口にするなんて珍しいことだ。少なくとも、今まで彼が他の店を気にするところなんて見たことがない。


「どこの店ですか?」


「道を少し歩いたところにある、老舗の洋菓子店だ。そこが出している、季節のフルーツを使ったケーキが気になるんだ」


「それは興味深いわね。でも、私が作るもののほうが美味しいと思うけど」


 レオンは苦笑いを浮かべながら、また窓の外を見つめた。


「…それはわかってる。だが、気になるんだ。あの店のケーキ、どんな味がするのか」


 私も、少し考え込んだ。彼の興味を引くものには何かがあるのだろうか。それとも、ただ気まぐれで言っただけなのか。いずれにしても、その言葉が私の中にちょっとした疑問を生んでいた。


「今日はそのケーキを食べて、明日からまた、あなたの作るものを食べるの?」


 レオンは答えずに、静かに立ち上がると、扉の前に足を向けた。私も立ち上がり、彼に続く。


「ちょっと歩いてくるだけだ。すぐに戻るよ」


「それなら、途中で気に入ったものを持ってきて」


「それも悪くないな」


 そして、レオンは店を出て行った。外の寒さが少しだけ私の肌に触れ、無意識にコートの襟を立てた。しばらくして、店の中はまた静けさを取り戻し、私はその空気に包まれながら、作業を再開した。


「どうしよう、また、彼に食べさせたくなるものを作りたくなった」


 そんなふうに、ひとりごちてみる。それも、悪くない。


 次の日、レオンが帰ってきたのは昼過ぎだった。彼の手には、小さな包みが握られている。


「さあ、これだ」


 私の目の前に置かれたのは、薄桃色のケーキ。フレッシュな桃がふんだんに使われ、淡いクリームがその上を覆っている。食欲をそそるような甘い香りが、ほんのりと漂う。


「どうだった?」


 私は包みを開け、ケーキを取り出しながら尋ねた。レオンは黙ってそのケーキを見つめ、しばらく考えるようにしてから、口を開いた。


「…驚いたな。とても軽やかで、でもしっかりとした甘さがあって、口に入れると桃の風味が広がる」


「つまり、良かったということ?」


「うん、思っていたよりも美味しい。まさか、こんなに綺麗に仕上がるとは」


 私はにっこりと笑った。


「じゃあ、私のも食べてみて。もしかしたら、あなたの口に合うかもしれないわ」


 私は自分の作った、特製の桃とキャラメルのパイを差し出した。ほんのり焦げたキャラメルの香りが、パイ生地と桃と相まって、心地よい甘さを演出している。


「お前の菓子は、いつもそうだな」


 レオンは少しだけため息をつきながら、そのパイを一口食べる。


「…桃の味が広がる前に、キャラメルの苦みが感じられる。これがまた、甘さを引き締めている。うまい」


「だから、やっぱり、私の方が一枚上手?」


「まさか。でも、いい勝負だ」


 私たちはお互いに微笑み合いながら、静かな時間を楽しんだ。外の景色が夕暮れ色に染まり、店内には温かな灯りがともり始める。


 その時、私はふと思った。


 レオンが過去にどれほどのことを経験してきたのか、そのすべてはわからない。それでも、こうして彼と一緒に過ごす時間が、私の中で大切なものになりつつある。


 ただ甘いだけの世界ではない。そこには、思い出と一緒に紡がれてきた苦みがある。それを感じながら、また一歩一歩、彼と共に歩んでいくことができるのかもしれない。


 春の風が、店の扉を軽く開けるたびに、穏やかに室内へと流れ込んでくる。桜の花が咲き誇り、街全体がその柔らかな色に包まれていた。今日もまた、静かな午後が始まった。


「イヴ、手伝ってもいいか?」


 レオンが私の作業台に近づいてきた。彼のその言葉に、私は微笑みながら振り返る。


「もちろん。今日は特別な日だから、私ひとりで作るわけにはいかないもの」


「特別な日?」


「今日、お店を開いてからちょうど1年になるのよ」


 そう言いながら、私はカウンターの上に置いた小さなケーキの箱を眺めた。その箱には、私たちが作ったケーキのサンプルが並んでいる。今の私たちが一番誇りに思っている、手作りのケーキたちだ。


「1年か…。早いな」


 レオンは、少し感慨深げに言った。そして、私の横に並ぶと、一緒にケーキの準備を始めた。


「こんなに長く続けてこれたのも、君がいてくれたからだよ」


 「そう言ってもらえると嬉しいけれど、私だって君がいたからこそ続けられた。お互い様よ」


 仕事の合間に、私たちは軽い会話を交わしながら、次々とケーキを仕上げていった。今、こうして並べられたケーキたちは、どれも愛情を込めて作ったものばかり。レオンと私、二人の手で作り上げた作品。


「このケーキ、君の作ったキャラメルと桃のパイ、すごく美味しかった。あのパイにはちょっと驚いたよ」


「それなら良かったわ。でも、やっぱりレオンの作るケーキも好き。あのフルーツを使ったやつ、私は意外と好きよ」


「やっぱり、君の方が上手だな」


「それ、何度目?」


 私たちは笑い合いながら、最後のケーキを仕上げる。その頃には、店の中にもお客様が何人か訪れていて、静かな活気が流れ始めていた。


「イヴ、外、見てみて」


 レオンが窓の外を指さしながら、そう言った。私は視線を向けると、桜の花びらが風に舞い、空にふわりと舞い上がっているのが見えた。


「桜の花が散り始めたのね」


「うん、春だな」


 その瞬間、レオンがふと真剣な顔をして私を見た。


「イヴ、実は…」


 私はその表情に少し驚きながら、彼の言葉を待った。レオンは深呼吸をひとつしてから、言葉を続けた。


「ずっと考えていたんだ。君と一緒にこの店を、もっと大きくしていけたらいいなって。君がやりたいことを、俺も一緒に支えられたら、きっともっと素晴らしい店になると思うんだ」


 その言葉に、私は少し驚き、そして温かな気持ちが心の中に広がった。


「本当に?」


「もちろん。君が作るお菓子は、どれも本当に美味しい。それに、君が心を込めて作っている姿が、俺は好きだ。だから、ずっと一緒にいたいと思ったんだ」


 私の胸は、温かな感情でいっぱいになった。彼の言葉が、じんわりと私の心に染み込んでいく。


「私も、君と一緒にいたい」


 そう答えると、レオンの顔がふっと緩んだ。


「じゃあ、これからも一緒にやっていこう。お店を、大きく、そして幸せな場所にしていこう」


 その言葉に私は頷き、少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。


 そして、私たちはその日の午後、静かに店を開ける準備を進めた。桜の花が風に乗って舞い散り、春の暖かい光が店内に差し込んでくる。今、私たちの小さな店は、これからもずっと続いていくのだと思うと、胸が熱くなった。


 これからも、レオンと一緒に、甘い未来を築いていけることを信じて。


「イヴ、ケーキがもう少しで出来上がるよ」


「うん、もう少しね」


 店の中で流れる甘い香りに包まれて、私は静かにその時を迎えた。




おしまい

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